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徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情(東洋経済 作家・大村大次郎)

2020-09-10 | 日本の歴史

2020.09.05
徳川初代将軍・家康はなぜキリスト教を徹底的に弾圧したのか?(写真:Photology1978/PIXTA)


江戸幕府260年の基礎を築き上げた初代将軍・徳川家康。彼はなぜキリスト教が日本に普及することを恐れたのか?  元国税調査官で、作家の大村大次郎氏による新刊『家康の経営戦略』より一部抜粋・再構成してお届けする。

 

豊臣秀吉の後を継いだ徳川家康は、当初キリスト教の布教に寛容だった。家康は、征夷大将軍になったとき、イエズス会やキリスト教勢力と和解している。「秀吉が壊した外交関係は一旦、修復させてみる」というのが家康の方針だったようだ。

が、あるときを境に、キリスト教を全面的に禁止することになる。しかも、それは秀吉のときの「バテレン追放令」のように「自発的にキリスト教を信仰する分には構わない」というような緩いものではなく、キリスト教を完全に禁教にしてしまうのだ。


■家康がキリスト教を「禁教」にした理由


家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。

その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。

しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。

戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。

当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2~4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100~200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。

このキリスト教の広がりは、じつは大きな利権が絡んでいた。天下人や戦国武将たちにとって、ポルトガルやスペインとの交易は、大きな旨みをもたらしていた。が、それには必ずキリスト教の布教が付随していたのである。

15世紀から16世紀にかけ、ポルトガルとスペインは、世界各地への航路を開拓し、手広く貿易をおこなったが、この貿易には、キリスト教の布教がセットになっていた。


■なぜキリスト教が世界を席巻したか? 


ローマ教皇は、ポルトガルとスペインに対し、キリスト教を布教することと引き換えに、世界をポルトガルとスペインで二分する許可を与えた。この命により、両国は世界中に植民地を持つ代償として、各地に宣教師を派遣し、教会を建設する義務を負ったのである。

ポルトガルとスペインの交易船には、宣教師も乗っており、新しく交易を始める土地では、必ず布教の許可を求めた。布教を許可した土地のみと、交易を開始したのである。

彼らが日本に来たときも、取引をおこなう条件として、キリスト教の布教許可を求めた。諸大名たちは、南蛮船と交易をするために、キリスト教の布教を認めた。そのため、戦国時代にキリスト教が爆発的に広がるのである。

当時の南蛮貿易は、西洋の珍しい文物を運んでくるだけのものではなかった。というのも、日本に来る南蛮船のほとんどは、マカオや中国の港で積んだ物資を持ってきていたからだ。

すでに鉄砲の製造は日本でもおこなわれていたが、鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼るしかなかった。南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾薬や火薬の原料などは手に入らなかったのだ。つまり、南蛮貿易の隆盛やキリスト教の普及というのは、諸大名の軍需物資輸入がいかに大きかったかを裏づけるものでもあったのだ。

家康は、天下人になって以降、諸大名の軍事力を削減させようとしてきた。築城や城の改築などは原則禁止で、特別な理由があるときだけ幕府が許可した。

また、慶長14(1609)年には、500石積以上の大船建造が禁止され、諸藩が所有している大船は没収された。このように、諸藩の軍事力を削減させようとしているなか、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は害が大きかった。

しかも、ポルトガルやスペインは、軍事的にも不穏な動きがあった。長崎はイエズス会の領地のようになってしまっていた。またキリスト教徒たちが、日本各地の寺社を破壊することもたびたび起こっていたのである。

スペインにいたっては、日本への武力侵攻を検討したこともあった。当時の日本は戦国時代で、大名たちの戦力が充実していたために、侵攻を断念しただけだったのだ。

もし、日本が戦国時代ではなかったら、ほかの東南アジア諸国のように、ポルトガルやスペインから侵攻されていた可能性もあるのだ。それらのことを総合的に判断し、キリスト教全面禁止に踏み切ったものと考えられる。


■家康はなぜ「オランダびいき」なのか? 


家康が、キリスト教を完全に禁じたのは「キリスト教の危険性」のほかに、もう1つ大きな理由があった。幕府が独占的にオランダと交易するためである。

家康は、オランダと奇妙な縁があった。家康がまだ征夷大将軍になる前の慶長5(1600)年4月、大分の臼杵(うすき)にオランダ船のリーフデ号が漂着した。臼杵藩の藩主・太田一吉は、乗組員を保護し、長崎奉行に報告した。リーフデ号は大坂に回航されることになった。

「関ヶ原の戦い」の少し前であり、まだ豊臣政権だったときのことである。この時期、豊臣政権の番頭格だった石田三成は、失脚して領国に戻っており、事実上、家康が政務を取り仕切っていた。そのため、家康が、リーフデ号の検査、尋問などをすることになった。

日本にいたスペインのイエズス会の宣教師たちは、リーフデ号のことを聞きつけ、家康に処刑するように注進した。イエズス会は、カトリックの修道会であり、当時はプロテスタント・キリスト教と激しく対立していた。

リーフデ号の母国オランダは、プロテスタントの国である。だから、日本在住のイエズス会としては、プロテスタントの勢力が日本に及ぶことを非常に恐れていたのだ。しかし、家康は、イエズス会の宣教師たちの注進は聞き入れず、リーフデ号を浦賀に回航し、乗組員を江戸に招いた。

家康は、リーフデ号の乗組員から海外情報などを仕入れ、一部の乗組員は家臣として取り立てた。幕府の要人となったオランダ人のヤン・ヨーステンや、三浦按針の日本名で知られるイギリス人のウィリアム・アダムスは、このリーフデ号の乗組員だった。このヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスから、家康は当時の西洋の国情や宗教事情などを詳しく聞いたようである。

当時のキリスト教世界では、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタントが、急激に勢力を拡大している時期だった。プロテスタントは、免罪符に象徴されるような教会の権威主義、金権主義を批判し、純粋な信仰に戻ろうという宗派である。そのため、旧来の教会であるカトリックと、新興宗派であるプロテスタントは、激しく対立していたのである。

ポルトガルやスペインは、カトリックの国だった。彼らが、大航海をして世界中に侵攻していたのも、じつはカトリックとプロテスタントの対立が影響していたのである。

プロテスタントに押されていたカトリックは、少しでも多くの信者を獲得するために、積極的に世界布教に乗り出したのだ。戦国時代に日本にやってきたポルトガル、スペインの宣教師たちは、皆この流れに沿ったものなのである。


■オランダとの貿易をやめなかった理由


が、一方、オランダはプロテスタントの国だった。オランダは、新興海洋国でもあり、ポルトガルやスペインに続いて、世界中に進出し、貿易や侵攻をおこなっていた。

オランダも、キリスト教の布教もおこなっていたが、それはメインの目的ではなく、金儲けが最大の目的だった。日本に対しても、キリスト教の布教を強く求めることはなく、貿易だけを求めてきた。つまり、オランダは、キリスト教の布教をしなくても貿易をしてくれるというわけである。

家康はこの事情を知り、オランダとだけ貿易をすることにしたのだ。しかも、幕府が独占的にオランダと交易をおこなえば、貿易における旨みを幕府だけが享受することができる。

そのため、江戸時代を通じて、オランダが唯一の西洋文明の窓口となった。オランダからの文物を学ぶ「蘭学」は、日本の最先端の学問となったのである。

 

大村 大次郎 :元国税調査官


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