奥山氏の写真集第三弾である。
お伊勢参りで知られる三重県には259社の式内社がある。その山並みを伊勢新聞の連載のため撮影し続けた。
「式内社」とは律令の施行規則『延喜式』に載っていて、古来から重要な神社とされた。
式内社の信仰対象は殆どが山である。その山並みが羽ばたいて見えるとする著者は、三つの類型を挙げる。
三つならびが頭と両翼をつくるパターン
半円が三角の形と大きさが左右釣り合うパターン
複数が連なるパターン
大事なことは「山並みが飛ぶ鳥に見える場所に神社や古墳、祭祀遺跡がある」ことで、「鳥はこの世とあの世を行き来する神や霊の象徴」である。
たとえば古墳ブームで脚光をあびる五色塚古墳(神戸市垂水区)だが、「明石海峡北の丘陵端にある。表面に石を積んで復元している。後円部から前方部が指す南西南を見ると、海を挟んで淡路島の丸い山に突き当たる。(中略)全体として左へ飛び立つ鳥の姿をつくる。古墳主軸が指す中央の山は真ん中が突き出て、そこだけではばたく鳥の形になる」のだという。
宗教の起源は「あの世」への畏怖と憧憬であり、キリスト教はイエスの復活、仏教は輪廻転生で極楽浄土へいけることが信仰の支えだった。
親鸞は回向には二つの種類があり、「往相」と「還相」だと説いた。仏教の「受戒」はキリスト教の「洗礼」にあたるが、「水の流れに精霊がいると考えると、洗礼も禊ぎも同じと理解できる。霊と触れる」(277P)
ゆえに谷川健一が言ったように「キリシタンの教義を受容する土台は日本民衆の伝統的心理の中にすでに存在していた」(『魔の系譜』、紀伊國屋書店)。
このあたりを読むと、アンドレ・マルロォが伊勢神宮の五十鈴川で禊ぎを行って「このバイブレーションは何だ」と嘆じた情景を思い浮かべた。
神道の思想は古事記、日本書記で理解できる。
「むすひ」(産巣日)の神は古事記の冒頭にある。「高天原になりませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすひ)、神産巣日(かみむすひ)」の三神である。
縄文土偶は古代信仰で祭祀の重要な神器でもあった。国宝の「縄文のヴィーナス」と、「仮面土偶」は茅野の尖石縄文館で展示されている。この「土偶が出土した棚畑遺跡から北に蓼科山の円錐が見え、左右へ延びる永明寺山と八ヶ岳が両翼をつくる。霊の顔はわからないので作らなかったが、後の棚畑土偶のように仮面で表現するようになる」。
そうなのか、基本は縄文時代から山岳信仰と深い絆があったのだ。
縄文とは渦巻、土偶の髪型などの渦巻きは、「あの世の霊がこの世へもどってくる形を占める。だから縄文のヴィーナスの愛称は「渦女(うずめ)」がふさわしいと強調する。
うずめが生命の再生を象徴し、天照大神が隠れた天の岩戸の前で半裸で踊る宇受売は「霊を表す蔓草を髪飾りや襷(たすき)にして身体に触れさせ『産す霊(むすひ)』の作用で、生命を復活させた。上半身を裸になり、土偶と同じく新生した身体を表現した」のだと解釈される。
天宇受売姫をまつる神社は、北は倶知安神社から東京は新橋の烏森神社、南は宮崎県の天の岩戸神社まで、全国に120社以上ある。
芸能の神として親しまれている。
▼古来からの山岳信仰
日本では古代から山が信仰の対象であって、弥彦神社の神は弥彦山。それが六世紀に渡来した仏教が伝統を変化させ、七世紀になると古墳にかわって寺院が権威の象徴となった。
多くの日本の寺には「◎◎山◎◎寺」となって、「山号」が付く。
山号のないのは平城京時代の寺院と、善光寺、金閣、銀閣などである。前者は無宗派であり、金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)は相国寺の塔頭院印寺だ。親寺の相国寺の山号は「万年山相国寺」である。
ちなみに名刹の山号を調べると成田山新勝寺、比叡山延暦寺、諸岳山総持寺、吉祥山永平寺、身延山久遠寺、金龍山浅草寺、万松山泉岳寺である。寺が山の中にあるから「山号」がついたのではなく、街中の寺にも山号はある。まさしく神仏習合である。
仏教が根付いたばかりの飛鳥、天平年間、つまり平城京時代の東大寺、興福寺、飛鳥寺、橘寺、法隆寺、四天王寺には山号はない。「総本山」というのは山号ではない。
平安京となるとほぼ総ての寺院に山号がついた。
数多くの歴史の舞台となった東寺は八幡山東寺、信長の葬儀が行われた大徳寺は「龍宝山大徳寺」、家康のブレーン金地院崇伝の「南禅寺」や天竜寺。信長が死んだ本能寺、家康が難癖つけた釣り鐘事件の方広寺などは「大本山」としているが、これも山号ではないだろう。
秀吉ゆかりの高台寺は「鷲峰山高台寺」、もう一つ観光客が必ずいく清水寺は「音羽山清水寺」である。
江戸の名刹、寛永寺は東叡山寛永寺、赤穂浪士の集団墓があるのは高輪の万松山泉岳寺。徳川将軍の墓所は三緑山増上寺、西本願寺は「龍谷山本願寺」。東本願寺には山号がない。
鎌倉の名刹は竹の寺で有名な報国寺は「功臣山報告寺」。円覚寺と建長寺は「大本山」だが、後者の前身は迦羅陀山心平寺だった。
閑話休題。奥山氏の労作写真集の三部作を読み直した。解説が神話と稗史が混淆し、ユニークな歴史考察が展開されていて、参考になることが多い。ただし随所に江上波夫、梅原猛ら胡散臭い史論の引用があって、首をかしげる。箸墓古墳は断じて卑弥呼ではないし、アイヌは十二、三世紀に北海道に漂着した漁労の民であって、原日本人ではない。馬が日本に輸入されたのは五世紀、応神天皇の頃であって騎馬民族説は成立しない。
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