東アジア歴史文化研究会

日本人の素晴らしい伝統と文化を再発見しよう
歴史の書き換えはすでに始まっている

戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印と戦争犯罪(加瀬英明氏のコラム)

2013-02-15 | 歴史の真実
加瀬英明氏の父上の加瀬俊一氏は、第二次近衛内閣の松岡洋右外務大臣秘書官からはじまり、東郷茂徳、終戦の降伏文書に署名した重光葵外務大臣まで外務大臣秘書官(勅任官)を歴任され、戦前・戦中・戦後の日本の外交の中心で活躍されてこられた方です。

特に私の印象に残っているのは、戦艦ミズーリ号上で足の悪い重光外相が降伏文書に署名するところです。その横で補佐していたのが、加瀬俊一氏でした。ドキュメンタリー映画『東京裁判』で何度も観ました。マッカーサーが歴史的演説を終えて、各国の代表署名がはじまりました。緊張したカナダの代表が間違ってフランスの欄に署名したことによって国名と代表者が一致しないのを加瀬氏が発見し、サザーランド参謀長に「すぐに陛下にお目にかかるのに、こんな間違ったものを持って帰れない」とクレームをしたそうです。ところが「負けたんだから、それでもよいから持って帰れ」と。しかし、加瀬氏は「それならやむを得ないが、後日史家がマッカーサー将軍がいかに愚かな人物であったかと批判するだろう。それでもあなたは責任を負えるか」と言ってやったそうです。それでサザーランド参謀長はしぶしぶ訂正をしてケリがついたということです。

この内容は、『私の昭和史 昭和が燃えた日』(加瀬俊一・加瀬英明対談)に載っていました。戦争戦後の日本の状況を一人の外務官僚の視点から、詳しく語っています。松岡洋右、近衛文麿、吉田茂、その他本人しか知りえない面白いエピソードを加えて書かれています。

加瀬英明氏が若くして、福田内閣、中曽根内閣で首相特別顧問として対米折衝の場で活躍できたのも、父親である加瀬俊一氏の人脈とその影響が大きいのではないかと思います。

***************************************************************************************

■「加瀬英明のコラム」メールマガジン

戦時国際法と戦争犯罪


私は昭和11(1936)年の生まれで、最初に社会で仕事をしたのは大学生のときでした。まだ20歳になったかならないかくらいの頃でした。この講座では一流大学教授が講義をされていますので、みなさん堅苦しい思いをされたことでしようが、私は10代の終わりから仕事をしてきたので、堅苦しい人生を送ってこなかったという思いがありません。そこで、ざっくばらんなお話をしながら、今日のテーマを取り上げていきたいと思います。

私は慶応大学の学生のときから物書きでした。当時、映画会社「東宝」とシナリオのお助いをする契約を結びました。当時の大学卒の初任給が9000円くらいでしたが、毎月20000円をいただいて、高峰秀子さんの御主人の映画監督の松山善三さんとか、脚本家の井出敏郎さんなどの仕事を手伝いました。一番始めにかかわった仕事が、雑文書きと活動屋(当時は映画のことを活動写真と呼びました)です。

月刊誌《文芸春秋》に、評論家という肩書きをいただいて書くようになったのが28歳のときです。30歳のときに、東京放送(TBS)が出資して百科事典「エンサイクロペディア・ブリタニカ(Encyclopedia Britannica)」というと大英百科事典の最初の外国語版をつくるということで、私は初代編集長を勤めました。

いろいろなことをしました。私は日本の外交にも深く関わってきました。41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、総理から第1回福田・カーター(米大統領)会談のお膳立てを手伝ってほしいと言われて、首相特別顧問として福田首相一行がワシントンにはいる前の日に現地入りして、ホワイトハウス、国務省、国防省、議会などをまわり、日米首脳会談の詰めを手伝いました。

最後に同じ肩書きをいただいたのは中曽根内閣のときで、ロン・ヤス会談と呼ばれた中曽根総理と、ロナルド・レーガン米大統領との交渉の裏方のお手伝いをしました。


1 戦艦ミズーリ


Surrender_of_japan__uss_missouri今日は、なにからお話しようかなと思っていましたが、このテキストの表紙の写真からお話をはじめようかと思います。

この写真は、日本国にとって屈辱の日である昭和20(1945)年9月2日に、東京湾に浮かんだ敵艦ミズーリ(Missouri)号の艦上で、我が家族にとってこれほどの屈辱の日はありませんが、日本が降伏文書に調印したときのものです。

前列にいるのが、日本政府の全権の重光葵(しげみつまもる)外相と、大本営代表の梅津美治郎(うめづよしじろう)陸軍大将の2人です。正面には、敵将マッカーサーが立っています。この写真の2列目の右から2番目に立っているのが、私の父親です。当時42歳でした。

米国によって戦争を強いられて、日本が追いつめられて存亡を賭けて、やむなく立ち上がったのは、みなさんもご承知の通り、昭和16(1941)年12月8日のことでした。私はこの日が我が民族の誇るべき日であると、確信しています。開戦時、私の父は、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣の秘書官、および日米交渉を主管して交渉の指揮をとった北米課長と、イギリス帝国課長を兼任していました。

ミズーリ艦上の降伏調印式のときも重光全権の随行員としてお供をしました。重光外相がマッカーサーの前に進み出て、降伏文書に万涙をのんで署名したとき、わきに立っていたのが私の父です。
 
この日の午前4時半、降伏文書に調印するために随員を含めて外務省、陸海軍の11名が、暗いなかを首相官邸に集まりました。そのときの首相が東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)です。東久邇宮首相の短い挨拶があり、全員で水盃で乾杯をしたうえで、5時半に乗用車に分乗し、一面焼け野原だった東京を抜け、同じく見渡すかぎり焼け野原となっていた横浜にはいり、焼け野原の中にポツンと残っていた横浜県庁の応接室で、しばし休憩をとりました。そして、横浜の埠頭まで移動して、そこで待機していた米軍の駆逐艦に移乗してミズーリの舷側まで行き、ミズーリのタラップをあがって、式場に着いています。

みなさんもミズーリ艦上の、あの今見ても屈辱的な降伏調印式の写真や映像を御覧になった方が多いだろうと思います。重光全権、それから私の父と2人の外務省の随員がいます。外務省員は、モーニングにシルクハットをかぶっています。最高の礼装です。

ただ、たったひとり、大田三郎という随員が、戦災ですべてを焼き出されてしまったもので、モーニングが間に合わずに、仕方なく真っ白な背広の上下を着ています。私の父も戦災で家を焼かれていたのですが、モーニングは残りましたものの、シルクハットを焼かれてしまったので、人から借りたのですが、ブカブカで、艦上で風が強く飛びそうになって、しばしば片手で押さえています。

一方、わが国の陸海軍軍人は、略装の軍服です。軍人が正式の服装をするときには、いまの警察官のような、固いツバがついた帽子をかぶります。ところが当日の軍人たちは、戦闘帽です。海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服です。

どうして外務省の一行が正装のモーニングを着ているのに、軍人は略装だったのでしょうか。みなさんの中で答えられる方はおいででしようか。いままでこの写真や映像を見て、不思議に思われた方は、おいででしようか。おいでにならないのかもしれません。

どうしてかというと、重光全権ら外務省の一行は、畏れ多いことですが、天皇陛下を代表する立場でした。外務省の一行は敵に対してではなく、陛下に対して敬意を表して礼服を着たのでした。けれど軍人は、軍を代表していました。仇敵に敬意を払いたくなかったので、略服を着ていたわけです。

ミズーリ艦上に立った重光外相は、この13年前に中国公使(こうし)として、上海に赴任していました。当時の日本は中国に「大使(たいし)」は送っていません。世界の主要国から日本には大使が派遣されてきていましたが、日本から「大使」を送っていたのは、英国、ドイツ、イタリア、米国、ソ連などの大国に対してだけでした。二流国だった中国には「公使」です。

その上海の日に、野外で天皇誕生日の祝賀式典がありました。天皇誕生日は、昭和時代ですから5月です。この式典会場で、国歌君が代が吹奏されたので、重光公使らが壇上で立っていたところ、不逞朝鮮人が爆弾を投げました。

壇上にいた陸海軍司令官と、重光公使全員が、爆弾が足下に転がってきたのがわかりました。けれど当時の日本人ですから、国歌の吹奏中に、まさかうろたえてこれを避けるわけにいきません。直立不動の姿勢のままでいました。爆弾が爆発をして、重光公使は片足を失いました。ミズーリ艦上に立ったときの重光全権は、片足が義足です。

私は重光さんに晩年まで可愛がられました。よく存じ上げて、いろいろ話を伺う機会がありました。重光さんは私の父とミズーリの艦上に立ったときのことを、次のように述懐されました。

「あの日、敗れたという屈辱感よりも、日本が今度の戦争で多くの犠牲を払ってアジアを数世紀にわたった白人・西洋の植民地から解放したという高い誇りを胸に抱きながら、ミズーリ号の甲板を踏んだ。」


2 人種の平等を実現した日本

日本は敗れました。しかし、その結果、アジアの諸民族が解放されました。その高波が、アフリカ大陸も洗い、次々と新しい独立国が誕生しました。数百年にもわたって続いた西洋の苛酷だった植民地支配を、日本が終止符を打ったのです。

いまから70年前に、東京で「大東亜会議(だいとうあかいぎ)」という有色人種はじめての世界サミットが催されました。日本からは、東条英機首相が出席し、満州国からは張景恵(ちょうけいけい)総理、中国は南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)院長、タイ(タイは戦争前から独立国でしたが)のワンワイタヤーコーン親王殿下、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマはバー・モウ総理大臣、チャンドラボーズ・インド仮政府首席などが一同に会しました。そして、人種平等の世界をつくることを高らかに宣言しました。

先の大戦は、「軍国主義国日本と、民主主義国だった米国が戦って、米国がファシスト日本を打倒した」という話をお聞きになってきた方も、きっとおいでのことと思います。そんなことは、まったくの嘘です。

私達が戦った米国は、同じ国民である黒人を、法的に差別していました。米国の南部諸州では黒人は一切投票することができませんでした。私は1950年代末に米国に留学をしましたが、当時の米国では、黒人と白人は、公衆便所から食堂、列車やバスの座席や水飲み場まで、あらゆるところに差別がありました。ニューヨークやワシントンでは、1960年代にはいっても、白人が使うレストランに黒人が入るということはありえないことでした。

ところが、日本がアジアを解放した結果、アフリカでも次々と独立国が生れました。そうなるとアフリカの外交官が、ワシントンやニューヨークの国連本部にやってきましたが、差別するわけにゆかない。こうなると当然のことですが、米国内の黒人も黙ってはいません。

1950年代末に、米国内でマーチン・ルーサー・キング牧師が率いる公民権運動がはじまりました。これが60年代になって実を結びます。それまではアメリカの多くの州で、白人と黒人が性的な関係を結ぶことが犯罪とされていました。まして結婚などは、認められませんでした。最後の3つの州で、白人と黒人が性的な関係を持つ、あるいは結婚することが犯罪とされなくなったのは、昭和42(1967)年のことです。

第2次大戦後までは、黒人が米国の野球のメジャーリーグでプレイをすることも考えられないことでした。ゴルフ場で、キャディは黒人でしたが、黒人がゴルフを楽しむなんていうことはありえません。テニスも白人だけのものでした。

メジャーリーグで黒人がプレイできるようになったのも、タイガー・ウッズがプレイができるようになったのも、ウイリアムズ姉妹という黒人のテニスプレイヤーが活躍していますけれど、日本が先の大戦を戦って、人種平等の世界を作ったからです。黒人のオバマ大統領が登場したのも、先の大戦で日本国民が大きな犠牲を払って、人類の長い歴史の果てに人種平等の理想の世界を作り出したからです。これは、私達がおおいに誇るべきことです。


3 条件付き降伏

Shigemitsusignssurrenderさて、ミズーリ号に戻りましよう。日本は連合国が発したポツタム宣言を受諾して降伏しました。日本の多くの方は、「日本が無条件降伏をした」という嘘を信じ込まされていますが、日本は無条件降伏などしていません。「ポツタム宣言を受諾して降伏」したのです。

ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)は、昭和20(1945)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において日本に対して発せられた全13か条からなる宣言です。その第5条には次の文があります。

五 われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない。それ以外に条件は存在しない。われらは遅延を認めない。
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.

要するにここには、「この条件から外れるようなことは、絶対にしない」と書いているわけです。つまりポツタム宣言は、条件付降伏を求めていた、ということです。

第7条には、「日本国の領域内の諸地点は、われらのここに指示する基本的目的の達成を確保するため、占領されるべし」とあります。つまり、日本全国を占領することはしない。「諸地点」です。日本がわれわれの要求している条件を達成するまで、連合国側は、「いくつかの地点を占領」するといっています。日本全土を占領するとは、どこにも書いてありません。アメリカが日本全国を占領したというのも、重大なポツタム宣言違反です。

第10条には、「われらの捕虜を虐待した者を含む、一切の“戦争犯罪人”に対して、厳重な処罰を加える」と書かれています。「戦争犯罪人」というのは、それまでの戦時国際法によれば、たとえば非戦闘員を殺すとか、一般市民への略奪を行うとか、あるいは女性に対して乱暴をはたらく、あるいは降伏して捕虜となった者を虐待するなどの「戦場犯罪」を意味します。

それまで、国家の指導者に対して、戦争犯罪人として責任を問うたことは人類史上には1度もありません。ですから日本がポツタム宣言を受託したときには、当然のことながら「戦争犯罪人」というのは、戦場犯罪をおかした、つまり「戦場犯罪者」を罰するのだと信じたのです。

さらに最後の第13条では、「全日本国軍隊の無条件降伏」を要求しています。書いてあるのは、「日本軍の」無条件降伏です。日本国としての無条件降伏は求めていません。第一、最初の方で、「われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない」と宣言しているのです。そう宣言しながら、日本全土を占領し、極東軍事裁判を行っているのですから、連合国による日本占領は、ポツタム宣言の重大な違反だということになります。

当時、もちろん私の父親も、日本政府として、進駐軍の振る舞いが明らかなポツタム宣言違反であるとして、マッカーサー司令部に厳重な抗議を行っています。そうしますと、「お前たちがそう言うなら、天皇を捕らえて戦争犯罪人として裁く。天皇制もこれを保障しない」と言うわけです。天皇を人質にとられてしまって、グウの音も出なかったのです。

国際法への重大な違反を犯したというのは、ポツタム宣言違反からはじまったものです。今日皆様に、記憶していただきたいのは、「日本国は無条件降伏を行っていない。日本国軍隊のみが無条件降伏をした」ということです。

日本の大新聞をはじめとして、多くのメディアは平然と、「日本が先の戦争で無条件降伏をした」と書いています。それは明らかな「嘘」です。そういう「嘘」を書くような新聞やテレビなどは、お読みになったり、ご覧にならない方が良い。今の日本では、人々が深く考えることを辞めてしまって、大新聞やテレビのいうことを鵜呑みにしてしまっています。

私は今の日本を悪くしてしまっている3つのスクリーンがあると思っています。第1がテレビのスクリーンです。テレビ放送を1年間止めたら、この国は素晴らしい国に生まれ変わると思っています。みなさんは今日、お帰りになったら、テレビに粗大ゴミの札を貼って処分された方が良い。2つめはパソコンのスクリーンです。これも害毒です。3つめが、携帯電話のスクリーンです。私はこの3つのスクリーンが、日本を悪くしていると思う。そうしたスクリーンよりも、できるだけみなさん、藤岡先生の著書とか、そういう良い本をお読みになったほうが、ためになると思います。


4 非常識な遡及法(そきゅうほう)

マッカーサーは、進駐してきますと、9月11日に、39人の日本の指導者たちを戦争犯罪人容疑者として指名して逮捕しました。それがどのような罪に問われたのかといいますと、「平和に対する罪」、もうひとつが「人道に対する罪」というものです。

「平和に対する罪」、「人道に対する罪」というものは、逮捕の直前までは、世界にそんな罪は存在すらしていませんでした。法律というものは、それまでなかった法律をつくり、前にさかのぼって人を逮捕したりはできないという鉄則(法律不遡及の原則)があります。

たとえばいま急に、「東京都内で黒い革靴を履いている者は、懲役10年に処する」という法律ができて、過去10年か、20年にさかのぼって適用して捕らえて罰するとなったら、これはたいへんなことです。それと同じことを、米軍は日本に対して行いました。「平和に対する罪」、「人道に対する罪」と聞いたとき、逮捕された人たちもびっくりするし、日本政府も、それが何を意味するものなのか、まったくわかりませんでした。

翌年5月3日に、39人のA戦犯容疑者が28人に絞り込まれて、正式に容疑者とした東京裁判がはじまりました。裁判は2年半にわたって行われました。東京裁判は、まったく違法な裁判です。なぜなら戦時国際法には、国家の指導者を裁くという発想自体、まったくないからです。

東京裁判がいかにいい加減で不法なものであったのかは、まず日本がはたらいたとされる悪事のみが裁かれて、連合国側が行った東京大空襲(昭和20年3月10日に、10万人の老若男女が殺されました)や、広島長崎への原爆投下による無辜の市民の虐殺、それこそ戦争犯罪ですが、それらはすべて不問に付され、日本が行ったとされる非道についてのみが裁かれたという点でもあきらかです。そして東京裁判では、7人の国家指導者が、絞首刑に処せられるという、リンチが行われています。


5 民族の勝利

日本は先の大戦中に、長い間西洋の植民地であった諸国を、植民地から解放しました。まず米国の植民地のフィリピンを解放しました。次いで英国の植民地だったビルマを解放しました。またインドネシアについては、日本は昭和20年9月に独立を実現することにしていました。ところがその前の8月15日に日本が力つきて降伏しています。そのときのインドネシアの独立の指導者が二人いますが、モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta)が先輩で、スカルノ(Sukarno)が後輩にあたります。デヴィ夫人のご主人です。

ハッタとスカルノは、日本が降伏してしまったので、急いでインドネシアの独立を自分たちだけの手で宣言しようとしました。これに対して、日本のインドネシアにいた軍司令官が強く反対しました。というのは、インドネシアが独立宣言を強行すれば、連合国が日本に報復として、天皇陛下の玉体に危険がおよぶことを心配したからです。司令官は、ハッタとスカルノを強く説得しましたが、ハッタとスカルノのは、8月17日に、日本が降伏をした二日後に独立宣言を強行しました。

いまでもジャカルタの中心に、ムルデカ広場があります。「ムルデカ」は、インドネシア語で「独立」をいいます。そこにはインドネシア独立宣言文が刻まれた大きな石碑が建っています。その両側にハッタとスカルノの銅像も建っています。この独立宣言文は短いものですが、最後の日付は、西暦でいいますと1945年8月17日ですが、インドネシアはイスラム国ですから、まさかキリスト教歴である西暦を使うはずがありません。ならばイスラム暦を使ったのかというと、これも使っていません。では何を使っているかというと、日本の皇紀です。
なんと皇紀を使って、2605年8月17日と刻まれています。

スカルノはこれについて、「我々は日本に感謝するために、日本のインペリアル・カレンダー、皇紀を年号として用いた」と書いています。ジャカルタにおいでになりましたら、是非ムルデカ広場に立ち寄られて、独立記念碑を御覧いただきたいと思います。

日本がインドネシアを占領していたとき、インドネシアの将来のために「インドネシア国軍」を作りました。これは「郷土防衛隊」という名稱でしたが、インドネシアでは頭文字をとって「PETA」、ペタと呼ばれています。
私はインドネシアと親しくて何回も通いました。むこうに行きますと、当時のPETAの軍人たちが私のホテルに40人、50人と夫婦で集まってきて、みな歌詞カードを持って、何をするのかと思うと、日本の軍歌を次々と合唱してくれるのです。

インドネシアでは、毎年8月17日になると、インドネシア独立記念祝典が行われます。この式典はPETAの軍服、これは日本の軍服と同じですが、その軍服を着て、日本刀を吊った将校たちが出てきて、インドネシアの国旗を掲揚するのに当たって、敬礼するところからはじまります。そして毎回インドネシアの若い女性たちの合唱団が、必ず日本の『愛国の花』などの愛国歌をメドレーで合唱いたします。

私は映画に関わってきましたが、最近になって作ったのは、『プライド』という東映の東条英機大将と東京裁判のインドのパル判事を主人公にした映画です。映画の原案も題名も、私のものです。
その次には、私の古巣の東宝から「ムルデカ」というインドネシアの独立の映画を作りました。これは日本の軍人たちが、インドネシア国軍を養成し、日本が戦争に敗れると、インドネシアにいた日本兵士2000人以上が、インドネシアの独立のために命を捧げる覚悟をして、インドネシア独立軍に加わって戦い、千人以上が戦死され、戦死された方が、インドネシア国軍の英雄墓地に埋葬されているという物語を映画化したものです。

私はその映画の中で、主人公は実在の日本人青年将校がモデルですが、敗戦後に故国に新妻を残してインドネシアに残留し、インドネシア人と一緒に戦って、独立軍が最後の勝利をおさめたところで、インドネシアの恋人と喜んでいるときに、オランダ兵に狙撃されて恋人の腕の中で息をひきとる。私はこのときのインドネシアの恋人に、こういうセリフを書きました。
主人公は「タケオ」という名前ですが、「タケオ、死なないで!日本は国家として戦争に敗れたけども、民族としては勝ったのよ!」私はジャバ島のロケに立ち会いましたが、このセリフを聞いて、涙が溢れました。

私は先の大戦に、国としては残念ながら破れましたが、民族としては日本が先の大戦に勝ったと信じています。
もし日本が日露戦争に勝つことなく、先の大戦にあれだけ大きな犠牲を払って戦うことがなかったとすれば、まだ世界の大半が驕る白人・キリスト教徒の泥靴のもとに踏みにじられて、植民地として苦しんでいたはずです。

ミズーリの艦上のことですが、日本は敗れたといっても、重光全権も、私の父親も、日本がアジアを開放するという戦争目的を達した、民族の宿願を果たしたのだという誇りを持って、甲板を踏みました。私はその誇りをよく理解することができます。


6 東京裁判という茶番
 
東京裁判で日本が侵略の罪で裁かれていた、ちょうどそのときに、フランス軍が、日本が解放したベトナムを、もういちど植民地にしようとして戻ってきて、ベトナムの独立軍と戦っていました。ベトナムは、戦前は「フランス領インドシナ(仏印)」と呼ばれていました。インドネシアでは、オランダ軍だけでは兵力が足りなかったので、英国の援けを借りて、英国とオランダの連合軍がインドネシアに侵攻して、インドネシア独立戦争が戦われていました。

日本を侵略の罪で裁いていた連合国が、その同じときに、アジアで侵略戦争を戦っていたわけです。東京裁判については、日本の多くの国民が「あれは日本が悪事をはたらいたから当然のむくいとして裁かれた」と思っていますが、東京裁判はペテンでした。

インドのラダ・ビノード・パル (Radhabinod Pal)判事が、日本無罪論を判決書として書きました。11人の東京裁判の判事の中で、3人が反対意見を書きました。その中で、完全に日本は無罪だと説いたのは、インドのパル判事でした。この11人の判事の中で、国際法を知っていたのは、パル判事だけでした。あとは全員が国際法に関して素人ばかりでした。もうひとり、オランダのベルナード・レーリンク(Bernard Victor Aloysius (Bert) Röling)という若い判事がいて、この人も日本が一方的に悪かったのではなかったという反対意見を書いています。

レーリンクは、回想録を残しています。その中で、帝国ホテルにみんなが泊っていて、市ヶ谷の法廷にバスで行くとき、毎日、連合国の壮大な戦争犯罪の現場、つまり東京が焼け野原だったのを往復のバスの中から見て、「これほど気の重いことはなかった」と書いています。そして日本が先の大戦を戦った一番の理由として、「白人諸国が日本人をはじめ有色人種に対して理不尽な人種差別を行ったことであった」と、日本のを擁護しています。

もうひとりが、フランスのアンリ・ベルナールという判事がいました。非常に滑稽なことですが、東京裁判は、英語と日本語で行われていました。同時通訳が行なわれて、英語で話すと日本語、日本語で話すと英語にする、という仕組みになっていましたが、ベルナール判事は、ひとことも英語がわからなかった。さぞかし忍耐強い人だったのだろうと同情しますが、何が語られているのかまったくわからないまま、壇上にいたわけです。

ベルナールも回想録を書いています。自分は毎日、法廷がひらかれている間は、何を言っているのかまったくわからず、2日後にフランス語への翻訳をフランスの代表部が作ってくれたのを読んで、ようやく何が行われていたのかを解していたのだそうです。ベルナール判事も日本が一方的に悪かったのではないという少数意見を出しています。

占領下では、マッカーサー司令部が、厳しい言論統制を行っていました。ですからパル判決書も発表されませんでしたし、ベルナール判事、レーディング判事の判決書も公表されることがありませんでした。

朝日新聞は、ほんとうに酷い新聞です。東京裁判が開廷した2年半後に東条大将以下7人が犠牲となって絞首刑に処せられたとき、朝日新聞は社説に、「この裁判は、きわめて公平に行われ、東条大将以下の処刑も、そこには報復の意図がいささかもない厳粛なものであった」と、書いています。同じ日本人が、よくはずかしげもなく書いたものだと思います。けれど当時はそれを朝日だけではなくて、毎日も読売も、よくここまで卑屈になれると思うような記事で埋まっていました。

「戦争犯罪人」は、A級、B級、C級に分けられていました。B級、C級でも1000人以上が処刑されています。これは捕虜を虐待したとか、捕虜を処刑したとか、いろいろありますが、このBC級裁判も、公正なものだったか、きわめて大部分が疑わしいものです。報復、復讐のために行われたものです。しかし、戦後、米国は日本を占領して徹底的な洗脳を行いました。対米戦争は3年半あまりしか続いていないのに、日本に対する占領は、その2倍の時間をかけています。これも、異常なことです。


7 準備されていた対日戦争

日本が降伏したときに、日本は全土が占領されるなどとは夢にも思いませんでした。占領期間も、まさか6年を越すような長いものにはならないと思っていました。ところが天皇陛下を人質にとられていましたから、日本としては、なにひとつ、表立ってこれに抗議することはできませんでした。

先の戦争ですが、これは私は「日本はやむにやまれず立ち上がって、自存自衛のために戦った」と申上げましたけれど、私は、当時マッカーサー元帥のもとで日本の占領にかかわった40〜50人の中心人物や、ワシントンのトルーマン政権の幹部などとインタビューを行って、本や論文を書いています。

これは公開された文書で既に明らかになっていることですが、ルーズベルト政権は、真珠湾攻撃の1年半前から国務省に極秘の研究班を設けて、私はその研究班の人から話を聞いていますが、日本と戦って日本を屈伏させたあとで、日本をどのように処理すべきか研究をはじめています。

アメリカは開戦前にはすでに日本と戦うことを決めていました。ルーズベルト大統領は、蒋介石政権から巨額のお金をもらっていました。このやり方は、いまの中国と同じです。対米工作のために、厖大な金額の「バラマキ」をしています。これは蒋介石政権が行った手口と、まったく同じものです。

ルーズベルト大統領は、対米戦争がはじまる昭和16年の春から、蒋介石政権に爆撃機と戦闘機を供給して、これを米国の陸軍航空隊の現役パイロットに操縦させて、飛行機の機体に蒋介石政権の青天白日のマークを塗り、爆撃機150機で東京、横浜、京都、大阪、神戸を奇襲爆撃して、いっきに焼き払う計画をたてていました。

戦争がはじまる前の昭和16年5月15日に、米国軍部が提出した作戦計画に、ルーズベルト大統領が承認の署名を行ない、そこにコメントも書いています。「JB (Japan bombardment)計画」という極秘計画です。ところがその前に、ヨーロッパで、ヒットラーとチャーチルが死闘を続けていて、ヒットラーがヨーロッパ全土を占領し、イギリスが孤独な戦いを続けていた。イギリスを守るために、チャーチルから米国に、急遽爆撃機を回してほしいということになり、アメリカは対日奇襲爆撃を行うために蒋介石政権に渡すことになっていた爆撃機を英国にまわしてしまったもので、この卑屈きわまる計画は実現しませんでした。

私は、米国屋でもありますし、英語屋でもありますが、いまでも白人たちが私達日本に対して抱いている憎しみは、たいへんに強いものがあります。なぜかというと、彼ら白人たちが数世紀にわたってこの地球を支配していた体制を破壊したのが日本だからです。アメリカのエリートたちは、いまでも執拗にその憎しみを潜在的に抱いている人たちが多いものです。そういう彼らをうまく操りながら、日本の安全と繁栄をはからなければなりません。

ルーズベルト政権は、日本がのさばってきたから、ここで日本を叩き潰してやろう、つまり、日米戦争が始まる前から、日本を打ちのめして、日本を無力化させる極秘の計画をすすめていました。本当の歴史を知らないと、ただ戦時国際法がどうだこうだとか、小さな木ばかり見ていると、肝心の森をみることができません。

さて、では先の大戦がどうして日本に強いられてしまったのか、次の機会に説明したいと思います。


ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
« 中国のジニ係数が本当に「0... | トップ | 中嶋嶺雄氏を追悼して「日中... »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
嘘8000 (マエダトシユキ)
2018-08-14 19:03:42
狂っとる🎵
嘘8000 (マエダトシユキ)
2018-08-14 19:03:43
狂っとる🎵

コメントを投稿

歴史の真実」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事