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東アジア歴史文化研究会

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『暴走老人、南へ』全アジアを回ってみた(連載第18回)インドネシアの夕焼け(その2)

2023-11-29 | アジア旅行記

(承前)

▼石油コンビナート基地はバリッパパン

バンジャルマシンから、さらに北のバリッパパンへガルーダ航空の国内線で飛んだ。

バリッパパンは人口56万。筆者にはこの街を見ることに或る思い入れがあった。石油コンビナートの街、たいそう景気の良い大都会。人口は同じくらいでもコンビナートは四日市の数倍の規模である。

新首都は、このバリッパパン空港を拠点にバスで四時間ほど北側の東カリマンタン州の州都サマリンダ市にかけてジャングルを開拓する。

サマリンダ市は木材の輸出港として栄え、人口はカリマンタン島最大の84万人。原始林を伐採し、マハカム河を筏を組んで港まで運ぶ。林業全盛である。

このサマリンダとパリッパパンの間に拡がる密林を開墾する新首都には政府庁舎、大統領官邸、迎賓館、国会議事堂をコンパクトにまとめ、緑豊かなエコシティという青写真だ。 しかし首都移転にかかる費用は3兆円。政府は、このうち19%を予算化し、残りは民間企業の投資に期待する。完成は2030年の予定だが、多くの批評家が「本当に実現するのか」と冷たい目で見ている。

「バリッパパン海戦」と言っても具体的なイメージが湧かないかもしれない。

戦前、わが帝国海軍はこの資源拠点を抑えていた。そして中曽根康弘元総理の名を思い出す人は、よほど戦史に詳しいに違いない。

当時、東大をでたばかりの中曽根は海軍主計中尉に任官し、呉に赴いた。輸送作戦のため中曽根主計中尉はミンダナオのダバオからマカッサル海峡を経てバリクパパンへ入る輸送船団にいた。超硬切断機のメーカー大阪利器の奥村氏(先代社長)は資源問題のシンポジウムなどでよくお目にかかったが、中曽根の同期だった。彼によればバリッパパン海戦とは次の通り。

日本海軍は数隻の船団編成で向かったが、米豪英の連合軍から攻撃され、多くが沈没、中曽根が乗船した船の前後四隻も撃沈された。日本海軍の輸送船団は敵潜水艦と空爆に脆弱だった。

バリッパパンで筆者が真っ先に行ったのは日本軍の砲台跡地である。

いまも二基の高射砲が記念碑的に置かれ、由来を書いた看板がある。しかし付近に墓地がないので花や線香の匂いはなかった。日本兵の多くは浜辺に打ち上げられ、火葬された。悲しみ、慟哭、中曽根は浜辺で追悼の詩を詠んだ。

いま高射砲の残る高台から海と石油コンビナートが見渡せる。巨大なエネルギー基地となってインドネシア経済を支えている。

▼チャイナタウンが拓けていた

慰霊を済ませると、埃だらけの下町を抜けて、「チャイナタウン」と称する地区へ行った。

どこにも中華の匂いがしない。十人にひとりほど中国系との混血かと思われる住民もいるが、話しかけても北京語が通じない。ただし店先に並ぶ品物は豆腐、胡椒、香料、中国料理に特有の麺、野菜。中華の食文化が濃厚に残っていることだけは分かった。

市場をかなりほっつき歩いても中華街の雰囲気に乏しい。諦めかけて地区のはずれまで来ると、「広肇集会所」と漢字の看板があった。「広」は広州、「肇」は広東省の肇慶市をさす。

その集会所の前に佇んでいた初老のおっさんに声をかけると北京語が通じた。

「このあたりチャイニーズが分散していて、何人いるかは不明だけど、広東人に混じって金門(福建省)出身の中国人も多いよ。あんたどこから来た?」

「東京です」と答えるとキョトンとなって、「東京って、(中国の)何処にあるのか」と聞き返してきたのだった。

バリッパパンの中国人は移民三世、四世の世代であり、名前もインドネシア風に改名して現地に溶け込んでしまった。

近年の中国人「新移民」はジャカルタに集中している。ジャカルタのチャイナタウンでは華字紙が四紙も発行されている。

インドネシアにおける日本の存在と言えばジャカルタの大使館のほか日本領事館がスラバヤ、デンパサール、メダン、そしてマカッサルに置かれている。だが、商社や資源関連企業の駐在員がいるバリッパパンに日本領事館はない。目抜き通りのジャラン・ジェン・スディルマンの両脇には豪華なマンションが林立し、中心地には高層のショッピング・モール。吹き抜けのロビーでは、日本の盆踊りに匹敵するかのようなダンス大会が開かれていた。

カリマンタンの貧富の格差、かなり大きいとみた。

戦前、南洋諸島へ日本が進出したのは国策に沿ってのことだが、目的は資源確保である。米英は日本への石油を禁輸し、ABCD包囲ラインを強いた(A=アメリカ、B=英国、C=中華民国、D=オランダ)。とくにオランダが日本軍の進出に恨みをもったのも、かれらの権益と正面からぶつかったからで、スマトラのパレンバンでは、「空の神兵」と言われた日本軍落下傘部隊が降下し、オランダ兵は抵抗せずに降参した。

その恨みをオランダは戦後「連合国」にすまして加盟し、日本から賠償金をせしめ、さらには昭和天皇訪問時に、卵をぶつけるなど、欧州における反日国家の典型となった。

▼インドネシアの宗教は多彩

それも昔話、インドネシアの経済の現況はと言えば、よちよち歩きながら明確に離陸した段階と見た。ASEAN諸国の中で一番の人口大国でもあり、今後の発展が期待されている。 

インドネシアがややこしいのはボルネオの西がマレーシアとブルネイであり、チモールの東は列強の圧力でもぎ取られ、パプアも東はパプアニューギニアに分割されている。

パプア島の西側を1968年以来、インドネシアが支配する。西パプアは、もともとオランダ領だったため、この島はキリスト教徒が多い。

ジャワはたしかにイスラム世界だが、第二の都市ジョグジャカルタの周辺は、かつての仏教寺院がずらりと並び、世界遺産のボロブドール寺院はそのひとつである。ところがバリ島はヒンズー教ときている。宗教分布は多彩である。

脱線するとジャグジャカルタから東へ鉄道で一時間、ソロという街がある。ここで降りてタクシーをチャーターし、ジャワ原人博物館へ行った。中学、高校生の研修か、大型バスがならび駐車場は満杯。ジャワ原人については別に書いたので割愛するが、インドネシアの歴史は古いことがわかる。縄文時代に南洋から海流によって日本にやってきた海洋系民族は、このあたりからだろうと推定されている。

閑話休題。ジャカルタ政府がコロナ対策で振り回されているタイミングを狙うかのように、西パプア住民は、インドネシアからの独立を叫び始めた。これを支援するのは付近のキリバス、バヌアツなどだが、国際社会では、西パプア問題には触れようとしない。無関心である。

この島の森林資源と土地に間をつけたのは、中国ではなく、韓国だった。

土地を買い占め、森林を伐採し、パームオイルの植林事業を本格化させた。これに対して住民の反発が引き金となって都市部で暴動となった。住民らは「西パプア共和国」を名乗っているが、未承認国家である。

インドネシアには、このような領土問題がある。

(この項、つづく)

(((編集部から)))●この連載は40回ほどつづきます●


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