東アジア歴史文化研究会

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大陸型の侵略戦争、日本型の自衛戦争 田中英道『日本の戦争 何が真実なのか』を読む(国際派日本人養成講座)

2016-12-04 | 日本の歴史

古代からの近現代までの日本の対外戦争は専守防衛の戦いだった。

■1.欧米、シナとは異なる日本人の戦争観

12月8日、真珠湾の日がまたやってくる。「侵略国家・日本」の行った奇襲攻撃として、日本が汚名を着せられた日である。しかし、アメリカも含め多くの歴史家によって、ソ連のスパイに操られたルーズベルト政権が日本を追いつめ、最初の一発を撃たせた、という史実が機密文書の公開も伴って広がりつつあるのは、弊誌でも紹介してきた。

大東亜戦争に限らず、そもそも古代から近現代までの日本人の行ってきた対外戦争は専守防衛であり、欧米やシナのように相手を殲滅して土地を奪う事を目的とした侵略戦争とは根本的に違う、という事を、史実を通じて論証した書籍が登場した。東北大学名誉教授・田中英道氏の『日本の戦争 何が真実か』である。

1冊の本で、神話時代から近現代までの日本史上の対外戦争を論じた、まさに博覧強記の田中氏ならではの著作だが、本稿ではそのごくさわりを紹介して、読者の参考に供したい。

■2.大陸型の侵略戦争

侵略戦争と防衛戦争の違いを明らかにする上で、まずは西洋史での戦争を見ておこう。その一例として興味深いのは、旧約聖書に描かれたユダヤ神話で、イスラエルの民が国家を形成する過程で、近隣の他民族と戦った戦争である。

「彼らが最初に攻撃したのは先住民が立てこもるエリコという大きな都市国家だった。ヨシュアの指揮のもと、イスラエルの民は隊列を作って連日エリコの周囲をぐるぐると回り、七日目に鬨(とき)の声をあげてエリコの城壁に迫り、それを破壊した。城内に乱入したイスラエルの民は住民を一人残らず殺害し、エリコを焼き払って破壊し尽くした。

この殺戮や破壊には神に対して捧げ物をするという意味があった。アウシュビッツでドイツのナチスがユダヤ人を殺害したことをホロコーストというが、まさにこのホロコーストを地でいったわけである。」

こういう類いの侵略戦争は西洋やシナの歴史では日常茶飯事だった。だからこそ、西洋やシナの都市が城壁で覆われていたのである。この本では、さらに次のような例が挙げられている。

・十字軍 1096年から1272年まで約200年間、キリスト教徒によるイスラム教徒からエルサレムを奪還しようとする戦いで、死者は300万人に上ったとされる。十字軍は手始めとして、遠征途中でラインラントやマインツでのユダヤ人共同体を壊滅させていった。

・英仏戦争 フランス王の跡継ぎ問題が発端となって1337年から1453年まで100年以上も続いた戦争で、350万人の死者がでたとされている。

この本では取り上げられていないが、シナの歴史も同様だ。しかも残虐な侵略戦争が現代でも続いているのが特徴である。

・チベット侵攻 シナ共産党軍は第二次大戦後、日本の6.5倍の広さを持つチベットに侵攻し、600万人のチベット人のうち、120万人の生命を奪い、さらに産児制限や中絶・不妊手術の強制を行った。そして750万人ものシナ人が移住した結果、チベット人はその故郷の地でも少数民族になってしまった。

■3.「三韓征伐」は先制的自衛

次に日本の対外戦争史を辿って、日本人の戦争観を探ってみよう。古事記、日本書紀によれば、最初の対外戦争は、4世紀後半とみられる神功皇后の「三韓征伐」である。同時期に高句麗の好太王碑にも倭と戦った事が記されており、またシナの史書にも記載があることから、ある程度の史実を反映していると考えられる。

好太王碑の記述では、最初に神功皇后が攻めた新羅は戦わずして朝貢を誓い、高句麗も百済も朝貢を約束したという。朝貢を約束するという事は、形の上で臣従さえすれば、土地を奪われ、住民は殲滅されるという心配はないという事である。

当時、半島南部には日本人が多く住んでおり、任那日本府という出先機関まで存在した。新羅、高句麗、百済、そして日本領と錯綜・拮抗したこの地域が、敵対する一国に統一されてしまうと、半島に住む日本人の生命財産が危険に晒され、半島南部の日本の権益を失うだけでなく、日本列島そのものにも危機が及ぶ。

こうした事態を先手で防ごうとすることは、今日に言う「先制的自衛」であった。

■4.白村江の戦い

続く対外戦争は、西暦663年の白村江の戦いである。これは唐の侵攻に敗れた百済の遺臣たちが友好国であった日本に助けを求めたものだった。同盟国・百済を助けようとする集団的安全保障であるとともに、やはり、半島全域が敵対勢力に抑えられたら、日本の防衛そのものが危うくなる、という先制的自衛であった。

日本は2万7千人の軍勢を送ったが、百済側の内紛もあって、唐・新羅連合軍に敗れた。戦後、唐と新羅の襲来を恐れた日本は、九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき)を築いて、国をあげて防衛につとめた。この防衛努力自体が、半島への派兵は先制的自衛が目的だった事を示している。

朝鮮半島が大陸国家に支配されたら、日本の安全がいかに危殆に瀕するかが、史実として示されたのは元寇だった。

モンゴル軍は朝鮮半島を蹂躙したが、その際に捕らえられた朝鮮人は男女二十万余、殺された者は数知れず、と言われている。そのモンゴル軍が高麗兵を引き連れて、わが国を襲った。「対馬・壱岐の女子供が手に穴をあけられて船べりに吊された」と語り伝えられた。

その危機を救ったのが、祖国防衛に命を懸けた鎌倉武士たちであった。彼らがモンゴル軍を水際で食い止めている間に、「神風」が吹き、モンゴル軍のほとんどの軍船が沈んだのである。

■5.スペインのメキシコ、フィリピン侵略

次の対外戦争である秀吉の朝鮮出兵についてはどうか。秀吉の出兵については、当時のスペインの世界侵略という背景を考えなければならない。1494年に、スペインとポルトガルはヨーロッパ以外の世界を両国で二分割するトルデシリャス条約を、ローマ教皇の承認のもとで取り決めた。

この条約に基づいて、1521年、スペインはメキシコのアステカ帝国を滅ぼして、新スペイン副王領を設置した。スペイン人たちが虐殺と略奪の限りを尽くした様子は次のように記録されている。

「40年前にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無残な所行のために、男女、子ども合わせて一千二百万人以上の人が残虐にも殺されたのは全く確かなことである。それどころか私は千五百万人以上のインディオが犠牲になったと言っても真実間違いではないと思う。(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)」

先に挙げた十字軍や百年戦争と並べてみれば、これも西洋史の中では特に異常な事件ではない。

メキシコから太平洋を渡ったスペイン人は1571年までにはフィリピン諸島の大部分を征服した。フィリピンという国名自体が、スペイン皇太子のフェリペから来ている。おそらくメキシコと同様の「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無残な所行」が行われたと見られているが、記録は残されていない。

■6.秀吉の「先制的自衛」

スペインの次の狙いは中国や日本である事を、信長や秀吉は見抜いていた。「スペインは、まず多数の宣教師を送りキリシタンを増やす。そしてキリシタンに改宗した者と力を合わせて諸国の君主を倒してきた」という証言を秀吉はスペイン人から得ている。

実際に有馬晴信、大友宗麟、大村純忠ら九州のキリシタン大名は、フランシスコ・カブラルという宣教師に「領民をキリスト教に改宗させ、神社・仏閣を全て破壊し教会を建設せよ」と命ぜられた。

大村純忠はそれに従って、神社仏閣のみならず祖先の墓まで破壊することを命じたため、一部の家臣が反発して、反乱を起こした。さらにイエズス会に長崎を丸ごと寄付しようとまでした。こうした事件に激怒した秀吉は、1587年にバテレン追放令を出したのである。

ひとたび、その侵略意思を見抜かれては、日本はもはやスペインが征服できる国ではなかった。なにしろ、1543年に種子島に辿り着いたポルトガル人から鉄砲の仕組みを教わると、わずか30年後の長篠の戦いでは、織田信長が3千丁もの鉄砲隊を繰り出していたのだ。この12年後にフランスのアンリ4世の軍隊が持っていたのは、25名の鉄砲隊と300名のピストル隊だけだった。

スペインは、日本よりはるかに豊かで人口も多いシナを征服しようと方針転換を図った。もし、それが成功して、スペインの軍艦をシナの経済力で大量生産されたら、日本にとって、元寇をはるかに上回る脅威となる。

そうなる前にシナをおさえてしまおう、というのが、秀吉の考えだったようだ。そのために「明に行く道を貸すように」と朝鮮に要求したが、朝鮮側も抵抗したので、戦いになった。「朝鮮征伐」とは明に行くための手段であって、目的ではなかった。

秀吉の戦略は無謀だったかも知れない。しかし、その意図は東アジア全体が「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無残な所行」に踏みにじられることを防ごうとするとする所にあったとすれば、それも先制的自衛であったと言える。

■7.日清・日露戦争と日韓合邦

秀吉のキリシタン禁制を受け継いだ徳川幕府は260余年の間、西洋諸国から日本を護ることができた。しかし、幕末に日本にやってきたイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなど新手の勢力は、スペイン、ポルトガルをはるかに上回る近代的軍事技術を備えていた。

これら西洋諸国はアフリカ、インド、東南アジアを侵略して植民地とし、今や最後に残った東アジアに襲いかかろうとしていた。1840年にイギリスが清国を打ち破ったアヘン戦争は、その警鐘となった。

西洋諸国の侵略をいかに防ぐか、これが幕末日本の最大の課題だった。日本の選んだ戦略は「開国攘夷」、すなわち開国して西洋の技術を取り入れて富国強兵を進め、それによって侵略勢力を撃退して独立を護る、という路線だった。

しかし、ここでも朝鮮とシナが足を引っ張る。朝鮮内部では日本に倣って近代化を進めようとする金玉均ら独立党と、中華思想に凝り固まった清国に仕えようとする事大党が対立し、ここから日清戦争に発展した。

勝利した日本は下関条約で清国に朝鮮の独立を認めさせた。したがって、日清戦争も朝鮮の独立安定を図って、日本を防衛しようという先制的自衛の戦争であった。

だが、その後はロシアが満洲に侵出し、朝鮮に手を伸ばそうとしてきた。朝鮮半島がロシアの手に落ちては、日本の安全が再び脅かされる。こうして日露戦争が起こった。これも朝鮮半島を大陸国家に支配させないための先制的自衛戦争であった。

朝鮮半島の帰趨をめぐって、二度も日本は近隣大国との戦争を戦わねばならなかった。朝鮮を独立させたものの、常に強きに従おうとする事大主義では、いつまた足を掬(すく)われるか分からない。朝鮮の100万の民衆からも政治の安定化と近代化を進めるために日韓合邦の要望が出された。こうして朝鮮半島は日本の統治を受けた。

日本の統治下で、朝鮮半島での米の生産量は2倍、人口は2.5倍と高度成長を遂げた。経済だけでなく、5千校以上もの小学校が作られ、子供たちもハングルを学べるようになった。西洋諸国の侵略により植民地となったアジア、アフリカ諸国とは全く違う、安定と繁栄の道を朝鮮は辿ったのである。

■8.八紘一宇の理想を護るための自衛戦争

その後、ロシアが革命を経てソ連として再び強大化し、世界共産化を狙って東アジアに触手を伸ばしてきた。シナ大陸では清朝が倒れた後、国民党、共産党、軍閥が割拠する内乱状態にあった。

ここで日露戦争後にロシアから獲得した租借地を護っていた関東軍が動いて満州国を成立させた。満洲はもともと満洲族の地であり、そこに満洲王朝であった清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を立てて、皇帝とした。そこで日本人、韓国人、満州人、モンゴル人、シナ人の五族が協和する「王道楽土」を作ろうとしたのである。

これにより、満洲は大陸で唯一安定した地域となり、日本の資本投下により、鉄道、道路、港湾、ダムなどのインフラ整備が急速に進んだ。その安定と繁栄に憧れて、毎年100万人以上ものシナ人が戦乱を逃れて流入した。そして満洲を護る日本軍は、ソ連南下を防ぐ防壁となったのである。

朝鮮や満洲、そして台湾も、ヨーロッパ諸国がアフリカ、インド、東南アジアを、そしてシナがチベットを侵略し、搾取した植民地支配とは全く異なる日本型の統治により安定化し、異なる民族が力を合わせて繁栄したのである。

そこに働いていたのは、八紘一宇、すなわち天の下(八紘)に住むすべての人が、一つ屋根(一宇)に住む家族のように仲良く暮らそうという理想であり、また日本の行った対外戦争は、その理想を侵略勢力から護るための自衛戦争なのであった。

(文責:伊勢雅臣)

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