Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

最高のチーム

2010年08月28日 | 格闘技・武道

ボクサーは、一たんリングに上がれば、己が拳を頼りに1人、孤独に戦うしかない。

しかし、試合のインターバルでは、選手に付き添うセコンドが戦術や作戦を指示し、傷の手当てをし、選手が危険と判断した時には、タオルを投入して試合を終わらせる権限さえもつ。

それは、ボクサーが全幅の信頼を寄せる人間のみがセコンドに立てる・・というコトをイミする。

  

トレーナーダブ・ハントリーと、カットマン(止血係)のジェリー・ボイドは知る人ぞ知る、アメリカ、ボクシング界の名コンビ。 

ダブ・ハントリーは世界ランク9位までいった、世界タイトルも狙える有能なボクサーだったが、 網膜はく離で左目を失明し、引退。

トレーナーに転向し、世界チャンピオンを育てるコトが夢になった。

 

一方のジェリー・ボイドは1930年、カリフォルニアの労働者の家に生まれ、靴磨きをしながら演劇学校を卒業、舞台俳優を目指すが挫折。

今度はメキシコで闘牛士になろうとするが、これも挫折。

アメリカに戻り、アイスクリーム工場の工員や私立探偵など、職を転々とするが、どれも長続きせず、小説家になるという夢もあったが、何度編集社に持っていっても相手にされず、3度結婚して3度離婚するという、何も成し遂げられない孤独な中年・・。

 

KO負けし続けるボクサーさながらの人生を送るジェリーは、自らの人生をボクシングに重ね合わせ、こんな自問自答を繰り返していた。 

 

「なぜボクサーは、体も魂も、すべてを賭けて戦うコトが出来るのか?それもチャンピオンだけでなく、敗者さえも・・」

 

―それが分かれば、もう1度やり直せる気がする・・と、ボクシングを教えてくれるようダブに頼み込んだ。

 

アメリカのボクシング界では、ボクサーはジムに所属するのではなく、トレーナーと個人的に契約を結び、試合が組まれれば、ファイトマネーの10%をトレーナーがもらう・・というのが主な収入源で、日頃のトレーナー料はごくわずか。

ダブはその執念に根負けし、トレーナーにはならないが、ボクシングは教えてやる・・と、定職をもたないジェリーから一切トレーナー料を受け取らず、ボクシングを教えはじめた。

 

この時、ジェリーは49歳、ダブは36歳。

 

ジェリーは意外に筋がよく、熱心にダブが教えたボクシング技術を吸収していく。

一方、ジェリーは、まだ黒人差別が激しい時代、早朝から倉庫の積み下ろしのバイトをしてギリギリの生活をするダブの窮状を見かね、自分が働く白人相手の収入がいいナイト・クラブの仕事を紹介したりと、何の得にもならない、さえない中年の自分に無償でボクシングを教えてくれるダブに、何くれとなく世話をやいた。

こうして年の差13歳、白人と黒人の、年齢も人種も越えた2人の友情は育まれていった。

 

しかし、左目を失明しているダブは、セコンドとして的確な指示が与えられず、トレーナーとしての限界を感じていた。

ジェリーは「俺がお前の左目になってやる」・・と、あっさりボクシングをやめ、カットマンとしてダブをフォローし、ともにダブがトレーナーを務めるボクサーのセコンドにつくようになった

 

ダブが、自分のもつボクシングの知識をすべて叩き込んだジェリーの観察眼は確かで、2人は世界中を転戦し、抜群の戦績をあげた。

 

やがて、ダブとジェリーのコンビの名は全米のボクシング界に知れ渡り、有能なプロ選手からのオファーも殺到、2人が擁するボクサー、トニー・バードは1993年3月25日、見事、フランク・ニコトラを下し、世界タイトルを獲得した。

2人は最高のチームとしてその絆を深め、お互いになくてはならない存在となっていた。

いつしかダブの、アマチュアの選手を1から鍛えて世界チャンピオンにする・・という夢は、ジェリーの夢にもなっていたのだ。

 

既に出会いから21年の歳月が流れ、その間、ダブとジェリーのコンビは、実に7度のタイトルマッチ(!)を経験した。

 

ジェリーは70歳の白髪の老人、ダブももう57歳になっていた。

 

しかし、この2人の友情の物語にはつづきがある。

 

その話は、この次に・・。

(カテゴリー/映画・ドラマ:「ミリオンダラー・ベイビー」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/d95bf52478a076cbaf0e5b4487ff1262