Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

ギリシャと日本を結んだ遊牧騎馬民族・スキタイ人

2016年04月01日 | 歴史・民俗

比較神話学によると、『記紀』神話と南方系の神話、さらにはギリシャ神話との共通点があるコトは既に見た。

カテゴリー/歴史・民族:「比較神話学から見た記紀神話」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/f99d8ab8e376d047373bcd73a7226be2


ギリシャと日本という東西の文化をつなげたのは、アジア内陸に幅広く存在した遊牧騎馬民族だという。


ギリシャ文化の全盛期は紀元前1000~400年頃であるが、その当時、ギリシャ人は黒海に進出し、植民市を数多く築いていた。



 

この黒海周辺の内陸に住んでいたのが、スキタイ人と呼ばれる、世界最初の遊牧騎馬民族国家を築いた人々だった。

スキタイ人はギリシャ植民市と密接なつながりを持ち、とりわけギリシャ神話への造詣が深く、その一部を自分たちの先祖と結び付け、ギリシャ神話を自らの神話としたという。

スキタイ人は文字を持たなかったが、土器や金属器に、あきらかにギリシャ神話をモチーフとしたものを描いたものがあるコトからも、その影響の強さがうかがえる。


そもそも、ギリシャ神話というのは実に面白く、完成された神話体系をもっていたので、国家としてはギリシャをはるかに凌ぐローマ帝国も、神話のほとんどはギリシャ神話を引き継いでおり、ギリシャ・ローマ神話と呼ばれるほど。


スキタイ人は小アジアと呼ばれる黒海カスピ海沿岸にいたが、彼らのすぐれた文明は交易などを通じて、より東にいたアルタイ系の遊牧民族に伝わった。


またスキタイ人は農業も同時に行っていたので、それらも彼らとともに東へと伝わり、ついには朝鮮半島に達し、高句麗百済という遊牧民族系国家を生み出すコトになる。


そして、その文化はもちろん、日本へ伝わった。

日本への伝達ルートとしては、最も北寄りのルートになる。



文献上にはない、日本の邪馬台国から大和朝廷へと至る”謎の4世紀”を埋める仮説の1つに、有名な「騎馬民族征服王朝説」があり、このスキタイ人の話は興味がつきない。


もちろん、だからといって、遊牧騎馬民族が日本を征服した・・というコトではないが、そうした遊牧民族を祖とする氏族が日本に渡来し、自分たちの先祖の神話を、うまく日本神話へと取り込んで接ぎ木した・・という可能性は、十分考えられるのではなかろうか?



歴史紀行作家の中山良昭は、それが百済系渡来人といわれる蘇我氏だというコトも考えられる・・と述べている。

(cf.P100 中山良昭著『「古代神話」に隠された日本人起源の謎』河出書房新社:2010



おもしろいのは、ギリシャ神話の中では、比較的傍系のエピソードであるオルフェウス・エウリディケデメテルの話は、それぞれイザナギ・イザナミがその後、穢れを祓う禊を行った後にアマテラスツクヨミスサノオ三貴子を産む前の重要な話、あるいは天の岩戸開きの神話であり、『記紀』神話における最も根幹を成すエピソードとなっており、この話を伝えた氏族は大きな力を持ったと推測できるとも、前掲書で中山は言っている。


いずれにせよ、日本の中だけのちまちまとした話ではなく、世界的な視野でとらえた時、日本の本来の姿というものも、また見えてくるのではないだろうか?


比較神話学から見た記紀神話

2016年03月29日 | 歴史・民俗

古代史や日本人のルーツをひも解くにあたって、様々なアプローチがある。

考古学言語学遺伝学・・と、それぞれに諸説生み出しているが、特に理化学的な研究はめざましく、DNA研究から、現生人類は約20万年前にアフリカ中部にいたある1人の女性=イブを母親としているコトが判明している。

日本人の起源に関する研究では、ミトコンドリアDNAY染色体の他にも、血液型のうち血清の型を決定するGm遺伝子、白血球の型HLA(ヒト白血球抗原)、ATL(成人T細胞白血球)ウイルス分布による説など、まさしく科学的根拠をもった説が学界を席捲している。

 

ちなみにHLAの遺伝子の型の分布を調べた結果、日本人にもっとも多い型は、バイカル湖周辺を含むモンゴル人に多い型で、日本列島では北九州から東北まで分布、Gm遺伝子でも同様に日本人の起源は北方型モンゴロイドであり、その起源はシベリアのバイカル湖周辺だと言われている。

 

さて、そうしたアプローチの中でもユニークなものは、『比較神話学』と呼ばれるものであろう。

比較神話学とは、世界中の民族がもつ神話を比較し、その共通性を探り、分類する学問で、 日本でも1960年代から大林太良によって研究が進められ、本来は西洋古典学者の吉田敦彦が、ギリシャ神話やその周辺の中央アジアや北欧神話の研究成果と日本神話を結びつけるコトで、より深化していった。

そうした中で、『記紀』神話も日本で独自に生まれたものではなく、同様なモチーフの神話が世界各地に存在し、その影響を受けたものと考えられるようになった。

 

たとえば、天の岩戸神話「太陽の復活型神話」として、インド東北部のアッサム地方や中国南部から東南アジアにかけて広がる照葉樹林文化地域にしばしば見られるという。

『古事記』に出てくるオオゲツヒメ『日本書紀』ではウケモチ)という女神が、体や排泄物から食物を作って供したトコロ、「汚いものを食べさせた」と怒ったスサノオ『日本書紀』ではツクヨミ)から殺され、その屍体から五穀が生まれる・・という話は、"ハイヌウェレ型"と呼ばれる「作物起源神話」として、東南アジア、オセアニアから南北アメリカといった環太平洋地域全域に広がっている。

典型的なのが、インドネシアセラム島ヴェマール族に伝わる神話で、ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女の排泄物が宝物になるので、それを村人に配ったトコロ、村人たちは気味悪がって彼女を殺してしまい、屍体を切り刻んであちこちに埋めてしまった。

すると彼女の屍体からは各種のイモが生えてきて、人々の主食になったというもの。


また海幸・山幸神話「失われた釣り針神話」として南洋諸島各地に、因幡の白ウサギ神話「間抜けなワニ神話」としてマレー半島に共通している。




これらのコトから、日本は少なくとも南方系―スンダランド起源のオーストロネシア文化の影響を強く受けているコトが分かる。



―が、もちろん、それだけでなく、多くの人が意外に思うかもしれないが、『記紀』神話とギリシャ神話の共通点が多いコトが指摘されている。

高天原に八百万の神々が住むという日本神話と、オリュンポスの山上に12神ほか多くの神々が住むギリシャ神話

ともに”神”といえども人間と同様の姿形で喜怒哀楽をもつ、非常に”人間的”な神々である。


『古事記』の冒頭にある天地創造の話(『日本書紀』は少し異なる)は、混沌の中から最初に三神が誕生するコトも、ギリシャ神話と同じである。


またギリシャ神話の豊穣の女神デメテルの隠遁と復活の話は、天の岩戸神話と共通しているとされる。


亡くなった妻に死者の国に会いに行く「亡妻神話」ともいえるイザナギ・イザナミの話とオルフェウス・エウリディケの話は、驚くほどそっくりある。


さらにギリシャ神話の英雄ヘラクレスに与えられた12の難行のうち、9つの頭を持つヒュドラを退治する話があるが、このヒュドラから我々日本人は、スサノオが退治したヤマタノオロチを連想するだろう。

(カテゴリー/歴史・民俗:「ヤマタノオロチ」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c1d178fe558e7a7b020f0284720afcb5


これらの共通点は、単なる偶然の一致では片づけられない。

先の比較神話学者・吉田敦彦は、ギリシャ神話を日本に紹介するとともに、インド・ヨーロッパ語圏の神話と日本神話の関連性を明らかにしてきた。

実際に、ギリシャ神話は日本にまで届いていたのである。


東洋と西洋の文化には、厳然とした断絶があるかのように思えるが、こうして見てみると、当然、東西文化に連続性があるコトがわかる。


では、ギリシャと日本を結びつけたのは、どんな人々だったのか?・・というと、アジア内陸部に幅広く存在した遊牧騎馬民族であるという。


つづきは、また・・。

(カテゴリー/歴史・民俗:「ギリシャと日本を結んだ遊牧騎馬民族・スキタイ人」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/afc7cd5e515c8cbeac811c9cfdff004c



 

 

 

 


建国記念日

2016年02月11日 | 歴史・民俗

今日、2月11日建国記念日

この日が制定されたのは、1967(昭和42)年だそう。

 

 

記紀において初代天皇とされる神武天皇

その神武天皇が即位した日が、『日本書紀』紀元前660年1月1日(旧暦)とあり、その即位日を明治に入って新暦に換算した日付が2月11日だという。

 

中国では「辛酉革命」といって、60年に1回めぐってくる十干十二支の組み合わせが辛酉(しんゆう)の年には天命が改まり、特に21回—すなわち、1260年ごとに大きな変革が起こるとされていた。

そこで『日本書紀』の編纂者は、まず聖徳太子が国家基盤をつくった601年の辛酉の年を革命の年とみなし、そこから1260年遡った辛酉の年にも大革命があったというコトで、神武天皇即位の年にしたのではないか?・・と考えられている。

その年が紀元前660年・・というワケなのである。

 

1873(明治6)年に「紀元節」として定められ祭日となり、翌年から適用されたが、戦後、GHQの意向で廃止された。

その後、復活の動きが高まり、「建国記念の日」として1966(昭和41)年に国民の祝日となり、翌年から適用された。

 

ちなみに紀元節でいうと、今年は皇紀2676年となる。

これは単純に西暦に660を足すだけ・・。

 

神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたとされている。

その神話的なエピソード等、実在の人物かも含めて、そのまま記紀の記述どうりが史実であったとは、当然ながら、アカデミズムの現場でも考えられていない。

 

通説では、第2代・綏靖天皇~第9代・開化天皇の8代は、「欠史八代」と言われ、詳しい記述などないコトから、後世の創作とされる。

実在したのは、第10代・崇神天皇から・・と考えられているのである。

 

では、初代の神武天皇は・・?

 

『古事記』の中で崇神天皇以前の歴代天皇に「崩年干支」が記されていないため、神武天皇を含む9代の天皇は実在せず、第10代・崇神天皇が実質的な初代天皇・・という考えは、ほぼ定説化している。

ヤマト建国を3世紀半ばから後半、あるいは4世紀初頭とすると、崇神天皇の在世時が、ほぼこの時代に合致して来る。

 

さらに『日本書紀』は崇神天皇を「ハツクニシラススメラミコト」=”はじめてこの国を治めた天皇”と呼んでいるが、実はこの「ハツクニシラススメラミコト」という称号、神武天皇と同じなのである

 

初代・神武天皇と崇神天皇は、同一人物だったものを、天皇家の歴史を古く見せかけるために二つに分けた・・という説もあり、『日本書記』の神武天皇の治世の記述は中間が抜け落ちていて、崇神天皇の記事が、ちょうどすっぽりハマるような関係にあるのだ。

 

神武天皇=崇神天皇・・というワケである。

 

神武も崇神も名前に「神」がある。

名前に「神」がある天皇はもう1人、第15代・応神天皇がいて、「神武東征」のルートをなぞるように、応神天皇も東征している。

歴史作家の関裕二は、この3人に分けて初代天皇の話が語られている・・としている。

 

すなわち、神武天皇=崇神天皇=応神天皇・・。

 

 

ヤマト建国は、中国の史書などに記述のない、4世紀のほぼ百年の間の出来事で、その期間は考古学上、「謎の4世紀」と呼ばれている。

そして、その百年間に邪馬台国から大和朝廷へと日本は大きく様変わりした。

邪馬台国が大きくは畿内説、九州説といまだに論争が続いているのにもこうした背景があるからである。

 

ちなみに天皇ではないが、記紀にはもう一人、名前に「神」のつく人物が登場する。

第15代・応神天皇の母親である神功皇后である。

 

彼女は卑弥呼ではないか?・・という思わせぶりな記述も記紀にはある。

 

天皇家の歴史、いろいろな話があって非常に興味深いのであるが、さて・・?

 


式年遷宮

2013年12月30日 | 歴史・民俗

今年も残りわずか。

2013年も慌ただしく、おわりが差し迫ってきた。

 

九星気学という占いでは、今年、2013年は再生の年―新しく生まれ変わる年というイミがあるのだそうだ。

震災や不景気からの復興・・という年だったコトは言うまでもないが、今年は伊勢神宮式年遷宮―「遷御の儀」が行われた年である。

簡単にいうと神様のお引越しで、新しく造り直した本殿にご神体が遷る・・とゆーもの。

 

伊勢神宮の正式名称は地名の付かない「神宮

天皇家の皇祖神、すなわち皇室の氏神である天照大神を祀る神社本庁の本宗―まさしく、神階も社格もない、別格の”THE”神社である。  

 

「式年」とは定められた年・・というイミで、伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとに行われ、今回が62回目! 

戦国時代に中断されていたものの、飛鳥時代から1300年続くとされる神事である。

 

神威を更新するというイミのあるこの行事であるが、今年は60年ぶりに出雲大社でも新しい社殿にご神体を遷す「本殿遷座祭」が行われた。

両行事が重なるのも60年ぶり!

 

ちなみに出雲大社の遷宮は60年~70年に1度と定まっておらず、したがって”式年”遷宮とは呼ばないそう・・。

 

 

いや~・・イミのある年ですね・・。

 

皆さん、よいお年を!

 

 

 

 

 

 


ぬらりひょん

2011年01月24日 | 歴史・民俗

「”ぬらりひょん”はちょっと見ただけではただのお爺さんにしか見えない。

ふつうの人とちょっとちがうのは、頭が大きくて才槌頭(頭の前と後ろがつきでた木槌のような形の頭)で、額にくっきりと青筋(血管)がうかびあがっているくらいだ。

江戸時代になって有名になった妖怪で、いつもおしゃれな着物をきて、手に扇子を持ち、いかにもお金もちの商人のふりをしていた。

自家用車がわりに駕籠に乗って遊びまわっていたようだ。

ちなみに駕籠の中から立ち出ることを「ぬらりん」という。

ぬらりひょんの正体をあばこうとしても、ぬらりくらりしてすぐ逃げられてしまう。

「ぬらり」とは体がヌルヌル、またはスベスベして捕えどころのないという意味で、「ひょん」とは、思いもよらぬとんでもないもののことである。」

 

―先日、友人から誕生日プレゼントにもらった「百鬼夜行・妖怪コレクション」の箱に書かれていた、妖怪研究家多田克己による”ぬらりひょん”の解説である。

 

ぬらりひょんといえば、「ゲゲゲの鬼太郎」などで、妖怪の総大将として描かれているが、そのような位置づけをしたのも水木しげるによる。

しかし、水木自身、『図説 日本妖怪大全』の中で、「妖怪の総大将ともいわれている。もっとも、やることはあまり総大将らしくない。」・・とバッサリ。

 

夕方、人が忙しがってる時に、どこからともなく現れ、勝手に座敷に上がりこんでお茶を飲んだり、煙草を吸ったりするとか、実に害がない・・。

まず何より、「ぬらりひょん」てネーミングの音の響きが笑える・・。

 

そーゆー、なんだかワケはわからないが、妙に愛嬌のあるのが、妖怪のいいトコロなのだろう・・。

 

多田克己によると、日本の妖怪はおよそ千種類!

「ぬらりひょん」とか「のっぺらぼう」など、妖怪の呼び名自体は、その4倍の4千種(!)もあり、その数は、日本に実際に棲んでいる獣や鳥の数より多いコトになってしまうという・・。

そのうち、明治時代までに絵に描かれた妖怪は400種で、そのほとんどが江戸時代に描かれ、その半分の200種は、江戸の浮世絵師にして妖怪画家であった鳥山石燕の手によるとか。

 

ぬらりひょんの姿も、江戸時代に描かれたさまざまな妖怪の絵巻物や、石燕の『画図百鬼夜行』で見るコトが出来るそうだ。

 

ちなみに上の絵が、まさしく『画図百鬼夜行 前篇 風』にある、石燕によるぬらりひょんである。

 

ちょうど、駕籠から”ぬらりん”と出ているトコロ。

 

いやー、いい味出してるねぇ・・。


草創期のキリスト教会

2010年12月25日 | 歴史・民俗

12月25日イエス・キリストの誕生日とされたのは、5世紀以降だという。

ギリシア正教では1月7日アルメニア教会では1月19日にクリスマスを祝う・・と、教派によってまちまちで、最近の学説では4月あたりではないか?・・とも言われているそうだ。

古代ローマで栄えたミトラ教では、ナタリス・インウィクティという祭典が12月25日にあり、太陽神ミトラスが、冬至を境に日が長くなるコトを、太陽神が「復活する」祝日として大々的に祝う習慣があったのを、キリスト教が習合し、イエス・キリストの誕生祭を祝うようになったのだという。

 

ところで、イエスはキリスト教の教祖・・というのが、我々の一般的な理解である。

イエスが来られた当時のユダヤ教は、祭司を頂点にサドカイ派パリサイ派律法学者熱心党(ゼロテ派)エッセネ派といった教派が存在しており、古代ローマ帝国の属国であるユダヤには、ローマから派遣されたエドム人の王、ヘロデ・アグリッパが君臨、事実上、ユダヤ人社会においては大祭司が権力を握っていた。 

当時のユダヤ教に、これだけ多くの宗派が存在していた・・というコトは、モーセが説いたオリジナルの”原始ユダヤ教”が、大きく変質してしまっていたコトをイミする。

本来、人のためにある律法が、人が律法のためにあるかのような本末転倒な事態が日常茶飯事になっており、律法学者らにとって、安息日に癒しの業を行うイエスは、安息日を破る律法の破壊者であり、癒しの業自体が「悪霊のかしらベルゼブルによる」(マタイ12:22~24)ものと非難された。

 

しかし、そもそもイエスは、何も「キリスト教」という新興宗教を興そうとしたのではなく、”原始ユダヤ教”への原点回帰―すなわち、神の本来の教えに立ち返るコトを訴えたワケで、意識としては、当然、ユダヤ教徒であり、イエスらは、いわば、ユダヤ教”イエス派”とでもいうべき群れだった。

当時、イエスを異端と排斥し、殺してしまったユダヤ人社会がイエスを受け入れていたなら、大きく世界は変わっていたに違いないだろう。

 

彼ら、イエスの12使徒や弟子たちによる草創期のキリスト教会は、共同体のような生活(使徒行伝2:44~47)をしており、これを「エルサレム教団」と呼ぶ。

いわゆる、初代教会、あるいは原始キリスト教会である。

 

当然、エルサレム教団は全員がユダヤ人であり、このユダヤ人キリスト教徒と、パリサイ派や律法学者といった保守的なユダヤ人ユダヤ教徒とが対立した。

 

これは教義上の解釈の問題においての対立であろうが、文化的な対立もあった。

ヘブライストヘレニストの対立がそうで、ヘブライストとはヘブライ語(アラム語)を話すユダヤ人キリスト教徒のコトで、ヘレニストとはコイネー・ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒のコトである。

各地へ離散したディアスポラのユダヤ人が多く使っていたのが、地中海沿岸に広まっていたコイネー・ギリシア語で、アラム語を話すユダヤ人に匹敵するほどの勢力になり、聖書にも「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して」苦情が出た(使徒行伝6:1)とある。

 

異邦人に対して布教を行っていたヘレニストのステパノの殉教によって、さらに対立は激化、その過激な布教活動がパリサイ派らとの衝突を招き、エルサレム教団そのものにも迫害の手が及んだ。

これによって、エルサレムにこだわらないヘレニストが、追放に近いかたちで追い出され、アンティオケアという都市に集結、ここを拠点として異邦人への布教を大々的に開始した。

これがもう1つの原始キリスト教会、パウロ率いる「アンティオケア教団」である。

 

ペテロ率いるエルサレム教団が従来のユダヤ教の律法を守り、ソロモン第2神殿への礼拝を行っていたのに対し、アンティオケア教団はイエスの福音を教義の中心に据え、神殿にこだわるコトはなかった。

(カテゴリー/人生覚書き:「岩と呼ばれた男」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02346f9ffe6b0725180514d8f87f4ea5

 

時がたち、布教が進むにつれ、アンティオケア教団では異邦人キリスト教徒が増え、ユダヤ人キリスト教徒との間に軋轢が生じるようになる。

異邦人キリスト教徒にも、ユダヤ人と同じように割礼を受けさせ、律法を守らせるべきか? ―エルサレム使徒会議の結果、異邦人に対しては、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいコトになり、これがキリスト教がユダヤ教の戒律から離れ、世界的な宗教へと発展していくための大きな転換点となった。

 

そんな中、いわゆる”アンティオケアの衝突”がおこる。

律法によって、ユダヤ人が異邦人と同じ食事をとるコトは出来ないが、アンティオケア教団では区別なく、同じ食事をとっていた。

たまたまアンティオケア教団を訪れていたペテロも、異邦人と共に同じ食事をとっていたが、そこへエルサレム教団から派遣された使者がやって来て、異邦人と同じ食事をとるトコロを見られたくないペテロが態度を変えたコトをパウロが非難、ペテロとパウロの対立―すなわち、エルサレム教団とアンティオケア教団の対立は決定的になった。

それでもエルサレム教団とのつながりは求めるパウロは、自らアンティオケア教団を離れ、単身、布教活動をするようになる。

 

紀元37年、古代ローマ帝国の皇帝にカリグラが即位、自らを神とし、自分の像を崇めるよう強要したが、偶像崇拝を禁ずるユダヤ人はこれを頑強に拒み、徹底的に弾圧された。

しかし、それが彼らのアイデンティティを刺激し、さらに信仰を強固にした。

また、そうした迫害が続く中、パウロとペテロは布教のため、ローマに上り、彼らの説くイエスの教えは奴隷や下級市民の心をとらえ、爆発的にキリスト教徒が増えていった。

被支配階級の団結を恐れた支配階級の人々が、キリスト教徒がテロや放火を行っているなどのデマを流し、紀元64年に皇帝になったネロは、実際にローマ市外に放火、これをキリスト教徒の仕業として、熾烈な迫害を行い、パウロをはじめ、多くの殉教者を出した。

表立って活動していたローマにいるキリスト教徒は1人残らず迫害され、惨殺されていった。

 

また属国ユダヤを統治する、ローマから派遣されたヘロデ王にとっては、ユダヤ人が反乱などを起こすと自分の立場が危うくなるため、キリスト教徒をスケープ・ゴートにして利用しようと考え、迫害した。

日頃からユダヤ教徒は、キリスト教徒に対し、嫌悪感を抱いていたため、彼らを迫害すれば、自ずとユダヤ人ユダヤ教徒はまとまるだろうと踏んだのだ。

 

このようにユダヤ人ユダヤ教徒によるユダヤ人キリスト教徒の迫害は、相変わらず続いていたが、イエスを十字架につけたのは「ユダヤ人」である・・という認識が、実際にイエスを殺したユダヤ人ユダヤ教徒のみならず、ユダヤ人キリスト教徒にまで拡大・・。

 

すなわち、紀元1世紀頃、ユダヤ人キリスト教徒のエルサレム教団は、同じユダヤ人であるユダヤ教徒から迫害され、ローマでもキリスト教徒として迫害され、同じキリスト教徒であるアンティオケア教団の異邦人キリスト教徒とも対立、さらには、単に「ユダヤ人」である・・というだけで、神の子、イエス・キリストを殺したと、同じキリスト教徒からも迫害されるという、内部からも外部からも、2重3重の迫害、弾圧、差別を受け、孤立無援の状態だったのである。

 

キリスト教徒のコトを”クリスチャン”と呼んだのは、アンティオケアの非キリスト教徒が最初だというが、今では美しい響きをもったこの言葉も、当初は「キリストに狂った者」・・というほどのイミをもった差別的な言葉だったという。

今では世界宗教として世界中に信者をもつキリスト教であるが、草創期のキリスト教会は、いわば、当時の既存の社会秩序をおびやかす、カルト集団に他ならなかった。

 

救世主として来られたイエスを慕い、迫害を受け、殉教していった者たちの姿を見ながら、本当の世界宗教としてのキリスト教は、誕生したのである。

 

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまづき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:9~13)

 

 

 

 

 

 

 

 


鬼と天皇

2010年12月17日 | 歴史・民俗

『古事記』崇神天皇の条にこうある。

この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にてつきむとしき。ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床(かむどこ)に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意宇多多泥古(おおたたねこ)をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。(cf.P99「古事記」岩波文庫)

―注釈によると、”神床”とは、「夢に神意を得ようとして忌み清めた床」のコトで、崇神天皇の時に疫病が流行り、たくさんの人が死んだため、神託を得ようとしたトコロ、大物主神が現れ、この災いは自分の意志であるので、大田田根子なる人物をもって祀らせれば、国は平安になる・・と言ったというのだ。

 

崇神天皇は「意宇多多泥古命をもちて神主として、御諸山(みもろやま)に意富美和(おほみわ)の大神の前を拝(いつ)き祭りたまひき。~(中略)~これによりて役の気悉に息みて、国家(あめのした)安らかに平らぎき。」とある。

”御諸山”は「奈良県磯城群三輪山」のコトで、大和最大の聖地。

”意富美和”(おほみわ)は三輪山にある「大神」(おおみわ)神社のコト。

疫病を流行らせ、祟った大物主神がいる三輪山を、天皇が丁重に祀らせるコトで疫病もやみ、世は平安になった・・とゆーワケだ。

(カテゴリー/歴史・民俗:「出雲神」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/e196fd51615f0558e832d1dbe6f097dc

 

大物主神は出雲の神様である。

出雲神は、記紀神話で「邪神」「邪鬼」と呼ばれたごとく、「神」であると同時に、祟る「鬼」である。 

 

「神」と「鬼」では、まるで対極の存在に思われるが、「鬼」が「オニ」と読まれるようになったのは平安時代以降で、本来、「モノ」と読んでいたそうだ。

これは万物に精霊が宿るというアニミズムから来る考え方で、八百万の神々を祀る日本人の信仰観の源流といえよう。

 

自然万物、すなわち「モノ(物)」に精霊=神が宿る。

自然は恵みをもたらす「神」であると同時に、人の力の及ばない災いをもたらす、恐れられる「鬼」でもあるのだ。

また「モノノケ(物怪)」といえば、妖怪や、霊的な存在や現象をイミするトコロから、「モノ」には自然万物(物質)と、森羅万象の現象(非物質)という両面のイミをもっているといえよう。

 

大和岩雄『鬼と天皇』の中で、天皇と鬼の関係について、

天皇に対する存在、「まつろわぬもの」としての蝦夷や酒呑童子のような鬼

鬼を討つ側の天皇権力としての鬼

天皇権力の側に居たものが権力から追放されてなる鬼

・・の3つをあげている。

は権力(中心)に対立する鬼で、周辺・辺境の存在、は権力としての見える鬼、は権力から追放され、周辺・辺境の存在となり、死後、見えない鬼=怨霊となって権力を祟る鬼で、天皇と鬼は表裏一体の関係であると述べている。

この大物主神はにあたるだろうか・・?

 

天皇制が現在まで続いてきた理由の1つとして指摘されるのが、天皇は単なる「聖」なる存在ではなく、周辺の「俗」なる力、祟る鬼の力を自ら取り込んでいたからではないか?・・というものだ。

祟る鬼である出雲神・大物主神を祀る天皇は、まさしく指摘どおりである。

 

また、「鬼」の一族の末裔として蔑視されてきた人々が、社会の最下層に位置しながら、一方で神仏に仕える神聖な役割を担ってきたのは、天皇という「神」に近い存在だからに他ならない。

鬼の末裔を自称する八瀬童子が牛飼いとして天皇に近侍し、多くの行事に参加していったのはそのよい例であろう。

 

網野善彦も、俗世間や権力から縁を切られた”無縁”の人々が、律令制度という支配システムの最下層に位置していたがゆえに、自由な活動が出来、天皇とつながっていたと指摘。

律令制度は、中央集権国家をつくるために、すべての民と土地を天皇のもとに集め、再分配するというシステムで、土地に定着した農耕民から税を徴収した。

それゆえ、土地に定着しない芸能民、勧進(物乞い)、遊女といった漂白の民や、鋳物師、木地屋、薬売りなどの商工民や職人、非農耕民が”無縁”の人々であり、社会の枠組みの中で最下層の人々と蔑視される一方で、天皇の名のもとに通行の自由、税や諸役の免除、さらには天皇や神社に、海の幸や山の幸を献上する供御人としての特権を有していた。

 

天皇自身が税もとられず、罪と罰から免れた律令制度というシステムの枠組みから外れた特別な存在であり、”無縁”の人々と通じる。 

 

律令の法体系やシステムにおいては、天皇も”無縁”の人々も、同じ「人ならざるもの」なのであり、忌み恐れられる存在なのである。

 

 

 

 

 

 

 


忠臣蔵

2010年12月14日 | 歴史・民俗

今日、12月14日は「忠臣蔵」でおなじみ、赤穂浪士討ち入りの日。

正確には元禄赤穂事件と言うそうで、「忠臣蔵」は、この事件を題材とした歌舞伎文楽(人形浄瑠璃)の演目、『仮名手本忠臣蔵』の通称。

 

元禄14(1701)年3月14日、江戸城内松の廊下にて赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家肝煎・吉良上野介義央に切りつけた刃傷沙汰―いわゆる、松の廊下事件に端を発する。

事件が勅使饗応の直前だったので、時の将軍、徳川綱吉は激怒、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩はお取りつぶしとなる一方、被害者の吉良はおとがめなしとされた。

それを不服とする家老・大石内蔵助良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人―いわゆる“赤穂四十七士”による、本所・吉良邸への討ち入りが成されたのが、元禄15(1703)年12月14日・・なのである。

(旧暦の12月14日なので、実際は1月30日で、さらに正確には翌日未明のコトだそうだが・・

 

それまで仕えていた赤穂藩がお取りつぶしになったため、家臣は皆、”浪人”となったワケで、”赤穂浪士”というのはそのため。

 

映画、「最後の忠臣蔵」が今週末から公開されるが、毎年、年末のこの時期になると、「忠臣蔵」を題材にしたドラマや映画、CMなどが流れる。

それだけ忠義に生きた赤穂浪士たちの姿が、日本人の胸を打つ美談として語り継がれていて、今なお愛されているコトがわかる。

これぞ、武士道!・・とゆーワケである。

山岡鉄舟も江戸時代の武士道の例として「赤穂四十七士と山鹿素行」を挙げている。

 

山鹿素行は後の吉田松陰らにも影響を与えた儒学者にして軍学者、山鹿流兵法、および古学派の祖で、赤穂藩士の教育をし、大石もその門弟の1人といわれる。

討ち入りの際、陣太鼓を打ち鳴らし、「あれぞ、まさしく山鹿流」・・という場面があるが、実際は笛と鐘で、太鼓はなかったそうだ。

 

しかし、当時、既に儒学者・荻生徂徠「その事は義なりと雖も、その党に限る事なれば、畢竟は私の論なり」と、およそ公的な性格のない、私的な行為と批判している。

 

また「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」・・の一節で有名な佐賀鍋島藩『葉隠』では、「上方風のつけあがりたる武士道」といって批判している。

すなわち、仇の吉良は、60をすぎた老人、いつ死ぬかわからない。

死ねば仇討ちの機会は失われてしまうにもかかわらず、1年以上、待っているのは計画を立て、必ず成功させようという”打算”がはたらくからである。

その成否は問わず、まず、仇討ちの志を表現するコトこそ、何にもまして尊い。

 

また、討ち入りに成功して泉岳寺に引き上げ、主君の墓前に吉良の首級を供えた後、なぜ直ちに自決しなかったのか?

目的を遂げ、自決してこそ武士道を全うするのに、あそこで生き長らえたのは、心情において、いやしいものを感じる・・。

いずれにしても、動機が純粋でない・・というものである。

 

―要するに、真の忠義とは、行動において「死ぐるい」=無我夢中でなければならない・・と説いており、決して『葉隠』がいう武士道が、死を美化したり、推奨したりしているワケではないので、誤解なきよう・・。

 

もちろん、「忠臣蔵」は、実際の事件をもとに、かなり脚色・創作があるコトもたしかであろう。

現代でいえば、私怨にかられたテロリスト以外の何ものでもないかもしれない・・。

 

それでも、この物語を愛する日本人が、いかに情にもろく、心根の優しい民族であるか・・というコトを、あらためて感じさせられるのである。

 

日本人に生まれて、よかったなぁ・・。

 

 

 


”思想界の先覚者”、宇都宮黙霖

2010年12月10日 | 歴史・民俗

大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、今、日本はちょっとした龍馬ブーム幕末ブーム

幕府が力を失った幕末動乱の時代、維新回天へと導いた龍馬の活躍とその時代背景は、今の混沌とした日本の状況と重なるのか、政界においても、志士や龍馬を自任する政治家や、”~維新”といった言葉をよく耳にする。

”奇兵隊”内閣・・なんて言ってた首相もいたっけ・・?

 

そうした幕末の混乱期には「勤皇」「佐幕」か、あるいは「公武合体」か、対外政策においては「開国」「攘夷」か?―といった様々な思想が横行した。 

大政奉還は、幕府が朝廷に政権を返上するというもので、「勤皇」思想があって、はじめて可能であったし、この「勤皇」思想と、外国人を日本から追い払うという「攘夷」思想とが結びついたのが、いわゆる「尊皇攘夷」思想である。

 

この「勤皇」思想は国学や、水戸学と呼ばれる”黄門さま”でおなじみ、水戸光圀がはじめた『大日本史』の歴史編纂事業から発展、日本古来の伝統を追求する学問で、全国の藩校で教えられ、「愛民」「敬天愛人」などの思想は、吉田松陰西郷隆盛をはじめとする幕末の志士たちに多大な影響をもたらし、維新の原動力となった。(カテゴリー/歴史・民俗:「ビスケットの日」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02abf7aca71c36adea2e14b017e5d16e

 

―さて、吉田松陰といえば、松下村塾を開き、高杉晋作久坂玄瑞らを指導した幕末の思想家として、知らぬ者がないほど有名であるが、その松陰の思想に少なからぬ影響を与え、”思想界の先覚者”と呼ばれる人物が、この広島県にいたのである!

 

それが、この宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)である。

http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm

 

江戸末期の文政7(1824)年安芸国賀茂郡広村長浜(広島県呉市)に生まれ、明治維新の勤皇僧として、吉田松陰、月照らと交わって倒幕に奔走し、数奇な運命のもとに活躍した人物。

やはり僧で、勉学中だった父・峻嶺の結婚が認められないまま、私生児として生まれ、籍にも入れられず、養子に出されるなど、不倫の子、日陰者として不遇な幼少期をすごし、手のつけられない悪童として育った黙霖は、15歳の時に、叔父にあたる専徳寺の常諦『大学』の素読を授け、勉学の道を勧めた。


そこから心機一転、学問に志し、西条町の漢学者、野坂由節に師事、次いで蒲刈島弘願寺の円識(石泉和上の弟子・本願寺派勧学)について宗学を学び、さらに円識の奨めで、天下に師を求めて遊学し、芸州きっての儒学者といわれた広島の坂井虎山木原桑宅肥前平戸の光明寺拙厳勧学などを尋ねていったと伝えられている。

 

20歳の時、漢詩「菊花を詠ず」を作り、師に指導を願ったトコロ、「もう教えることはない」と言われ、代表作の一つとなった。

これは「菊花の詩」として、志士の間で愛好されたという。

 

このように若い頃から詩や和歌を好み、晩年は長浜へと帰り、石泉文庫にある『大蔵経』を読破して和訳し、約20年を費やして46万首(!)の和歌の形式に整えたほど。

その中の35万首が、現在も石泉文庫に遺されているそう。


 

22歳の時、旅の途中で病気のため、聴力を失うも、その後はすべて筆談を用いながら、九州、山陰、江戸など40余国をわたり、多くの漢学者、国学者と出会い、識見をひろめた。

この頃から国学研究によって勤皇論を唱え始め、その思想を確立、嘉永5(1853)年、江戸に上って老中・阿部伊勢之守正弘に論稿を送り、ひとり勤皇倒幕論を叫んで驚かせた。

そのため、安政元(1854)年、幕府や広島藩からの追及を受け、父親にも厳しい詮議が及ぶも、よく逃れて、また流浪の旅を続けた。

 

安政2年、萩に赴き、吉田松陰『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返し、松陰に大きな影響を与え、思想的な転換をさせたといわれており、それが”思想界の先覚者”といわれる所以である。 

 

松陰が「時局観を先にし、攘夷の為に尊王論を統一し、人身を一に帰せしむべし」と考えたのに対し、黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張、松陰が幕府に対して、その誤りを諌める考えであったのに対し、黙霖は徹底的に倒幕を主張した。

黙霖との手紙のやりとりによる論争で叩きのめされた、当時29歳の松陰は、「茫然自失し、ああこれまた(自分の考えは)妄動なりしとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」と述懐している。

 

安政の大獄の際に、頼三樹三郎梅田雲浜などと一緒に捕らわれたが、僧形のために釈放されたとか、広島藩に捕えられ、棺に入って脱出し、山口に逃れて毛利家の歓待を受けたとも・・。

 

再び広島藩から幕府に渡され、大阪にいた時、ようやく明治維新を迎えた。

明治27(1894)年日清戦争中に、時の総理大臣伊藤博文が来広した際、ぜひ一度、お会いしたい・・と、わざわざ呉まで尋ねて来て、黙霖のコトを「先生」と呼び、周囲の人々を驚かせたというエピソードも残っている。 

黙霖が影響を与えた松陰門下の晋作に小突かれながら育った伊藤にすれば、当然のコトであろうが・・。

 

明治30年、73歳で逝く。

 

耳が聞こえなくなった22歳の夏に得度して、本願寺の僧籍に入り、法名「覚了」となるが、後に「黙霖」の号を称するコトが多く、こちらが通称として世間では知られているそう。

 

―とはいえ、広島は呉の生んだ黙霖の名を知ったのは、恥ずかしながら、つい先日のコト・・。

 

こーゆー人もいたんだねぇ・・。

 

 


出雲神

2010年11月10日 | 歴史・民俗

出雲大社の参道を行くと右側に見えてくる「ムスビの御神像」

若き日に修行中だった大国主命の前に、日本海の荒波から「幸魂奇魂」(さきみたまくしみたま)という魂が現れ、「ムスビの大神」―”縁結びの神”になった時の様子を表しているそう。

 

「大国主命といえば、これ!」・・とゆーくらい、古代史関係の本を読んでると、よくこの像の写真が出てくるので、実物を見た時は、ちょっとした感動だった。

 

その反対側には「御慈愛の御神像」

有名な「因幡の白うさぎ」の1シーンで、この像の横に

「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」

・・と詠まれた皇后の歌碑がある。

 

出雲大社の祭神・大国主命は、「因幡の白うさぎ」の物語に見られるような、慈愛に満ちた牧歌的な神様・・というのが一般のイメージであろう。

 

神楽では大国主命を大黒様の面をつけて演じるものもあり、「大国(だいこく)」=「大黒」と通じるコトから大黒天と習合され、七福神の一柱として、我々にも非常になじみの深い神様といえよう。

 

しかし、神話の中の出雲神は、そんな牧歌的で、ほのぼのとしたイメージばかりではない。

『日本書紀』には、高天原(天上界)の天照大神高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は孫のニニギノミコト葦原中国(地上界)の支配を委ねようと下界を覗き込むと、そこには蛍のように怪しく光っている者や、蝿のようにうるさい邪神がおり、高皇産霊尊は「私は葦原中国の邪鬼を払い、平定しようと思う」と、まず、天穂日命(あまのほのひのみこと)を先に遣わすコトにした・・と記されている。

天穂日命は、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間、高天原に戻らなかった。

天穂日命は出雲国造家の祖である。

(カテゴリー/歴史・民俗:「神無月と神在月」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/038e4af55697143d7bff8d4cc6bb416d

 

―すなわち、天上界の神々が平定しようとした地上界の「邪神」「邪鬼」とは、出雲神に他ならず、葦原中国=出雲なのである。

この後、出雲の「国譲り」神話が展開されていく。

 

このように記紀神話の1/3を占める出雲には、大きな勢力があったと思われていたが、考古学的な発見に乏しく、大和から見て西北(戌亥)の方角に位置する、単なる観念上の「天皇家の敵」という説もあった。

しかし、近年の考古学上の発見によって、急速に出雲に巨大な勢力が存在していたコトが現実味を帯びるようになっていった。

(カテゴリー/サイエンス:「考古学によって浮上した出雲」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/9f59940740955e91deb3f895eb592caf

 

青谷上寺地遺跡妻木晩田(むきばんだ)遺跡など、出雲のある山陰地方弥生時代後期の遺跡の特徴は、大量の鉄器が出土しているコト。

弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄資源を独占的に入手していたが、ある時期を境に山陰瀬戸内海に一気に鉄器が流入し、大和朝廷建国直前、大きな力を蓄えるようになった。

(カテゴリー/歴史・民俗:「ヤマタノオロチ」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c1d178fe558e7a7b020f0284720afcb5

一方、その時期の大和は鉄が不足しているのだが、3世紀初頭、大和の三輪山の山麓に突如、「宗教」と「政治」に特化した都市が出現、これが近年、邪馬台国か?・・と注目を集める纏向遺跡である。

 

纏向に誕生し、これ以後、日本各地に伝播した大和建国のシンボル、前方後円墳は、吉備出雲北陸東海地方のそれぞれの要素が取り入れられており、当時、各地にあった諸勢力が集結して作り出した埋葬文化であるコトが既に考古学的にわかっている。

 

記紀には神武東征神話があり、その神話からは「天皇」が、敵勢力を駆逐して君臨したかのような印象を受けるが、その成立過程からして絶対的な権力をもつ専制君主ではなく、合議によって擁立された象徴的な存在だったのである。

 

大和が勢力を拡大し、各地に前方後円墳が広まっていく中、出雲はこの埋葬文化を拒絶し、没落していく。 

 

纏向遺跡がある奈良盆地東南部には、大和最大の聖地・三輪山があるが、この三輪山で、丁重に祀られ続けているのが出雲神大物主神である。

 

なぜ、丁重に祀られているのか?・・というと、記紀にも記述があるごとく「祟る」からであるが、「祟り」を恐れるのは、祟られる側に何かやましいコトがあるからではあるまいか・・?

 

ちなみにこの大物主神、数多くある大国主命の別名の1つであるという・・。