12月25日がイエス・キリストの誕生日とされたのは、5世紀以降だという。
ギリシア正教では1月7日、アルメニア教会では1月19日にクリスマスを祝う・・と、教派によってまちまちで、最近の学説では4月あたりではないか?・・とも言われているそうだ。
古代ローマで栄えたミトラ教では、ナタリス・インウィクティという祭典が12月25日にあり、太陽神ミトラスが、冬至を境に日が長くなるコトを、太陽神が「復活する」祝日として大々的に祝う習慣があったのを、キリスト教が習合し、イエス・キリストの誕生祭を祝うようになったのだという。
ところで、イエスはキリスト教の教祖・・というのが、我々の一般的な理解である。
イエスが来られた当時のユダヤ教は、祭司を頂点にサドカイ派、パリサイ派、律法学者、熱心党(ゼロテ派)、エッセネ派といった教派が存在しており、古代ローマ帝国の属国であるユダヤには、ローマから派遣されたエドム人の王、ヘロデ・アグリッパが君臨、事実上、ユダヤ人社会においては大祭司が権力を握っていた。
当時のユダヤ教に、これだけ多くの宗派が存在していた・・というコトは、モーセが説いたオリジナルの”原始ユダヤ教”が、大きく変質してしまっていたコトをイミする。
本来、人のためにある律法が、人が律法のためにあるかのような本末転倒な事態が日常茶飯事になっており、律法学者らにとって、安息日に癒しの業を行うイエスは、安息日を破る律法の破壊者であり、癒しの業自体が「悪霊のかしらベルゼブルによる」(マタイ12:22~24)ものと非難された。
しかし、そもそもイエスは、何も「キリスト教」という新興宗教を興そうとしたのではなく、”原始ユダヤ教”への原点回帰―すなわち、神の本来の教えに立ち返るコトを訴えたワケで、意識としては、当然、ユダヤ教徒であり、イエスらは、いわば、ユダヤ教”イエス派”とでもいうべき群れだった。
当時、イエスを異端と排斥し、殺してしまったユダヤ人社会がイエスを受け入れていたなら、大きく世界は変わっていたに違いないだろう。
彼ら、イエスの12使徒や弟子たちによる草創期のキリスト教会は、共同体のような生活(使徒行伝2:44~47)をしており、これを「エルサレム教団」と呼ぶ。
いわゆる、初代教会、あるいは原始キリスト教会である。
当然、エルサレム教団は全員がユダヤ人であり、このユダヤ人キリスト教徒と、パリサイ派や律法学者といった保守的なユダヤ人ユダヤ教徒とが対立した。
これは教義上の解釈の問題においての対立であろうが、文化的な対立もあった。
ヘブライストとヘレニストの対立がそうで、ヘブライストとはヘブライ語(アラム語)を話すユダヤ人キリスト教徒のコトで、ヘレニストとはコイネー・ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒のコトである。
各地へ離散したディアスポラのユダヤ人が多く使っていたのが、地中海沿岸に広まっていたコイネー・ギリシア語で、アラム語を話すユダヤ人に匹敵するほどの勢力になり、聖書にも「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して」苦情が出た(使徒行伝6:1)とある。
異邦人に対して布教を行っていたヘレニストのステパノの殉教によって、さらに対立は激化、その過激な布教活動がパリサイ派らとの衝突を招き、エルサレム教団そのものにも迫害の手が及んだ。
これによって、エルサレムにこだわらないヘレニストが、追放に近いかたちで追い出され、アンティオケアという都市に集結、ここを拠点として異邦人への布教を大々的に開始した。
これがもう1つの原始キリスト教会、パウロ率いる「アンティオケア教団」である。
ペテロ率いるエルサレム教団が従来のユダヤ教の律法を守り、ソロモン第2神殿への礼拝を行っていたのに対し、アンティオケア教団はイエスの福音を教義の中心に据え、神殿にこだわるコトはなかった。
(カテゴリー/人生覚書き:「岩と呼ばれた男」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02346f9ffe6b0725180514d8f87f4ea5)
時がたち、布教が進むにつれ、アンティオケア教団では異邦人キリスト教徒が増え、ユダヤ人キリスト教徒との間に軋轢が生じるようになる。
異邦人キリスト教徒にも、ユダヤ人と同じように割礼を受けさせ、律法を守らせるべきか? ―エルサレム使徒会議の結果、異邦人に対しては、ユダヤ人の伝統である割礼を施さなくてもよいコトになり、これがキリスト教がユダヤ教の戒律から離れ、世界的な宗教へと発展していくための大きな転換点となった。
そんな中、いわゆる”アンティオケアの衝突”がおこる。
律法によって、ユダヤ人が異邦人と同じ食事をとるコトは出来ないが、アンティオケア教団では区別なく、同じ食事をとっていた。
たまたまアンティオケア教団を訪れていたペテロも、異邦人と共に同じ食事をとっていたが、そこへエルサレム教団から派遣された使者がやって来て、異邦人と同じ食事をとるトコロを見られたくないペテロが態度を変えたコトをパウロが非難、ペテロとパウロの対立―すなわち、エルサレム教団とアンティオケア教団の対立は決定的になった。
それでもエルサレム教団とのつながりは求めるパウロは、自らアンティオケア教団を離れ、単身、布教活動をするようになる。
紀元37年、古代ローマ帝国の皇帝にカリグラが即位、自らを神とし、自分の像を崇めるよう強要したが、偶像崇拝を禁ずるユダヤ人はこれを頑強に拒み、徹底的に弾圧された。
しかし、それが彼らのアイデンティティを刺激し、さらに信仰を強固にした。
また、そうした迫害が続く中、パウロとペテロは布教のため、ローマに上り、彼らの説くイエスの教えは奴隷や下級市民の心をとらえ、爆発的にキリスト教徒が増えていった。
被支配階級の団結を恐れた支配階級の人々が、キリスト教徒がテロや放火を行っているなどのデマを流し、紀元64年に皇帝になったネロは、実際にローマ市外に放火、これをキリスト教徒の仕業として、熾烈な迫害を行い、パウロをはじめ、多くの殉教者を出した。
表立って活動していたローマにいるキリスト教徒は1人残らず迫害され、惨殺されていった。
また属国ユダヤを統治する、ローマから派遣されたヘロデ王にとっては、ユダヤ人が反乱などを起こすと自分の立場が危うくなるため、キリスト教徒をスケープ・ゴートにして利用しようと考え、迫害した。
日頃からユダヤ教徒は、キリスト教徒に対し、嫌悪感を抱いていたため、彼らを迫害すれば、自ずとユダヤ人ユダヤ教徒はまとまるだろうと踏んだのだ。
このようにユダヤ人ユダヤ教徒によるユダヤ人キリスト教徒の迫害は、相変わらず続いていたが、イエスを十字架につけたのは「ユダヤ人」である・・という認識が、実際にイエスを殺したユダヤ人ユダヤ教徒のみならず、ユダヤ人キリスト教徒にまで拡大・・。
すなわち、紀元1世紀頃、ユダヤ人キリスト教徒のエルサレム教団は、同じユダヤ人であるユダヤ教徒から迫害され、ローマでもキリスト教徒として迫害され、同じキリスト教徒であるアンティオケア教団の異邦人キリスト教徒とも対立、さらには、単に「ユダヤ人」である・・というだけで、神の子、イエス・キリストを殺したと、同じキリスト教徒からも迫害されるという、内部からも外部からも、2重3重の迫害、弾圧、差別を受け、孤立無援の状態だったのである。
キリスト教徒のコトを”クリスチャン”と呼んだのは、アンティオケアの非キリスト教徒が最初だというが、今では美しい響きをもったこの言葉も、当初は「キリストに狂った者」・・というほどのイミをもった差別的な言葉だったという。
今では世界宗教として世界中に信者をもつキリスト教であるが、草創期のキリスト教会は、いわば、当時の既存の社会秩序をおびやかす、カルト集団に他ならなかった。
救世主として来られたイエスを慕い、迫害を受け、殉教していった者たちの姿を見ながら、本当の世界宗教としてのキリスト教は、誕生したのである。
「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまづき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ24:9~13)