世の中いろんな”~の日”があるが、今日はご存知、「ビスケットの日」!!
(しらねー・・)
実は、自分も奥さんが買い物した時にもらったおまけのビスケットに”2月28日 ビスケットの日”と書かれてあるのを見て知った次第・・。
それによると、水戸藩の蘭医・柴田方庵が記した「方庵日記」に1855年(安政2年)2月28日に「萩信之助へ出状、パン、ビスコイト製法書在中」とあり、その日をビスケットの日としたそう。(当然、当時は陰暦だが・・)
長崎周辺で細々と作られていたビスケットを保存のきく食料として水戸藩が注目、長崎に留学していた方庵が軍用パンの製法をオランダ人から学び、それを水戸藩に書き送ったのだという。
水戸藩といえば、思い出すのは”黄門さま”、徳川光圀である。日本人ではじめてラーメンや餃子を食べたのもこの光圀だという。肉食が忌み嫌われた当時に牛肉や豚肉、羊肉を食べたグルメとしても知られる。
5代将軍・徳川綱吉の生類憐みの令に反発したためとも言われ、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともあるという。
ちなみに”黄門”とは、中納言・権中納言の唐名(漢風名称)だそうで、一般的には”水戸黄門”といえば水戸光圀をさすが、「水戸藩の黄門」というコトであれば、水戸藩で中納言・権中納言に任命されたのは代々7人で、厳密にいえば、水戸黄門は7人いたコトになるそうだ・・。
水戸黄門といえば、諸国漫遊して世直しをするドラマのイメージがあるが、そもそも幕末、最後の将軍となった徳川慶喜を将軍職につけるため、水戸藩が講談師を全国に派遣し、黄門さまの活躍を宣伝・アピールし、水戸藩にそーゆーエライ人がいたんなら、今度の将軍は水戸藩から出したらいーんじゃないか・・という世論をつくり、そこから例の黄門さまのイメージができあがっていったとか・・。
しかし、実際には慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍についた・・というワケではない。
また光圀は『大日本史』の編纂を命じ、その三大特色として神功皇后を歴代の帝から除き、大友皇子を帝に加え、南朝正統論を唱えた点があげられ、歴代天皇が現在のものに改編されたのも『大日本史』の影響とされているそうだ。
完成までに、光圀の死後250年もの時間を費やすコトになった『大日本史』の編纂により、水戸藩は藩財政の三分の一近くをこの事業に注ぎ込み、大規模な一揆を招いたり、一説には八公二民という重税を光圀時代に課したため、農民の逃散が絶えなかったといい、ドラマのような正義の名君とはいかなかったようだ。
『大日本史』を編纂していく中で水戸学とよばれる学派がおこり、朱子学を中心にした皇室尊崇と封建的秩序の確立を説き、後に尊皇攘夷思想として幕末の志士たちにも大きな影響を与えた。
歴史の流れを知る我々は、攘夷思想が時代に逆行したものだというコトは十分承知している。今さら鎖国すべきだという人はおるまい。
また、忠孝を説く儒教は、体制教学として権力を維持するのに利用されやすい。
しかし、悪いコトばかりではない。
儒教で説かれている徳目は、人が生きていく上で忘れてはならないものも多い。
親孝行や夫婦愛はどんなに時代が移ろうとも、不変の真理である。
「温故知新」という言葉もあるが、なんでも古いからと否定するのも、いかがなものか?・・と思うのである。
・・しかし、我ながらビスケットだけで、よーここまで引っ張ったなあ・・。