Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

因縁の対決・内藤大助VS亀田興毅

2009年11月30日 | 格闘技・武道

昨日、WBC世界フライ級タイトルマッチが行われた。

”国民的ヒーロー”、チャンピオンの内藤大助と”国民的ヒール(?)”、亀田3兄弟の長男、亀田興毅との因縁の日本人頂上対決だ。 

 

そもそも無名のボクサーだった内藤は、派手なパフォーマンスとビッグマウスで既にマスコミの注目を集めていた亀田家の次男、大毅との2年前の試合に勝利するコトで、テレビでも見ない日がないほど、お茶の間の顔ともいえる国民的な人気者になった。

一方、亀田家は内藤戦での反則行為で大バッシングを浴び、大毅は1年間のボクサーライセンス停止、セコンドについていた父・史郎は無期限のセコンドライセンス停止に加え、トレーナーライセンスの剥奪、兄の興毅も厳重戒告の処分を受けた。 

 

まさに両者の人生が交錯し、明暗を分けた試合で、今回の興毅との試合は、まさしく”因縁の対決”と呼ぶにふさわしい一戦となった。

 

どんなスポーツでも、思い入れのある選手やチームの試合ほど面白い。

思い入れがある、すなわち、関心、興味がある・・というイミでは、この試合は間違いなく国民的な注目を集めたカードだろう。

 

2人の意地がぶつかり合い、見事に噛み合った試合で、12ラウンドが非常に短く感じた。

 

フルに打ち合い、それでも疲れを見せない両者のタフネスとスタミナはさすが!

 

常にプレッシャーをかけ、アグレッシブに攻める内藤に対し、ガードを高く上げ、的確にカウンターでショートのパンチを合わせ、セオリー通りのアウトボクシングで終始”距離”を支配した亀田が3-0の判定でチャンピオンを下し、見事2階級制覇を成し遂げた。

 

亀田の「強さ」というより、「うまさ」が光った試合だった。 

KO必至のパンチが飛び交う中、対内藤用の作戦をクールに、確実に遂行し続けた亀田の、若いチャレンジャーとは思えない老獪さと実力を垣間見た思いがした。

メンタルの強さもハンパじゃない!

 

むしろ、亀田よりも明らかに気負って見えた内藤は、ノーモーションの亀田のパンチで2ラウンドから鼻血を出し、最後には確実に折れてるのでは?・・と思われるほど、鼻を腫らして変形させていた。 

「負けたら引退する」と、試合前から妻に告げていたという内藤は35歳、6度目の防衛に失敗し、これが最後の試合になるのか?

 

”因縁の対決”といわれ、国民的な注目を集めた試合だけに、リングに上がるまで、どちらもさまざまと言われてきたコトは想像に難くない。

 

しかし、そうした周囲の思惑とは別に、リング上ではボクサーとして、いい試合を見せてくれた2人に拍手を送りたい。

 

 

 

 

 


武道論

2009年11月28日 | 格闘技・武道

昔、「格闘技通信」とゆー雑誌に「武道論」みたいな対談があった。

当時、アメリカでUltimate Fighting Championship(以下UFCという金網の中で”何でもあり”の戦いをする格闘技イベントがはじまり、日本の格闘技界にかなりの衝撃を与えた頃で、UFCの第1回大会が開催されたのが1993年だから、今からもう16年前になる。

 

今でこそ総合格闘技の技術も進歩したため、レベルの高い攻防が多くなったが、初期のUFCは総合の技術体系や戦い方のセオリーがほとんど知られていなかったため、試合はさながら街のケンカ屋の殴り合いに近く、倒れている相手に攻撃を加えるなど、かなり凄惨な試合が続出し、その映像自体、相当なインパクトがあった。

その中でもパンクラス王者にもなったウェイン・シャムロック(ケン・シャムロック)や極真空手出身のジェラルド・ゴルドーのような名の通った選手も出場したが、そうした強豪をおさえ、優勝したのはグレイシー一族ホイス・グレイシーであった。

この大会でグレイシー柔術は名を上げ、一躍、格闘技界の中心となり、注目を集めた。

 

グレイシー柔術は”黒船”と恐れられ、事実、UFCの第2回大会には大道塾の重量級3連覇の市原海樹という日本格闘技界の実力者が参戦するも、1回戦でホイスに何も出来ずに敗れている。

一族最強のヒクソン・グレイシーは”400戦無敗”ともいわれ、日本で行われた試合でも高田延彦船木誠勝といった当時のトップファイターたちが挑むも、まったく土付かずのままである。

 

K-1がはじまったのも、実はこの1993年。 

1990年に崩壊した第2次UWFの流れをくむパンクラスが旗揚げしたのもこの年である。

アントニオ猪木がストロング・スタイルを追求して旗揚げした新日本プロレスは、異種格闘技戦で団体のカラーを打ち出したが、そこから独立したUWFは、より格闘技色の強いもので、パンクラスに至り、”Uの遺伝子”はプロレスとは決別し、総合格闘技への道を歩みはじめていた。

 

このように93年頃、日本の格闘技界はボーダーレス時代に突入し、さらにUFCやグレイシー柔術といった外国からの脅威に震撼していた時で、そうした中で、日本の格闘技界は生き残れるのか?

今、待たれるものこそ、日本人の魂ともいえる「武士道」―あるいは「武道」ではないか?・・というよーな論調だったと思う。

 

何せ16年も前の話で、しかも、さらっとしか読んでないので、それほどハッキリ内容は覚えていない。

だいたい「武士道」と「武道」って、そもそも違うんじゃない?・・とかゆー細かいツッコミもまず置く。

 

要は武道や格闘技をやる理由とは何か?

 

・・そんなテーマであり、そこで武道に求められるものとして、「用」「道」「美」というキーワードがあった。

 

街のケンカみたいなル-ル無用のUFCの試合を見て、野蛮だの、暴力的だのと非難するコトは簡単である。

しかし、そうした不意の暴力に対抗する護身術という目的がまず果たされなければ、武道としてイミをなさない。

武道やってます、でもケンカには勝てません・・ではやるイミがない。

闘って勝てる、強くなる、すなわち、使える技術であるか?

―これが「用」である。

 

しかし、いくら強くても、倒れてる相手に攻撃を加えるというのはどうか?

ただ相手を制する技術を覚えるだけではなく、心身を練磨し、自己を修め、人格を磨く。

常に謙遜に精進を重ねていく姿勢、求道精神を涵養する「道」

 

「美」は、見て美しいものであるか?

今では総合の戦いにおける1つのセオリーとして認知されているが、馬乗りになって完膚なきまでに相手をボコボコにするマウントポジションからのパウンドのような技術は、単なる”弱い者いじめ”に見え、当時の日本人にとってはちょっと受け入れがたいものであったコトは間違いない。

まあ、親がそんなもん子どもに習わせたいかというと、絶対に「NO!」であろう。

戦いにおける美意識のようなもの・・とすると「道」に通じる世界になるので、より”技”という観点に重きをおいた技術体系の完成度・・とゆーコトではなかったかと思う。

つまり、当時は”馬乗りになって相手を殴る”・・なんてものは”技”ではない、技術として美しくない・・とゆー論調だったのだ。

 

相手を制する技術を教える武道家や格闘家たちがそれを言うのだから、おかしな話ではあるが、当時のUFCにはそれほどインパクトがあり、日本の武道界、格闘技界が我々がやってるコトは全く通用しないのではないか?・・とゆー危機感を感じるほどの大会であったとゆーコトだ。

 

なんにせよ、この「用」「道」「美」がなければ、「武道」とは呼べない。

まして「武の道」なのであるから

 

「道」なくして武道なし!

 

―これは絶対に譲れないものだと思うのである。

いくら強くても、相手に対するリスペクトがない選手が勝った試合後の態度などは、ちょっと目に余るモノがあるなあ・・なんて思う時も、よくあるんよねぇ・・。

 

 

 


天空の城ラピュタ

2009年11月27日 | 映画・ドラマ

宮崎駿といえば、今や知らない者もないほど有名なアニメ映画監督で、「駿」とゆ-難しい読み方の名前も、難なく「はやお」と読めてしまうくらい。

 

「未来少年コナン」「ルパン三世 カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「紅の豚」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」と数々の名作を世に送り出し、”宮崎アニメ”なる1つのジャンルまで確立したといっても過言ではない。

1986年に公開されたこの「天空の城ラピュタ」は、その集大成的作品といえよう。

 

先日テレビでやっていてあらためて見たが、20年以上前の作品とは思えないほど、なめらかで自然な動きをするキャラクターたちは精緻な作画の極みで、CGアニメ全盛の昨今にあってもまったく古くささを感じない。

もともとアニメーターとして作画を手がけており、超人的な制作管理能力を持つ宮崎監督は、ほぼすべての動画に手を入れるほどのこだわりをもつという

事実、最新作にして最後(?)の長編アニメ映画ともいわれる「ポニョ」はCGを排し、フルセル画アニメにこだわって作ったという。

 

初監督作品の「カリオストロの城」が興行的に振るわず、長い間、監督としては不遇の時代をすごしたが、「ナウシカ」でまた脚光を浴びるコトに。

もともと宮崎監督は、この「ラピュタ」で作りたいものをすべてやってしまった・・という話を友人から聞いたが、確かに「コナン」に通じる世界観が垣間見える。(「コナン」を見ると、より宮崎監督の思想の傾向がうかがえるが・・

もう1本・・と作った「トトロ」が思いの他ヒットし、次の「魔女の宅急便」も・・とゆー感じでジブリ作品の評価が定着、満を持して公開された「もののけ姫」はジブリ史上最大の製作費をかけ、「E.T」が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。

 

その後、2001年公開の「千と千尋」でさらに興行記録を塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本映画史上第1位の新記録を作った。

この「千と千尋」はきらびやかな画、オリエンタルなムードが海外からの評価も高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメ作品としては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。

まさしく、名実ともに”世界の宮崎”である。

 

個人的にはこの「ラピュタ」、「トトロ」、「魔女の宅急便」が好きだなー。

「紅の豚」もなかなか。

ウチの奥さんも「トトロ」は大好きだ。

 

中でもこの「ラピュタ」は、最も完成されたストーリーの作品といえるのではなかろうか?

シータとの出会いや冒険を通して成長する少年パズーの姿を描き、共感を呼ぶ。

 

特にラピュタがある”竜の巣”の暴風雨の中で、父親の幻を見るシーンは感動!

 

詐欺師呼ばわりされて死んだ父親が見たというラピュタの話を証明するために、空を飛ぶコトを夢見たパズーの夢が叶う瞬間―そして父の背中に追いついた瞬間でもある。 

地味なシーンであるが、そこで一瞬、無音状態になり、とても印象的なシーンになっている。

 

ちなみにジブリ作品の音楽を手がけるのは久石譲

 

しかし、最後の作品と思い作った「ポニョ」の観客動員が「ハウル」を下回ったコトにショックを受け、「もう1本作る」とやる気を見せ始めたとか・・。

たしかに「ハウル」はひどかった・・。

 

最新作は2013年公開予定だとか・・。

現在68歳、体力的に限界とゆーのが「ポニョ」が最後の作品と語った理由だそうだが、ホントにやるのかなー・・?

 

 


広島拘置所の壁画

2009年11月24日 | アート

今住んでる白島からそう遠くないトコロに広島拘置所がある。

ちなみに以前住んでた吉島の近くには広島刑務所があった。

 

あんまりイメージのいい場所ではないので、「広島のオススメ!」で紹介するコトもなかったが、実はこの拘置所、その前を通る度になかなか目を楽しませてくれる。

 

それはこの壁画!

だいぶ年数が経ってるからか、少々色あせた感は否めないが、浮世絵を思わせる鮮やかな色使いで、昔の広島の風物詩を描き出している。

 

広島は海に面していて川も多いので、水に関連した画が多い。

 

港・・

 

船・・

 

船・・

 

船・・

 

橋・・

 

川・・

 

そして広島といえば鯉!

 

北東の角の壁面にこの鯉が描かれているのだが、ちょうど交差点に面したトコロでとても目立つ。

色使いといい、勢いよく飛び跳ねる力強い鯉の姿といい、いろいろ描かれている壁画の中でも、個人的にはこれが1番の力作と思う。

 

なかなかの迫力だ。

 

広島城。(?)

 

「町内砂持加勢図」とある。

祭りの様子だろうか?

今も残る広島の町名が書かれている。

 

生き物も結構描かれている。

 

伝説の生物、龍の姿も。 

これもなかなかの力作!

 

中には作者の遊びなのかイタズラなのか、まったくスケール感を無視した動物も。

この牛も後ろにいるのに手前の人と比べても尋常じゃないサイズ。

怪獣なみのでかさだ。(笑)

 

それでもまだ、これはよしとしよう・・。

 

この画の画面左上に描かれた巨大なカニの姿が分かるだろうか・・?

 

なんでこんなトコにカニがっ・・!?

しかもすげーでけーっっ!!!!

 

―かと思えば、いきなり巨大な木とか・・。

 

これは太陽・・?

曼荼羅とゆーか、ちょっと宗教画っぽい。

こーゆー画が、何の脈略もなく、いきなり壁画のパノラマの中にさし込まれていたりするのだ。

 

これなんか一体・・?

ラピュタ・・?

 

ぜひ1度、自分の目で確かめて欲しい。

 

 

 

 


宇宙創造の暗号・リーマン予想

2009年11月23日 | サイエンス

前回、素数の”ならびのイミ”を解き明かす「リーマン予想」について話した。(カテゴリー/サイエンス:「素数の謎」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/4af9d47cb9e26fbf1c66023c9dede2f1

「ゼータ関数のゼロ点が、すべて一直線上にあるのではないか?」というこの難問は、天才と呼ばれる数学者たちの精神を崩壊させ、人生を狂わすものとしてタブー視され、長らく学界からも忘れ去られていた。

 

ちなみに現代のIT社会においても、この素数のナゾが解き明かされていないために、我々の安全が守られているのだとか。

たとえば、カードをリーダーに通す瞬間、150ケタにもなる巨大な素数がクレジット番号を瞬時に暗号化し、安全に相手に伝えているのだという。

 

―さて、1960年代以降、忘れ去られていた「リーマン予想」が、再び日の目を見る出会いがあった。

 

それは、プリンストン高等研究院でのコト。

数学者のヒュー・モンゴメリー博士は、ゼータ関数のゼロ点が比較的均等にあらわれ、その間隔を示す式も分かっている・・という話を、素朴な疑問として話題にしていた時、たまたまそれを聞いていた物理学の大御所で、素粒子やミクロの世界の権威であるフリーマン・ダイソン博士が、そのゼータ関数のゼロ点の間隔を示す式が、原子核のエネルギーの間隔を示す式とそっくりなのに気付いたのである!!

 

これは、ミクロの世界と素数に密接な関係性がある・・というコトである。

 

数学と物理学という違う分野のこうした偶然(必然?)ともいえる出会いは、1996年にもたれた第1回リーマン会議という形で結実し、「リーマン予想」と自然法則のつながりを解き明かす試みは、人類にとって最も重要な挑戦と位置づけられた。

 

そして、数学界最高の頭脳の1人、フィールズ賞を受賞したアラン・コンヌ博士は、「リーマン予想」解明につながる1つの道すじを見出した。

 

コンヌ博士はミクロの空間を、素数と関係したある種の”流れ”をもつ空間である・・という考え方を提示し、非可換幾何学を用いて、ミクロの世界を理解しようしたのである。

これは物理学者が宇宙を理解するのにも用いる新しい幾何学で、 我々が暮らすこの世界も、不連続で、小さな”つなぎ目”が存在する・・と予言する、ミクロの世界を理解するための最新分野だそうだ。

 

これによって「リーマン予想」が証明されれば、大宇宙の成り立ちからミクロの世界まで、あらゆる現象を説明する究極の物理法則を人類が手に入れるための基礎になる!・・と期待されているそうだ。

 

―フランスの数学者、ルイ・ド・ブランジュ博士は、1964年から3度、「リーマン予想」を証明したと宣言し、その度に根本的な間違いが指摘され、”オオカミ少年”と揶揄されながらも77歳になる今日まで、「リーマン予想」に挑み続けてきた。

あるイミ、それは「リーマン予想」に狂わされた人生だったのかもしれない。

ともに挑み、戦い続けてきた同志たちも1人、また1人と脱落し、消えていった。

 

しかし、77歳になった博士はこの度、また新たな「リーマン予想」を証明した・・という論文を発表したという。

 

数学の世界では、その証明が正しいと認められるためには、少なくとも2年間、数々の数学者の厳しい検証に耐えなければならない。

 

いつか、人類が「リーマン予想」を証明し、神の宇宙創造の暗号を解き明かす時が来るコトだろう。

 

それもきっと、近い将来に・・。

 

 

 


2012

2009年11月21日 | 映画・ドラマ

今日から公開される究極のディザスター(災害)・ムービー、「2012」

今までにも「インデペンデンス・デイ」「GODZILLA」「デイ・アフター・トゥモロー」など、革新的な”破壊”映像で世界の終焉を描いてきたローランド・エメリッヒ監督が、「自分にとって最後のディザスター映画」との思いで完成させた作品だという。

CMの映像からも”ディザスターてんこ盛り!”・・とゆー雰囲気がうかがえる。

 

タイトル通り、西暦2012年に世界がおわるというマヤ暦の予言にインスパイアされ、とことんスケールのでかさを追求し、このジャンルの決定版にするつもりで地球そのものをぶっ壊す映画を作り上げたと豪語している。

この映画の後に、新たなディザスター映画を作るのは難しいだろうとも・・。

「インデペンデンス・デイ」は、個人的にも好きな映画なので、ちょっと楽しみ。

 

ちなみにこのマヤ暦の予言であるが、中米はグアテマラキリグア遺跡ステラという石碑があり、その中の「ステラC」という石碑にマヤの創世神話、マヤの歴史がはじまった日が刻まれているのだという。

 

それを西暦に換算すると、紀元前3113年8月13日になるのだが、およそ5125年を1周期とする長期暦というマヤの暦があり、マヤの歴史がはじまった日から、ちょうどこの1周期、一時代がおわるとされる時が、西暦にして2012年12月21日なのだという。

 

これは他の様々な宗教でも同様な予言があったり、「世界がおわる」といわれている時期とも重なるらしい。

またスピリチュアル系、精神世界では「アセンション」(=次元上昇)というのが話題になっているそうで、すごく簡単にいうと、たとえば、地球が小学校を卒業して、中学校に入る・・・そーゆー時期に来ているのだという。

そうした地球全体が次の段階に進化するのに応じて、人類も釈迦の”悟りの境地”みたいな状態に成長していく・・と。

 

まあ、なんにせよ、2012年12月21日まで、あと残されているのはわずか3年間。

この期間に、地球上の全人類が、何らかの精神的な覚醒をしなければ、”2013年”という新しい年を迎えるコトができないのではないか?

今、この世界を見渡した時に、そのくらいの切羽詰った危機感を感じるのである。

 

そーゆーイミでも、この”今”という時代を象徴する映画なのかもしれない。

 

 





 


えびす様とは?

2009年11月20日 | 歴史・民俗

今年もえびす講「えべっさん」の季節がやってきた。(カテゴリー/広島のオススメ!:「えびす講」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/15150f1c292dbd5543dd43beb5c23ede) 

毎年11月20日まで行われるが、よく言われるように、今年もこのえびす講にあわせるように急に冷え込んで、冬の訪れを感じさせる寒さとなった。

 

えびす講の時には胡子神社の前に大きな賽銭樽がおかれる。

 

ところで、えびす講の「えびす」は胡子神社なので「胡子」と表記されるが、実際には「胡」1文字でも「えびす」と読む。

他にも「恵比寿」「恵比須」「衣毘須」「夷」「戎」「蛭子」・・などの字も当てられる。

 

「夷」や「戎」などの漢字が当てられるのは、地方のまつろわぬ者や東国の民を「えみし」や「えびす」と呼んで「夷」や「戎」の字を当てたのと同じで、異邦の外来神、蕃神を意味するそうだ

「えびす」という名の神様の文献上の初出は、平安時代後期の『伊呂波字類抄』「夷毘沙門」とあり、少し時代が下った『諸社禁忌』には「衣毘須不動」と記されているように、古い時代、えびすは毘沙門天不動明王を本地仏とする神格として信仰されていたのだとか。

えびすの神像も、古い時代のものほど威厳に満ちたものとなっており、もともとは荒々しい神、荒ぶる神として信仰されていたものと見られる。

 

えびす様といえば、エビスビールのマークでもおなじみ、福耳の神様で、「えびす顔」という言葉もあるように、ふくよかで福々しい笑顔をたたえた姿を思い浮かべるので、実に意外だ。

 

また「蛭子」の字が当てられているように、イザナギイザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)に比定されるコトもある。

もしくは大黒さま」でおなじみ、大国主命の子である事代主命とされるコトも多く、少彦名命彦火火出見尊とするコトもあるようだ。

 

えびすが蛭子命や事代主命に結び付けられたのは、どちらも水に関連した神様だからで、記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったため、流し捨てられたとされる。

その神話を受けて、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、海からやってくる姿が海の神であるえびすと重なり、同じ神だとされるようになったという。

えびすのコトを夷三郎と呼ぶのは、『日本書紀』において、3番目に生まれたコトに由来するのだとか。

 

また、事代主命とされるのは記紀の国譲りの項で、天津神からの国譲りの要請を受諾するかどうかを大国主の使者が事代主に聞きに訪ねたとき、事代主は海で釣りをしていたとされ、その姿と海の神のえびすとが結びついたため。

七福神の絵で、えびすが釣竿をもち、鯛を抱えた姿で描かれるのは、この事代主神の話に基づくものだそうだ。

えびすと大黒は親子とも言われるのも、事代主命の父親である大国主命が大黒天と習合したコトによるのだとか。

 

釣竿をもち、大きな鯛を抱える姿から、海と漁業の神とわかるが、大漁を祈願する信仰が転じて商売繁盛の神様となり、平安時代後期には、えびすを市場の神市神として祀ったという記録があるそうだ。

同時に福の神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱として数えられるようになっていく。

 

ちなみに、えびす神は一般的に耳が遠いとされており、そのため神社正面だけで参拝するのではなく、本殿の裏側にまわり、そこにあるドラを叩いて願い事をしなくてはならないのだとか・・。

今宮戎神社など、えびす様を祀る本殿の裏にはドラが用意されているのだそうだ。

 

広島の胡子神社はデパートの間に埋まっており、裏に回りようがなく、ドラもおそらくないのではないかと思われる。

 

耳が遠いのに、広島のえびす様はドラもなく、聞く耳ももってない・・。

こりゃあ、まだまだ、不景気は続くかな・・。

 


いろは丸事件

2009年11月18日 | 歴史・民俗

先日、坂本龍馬のコトを書いたが、好きなコトだと思いがけずペン(キーボード?)が進んでしまうものだ。

ついつい調子にのってたら、前回しようと思ってたこの話が書けず仕舞いになってしまった。

 

会社設立新婚旅行など、”日本初”といわれるコトを龍馬が多く成しているのはよく知られている。

しかし、その中にはちょっと不名誉なものもある。

日本最初の蒸気船同士の事故といわれる、この「いろは丸事件」である。

 

事件が起きたのは慶応3(1867)年4月23日、 現在の広島県福山市沖16kmの瀬戸内海でのコト。

瀬戸内海は古代から重要な水路として、「海のハイウェイ」として流通における大きな役割を果たしてきた。

 

夜11時頃、海援隊の船、いろは丸は土佐から大阪へ積荷を運ぶ途中、徳川御三家・紀州藩明光丸と衝突。

160tのいろは丸の横っ腹に突っ込んで来た明光丸は880t、いろは丸はひとたまりもなく海へ沈んでいった。

 

事件からおよそ20日後、5月15日から長崎にて賠償交渉がもたれるコトとなるも、双方の主張は真っ向から対立、交渉は長期戦に。

国際的な航海ルールに則って交渉を進める龍馬たち海援隊に対し、事件の早期解決を図る紀州藩は長崎奉行所に裁きを下すよう動こうとした。

 

8代将軍・吉宗14代将軍・家茂の2人の将軍を出している徳川御三家の1つ、名門・紀州藩に対し、海援隊は土佐藩の後ろ楯があるとはいえ、浪人集団。

幕府の機関である長崎奉行所に裁きが委ねられれば、海援隊にとって圧倒的に不利になるコトは目に見えていた。

 

しかし、窮地に追い込まれた海援隊のとった巻き返しの策が、

「さすがは龍馬!

・・と、思わず舌を巻くよーな奇抜なものであった。

 

それは、長崎の花街・丸山で、こんな唄を流行らせたのだ。

 

船を~沈~めた~ そのつぐな~いは~ 

  金を~取らず~に~ 国~を取る~

 

―当時の長崎、丸山は全国各藩から人々が集う、いわば情報交換の場。

龍馬は紀州藩を揶揄する唄を流行らせるコトで、天下の大藩が浪人相手にてこずっている・・というイメージを民衆に植えつけ、世論操作を行ったのだ。

 

「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるが、不名誉を被った紀州藩は逆に追い詰められ、土佐藩後藤象二郎(この後藤は龍馬の盟友・武市半平太を切腹に追い込んだ怨讐でもあった)の介入もあり、ついに海援隊に賠償を申し出た。

 

 

龍馬は当時考えうる最高のメディア戦略で、破格な賠償金を勝ち取ったのである。

その額は船と積荷をあわせて8万両、現在の金額で30億円(!)ともいわれている。

 

一介の浪人たちが大藩を相手取り、見事な情報戦略で勝利したのだ!!

実に痛快!!

 

我々もマスコミの根拠のない情報に惑わされないよう、注意しないとね・・。

 

―ちなみに、それだけの巨額の賠償金を勝ち得たのは、龍馬たちが積荷の中には武器の他、4万両分の金が含まれていた!・・と主張したからだそうだが、現在、瀬戸内海で発見されたいろは丸からは、金どころか武器さえも見つかっていないという・・。(笑)

 

やってくれるね、龍馬・・。