中東は「世界の火薬庫」といわれている。
その歴史をひも解いても、大国の利権が複雑にからみ合い、またエルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3つの宗教の聖地と、問題解決は容易なコトではない。
しかし、もともとこの3つの宗教は、同じ唯一なる神を信じる一神教であり、聖書を聖典とし、アブラハムを信仰の祖とする「アブラハムの宗教」―アブラハミック・リリージョンと呼ばれる、いわば、同じ親をもつ兄弟宗教なのだ。
そもそも、宗教は愛と平和を説くものであり、隣人愛を奨励する。
では、何がここまで、この3つの宗教の兄弟仲をこじらせてしまったのか?
その根本に、イエス・キリストの扱い方の違いがある。
当然、キリスト教はイエスを救い主として崇め、三位一体論によれば、父なる神と、子なるイエス・キリストと、聖霊とは1つ―すなわち、イエス=神なのである。
しかし、ユダヤ教にとってイエスはどんな存在だったか?
神の選民として神から賜った律法を守り、預言のごとく救世主が現れるのを待っていたが、彼らが待ち望んでいた救世主のイメージと、実際に来られたイエスの姿はあまりにもかけ離れていた。
政治的な解放者、軍事的指導者としてのメシヤを求めていたユダヤ民族にとって、彼らが命のごとく守ってきた律法を破り、安息日に癒しの業を行うイエスは、とても当時の彼らの常識からは考えられない、常軌を逸した異常者、”偽メシヤ”であり、いわば、社会秩序を脅かす存在であった。
そして、十字架につけて殺してしまった。
キリスト教にとって、来られた救世主であり、神であるイエスを殺したユダヤ民族は許せない存在である。
ローマ・カトリックの総本山、バチカンが第2次大戦中、600万人(!)ともいわれるアウシュビッツやホロコーストといったナチス・ドイツによるユダヤ民族の大量虐殺を黙過したのは、彼らが信じる神なるイエスを殺した民族だからに他ならない。
イエスの十字架によって罪が贖われたという信仰をもつクリスチャンにとって、イエスの十字架の死は必然であり、その使命を果たすために地上に来られた・・という認識であるはずにもかかわらず、その”手助け”をした民族を許せない・・というのは、キリスト教の救済観からすれば、おかしなコトであるし、何より「汝の敵を愛せよ」というイエスの教えに反する。
とはいえ、ここにユダヤ教とキリスト教の対立の根っこがある。
クリスチャンの信じる”イエスの十字架の死”ゆえにである。
イスラム教にとっては、イエス(イーサー)は預言者の1人にすぎない。
当然、イエスは神ではなく、人間であるという認識に立つ。
イスラム教以前のユダヤ教、キリスト教は不完全で劣った宗教であり、神が人類に遣わした最後にして最高の預言者、マホメット(ムハンマド)が語った内容をまとめたコーラン(クルアーン)は神の言葉そのもので、最も真正な啓典であるとされ、人類にとって最も正しい信仰の拠り所になると信じられている。
そうした一神教の欠点である排他性が色濃く現れたイスラム原理主義など、過激なテロがひきおこした惨事は既にご存知の通り。
しかし、それはキリスト教国家にしても同様である。
まして、自分たちが神と信じるイエスを、単なる預言者として人間の位置に貶める宗教を、クリスチャンたちがこころよく思うはずがない。
イスラムにとっても、十字架に象徴される十字軍に苦しめられてきた歴史があり、キリスト教とは因縁浅からぬものがある。
イエスの十字架の死が、人類の救いになるどころか、今もメシヤを殺された恨みの象徴となり、争いの火種になるのだとしたら、まずクリスチャンは、その”十字架”をなくしてしまう必要があるのではないだろうか?
イエスにとって、自分が神と崇められよーが、人間と見られよーが、そんなコトは重要ではないと思っているに違いない。
そんなコトより、自分を信じるクリスチャンや、同じ神を信じる兄弟たちが争い、殺し合うのを見るイエスの悲しみは、いかばかりであろうか?・・と思うのである。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)