科学とは自然界の中から何らかの法則性を導き出し、その仕組みを解明しようとする学問である。
当然、その出発点となる行為は、自然現象を客観的に観察し、データを蓄積するコトに他ならない。
ちなみにそのデータであるが、英語では「data」と表記し、単数形は「datum」となる。
これはもともとラテン語で、「dare(与える)」の受身形になるのだそうだ。
データに対して「所与」という訳があてられたりするが、もともとこのデータという言葉には「与えられたもの」という意味があるというコトになる。
「与えられたもの」である以上、無条件で認めなければならない絶対的なものであり、データに文句を言ってもはじまらない。
それが科学の前提である。
そこでタイトルの「裸好き」と「穴の開いたバケツ」である。
どちらも科学者を表現した言葉で、「裸好き」とはオーストリアの物理学者、ルードヴィヒ・ボルツマンが「科学者は裸がお好き」という表現を使い、生涯、科学は客観的であるべきコトを訴え続けた。
ここでいう「裸」とは、いかなる偏見や先入観をも取り去ったありのままの姿、裸のデータというコトである。
一方、「穴の開いたバケツ」であるが、オーストリアの哲学者、カール・ポパーは「科学者は穴の開いたバケツ」と表現した。
この「穴」とは、自然界に対して開いている感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感)を指す。
穴の開いたバケツを水の中につけると、その穴から水が流れ込み、溜まっていく。
つまり、科学者(バケツ)は、自然界からのデータ(水)を一方的に受け取り、蓄積していく・・というコトである。
データの蓄積→帰納→仮説→演繹→確証
・・この流れを仮説演繹法といい、これが科学の本質であるといえよう。
しかし、ポパー自身が、データを蓄積していくコトで、科学者が法則や理論を見出すという考え方に賛成していたワケではなく、むしろ反対する意味で「穴の開いたバケツ」という比喩を用いたそうだ・・。
つづきは、またいずれ・・。