あなたが出会う最悪の敵は
いつもあなた自身であるだろう
ニーチェ『ツラトウストラはかく語りき』
私の教えは川を渡るための
筏のようなものである
そして 向こう岸に渡ったら
筏を捨てていけばよい
『中阿含教』阿梨咤経
仏教では”執着”するコトを戒める。
お金やモノ、人間関係…。
あらゆるものに執着するコトこそが、人の煩悩である。
しかし、究極的は、その執着を戒める”教え”そのものにさえ、執着するな・・というトコロまで行きつく・・。
原理原則は絶対・普遍のものである。
ーしかし、そこに固執するコトで、独善に陥るコトは多い。
キリスト教やイスラム教など、唯一・絶対の神を信じる一神教は、自らの神を絶対視するあまり、他の信ずるものを軽んじ、あるいは一段低い、野蛮で低俗なもの・・とさげすむ排他性さえ、生み出す危険性をもはらんだ教義でもある。
原理原則は確かに重要である。
しかし、原理を超えるものは”愛”である。
・・そのコトを、我々は忘れてはならないだろう・・。
有漏路より 無漏路へ帰る一休み
雨降らば降れ 風吹かば吹け
一休宗純
”有漏路”とは煩悩溢れる俗世間のコト、”無漏路”とは悟りの境地のコト。
禅の世界では、悟りを得た後に、そこにとどまり続けて、俗世に目を背けて生きるのではなく、また俗世に戻り、やがてまた悟りへ・・。
悟りの段階を示した「十牛図」も、悟りを得た最後は「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)といって、俗世へ出て、人を導くコトが描かれている。
(カテゴリー/アート:「十牛図」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/fb5cc15167e49b9582f5035d943d2dc9)
悟りの境地に達すれば、また俗世へ帰り、現実を生きる・・。
両方を行き来するコトで”一休み”・・。
禅宗は己を厳しく律し、突き詰めてあるところまで行く。
しかし、それで終わりではなく、もう1度元に戻る・・という考え方もある。
”娑婆”―すなわち、現実の世界で生きて死んでいく・・。
その現実で生きるコトを、破天荒で型破りな”破戒僧”一休さんは、”一休み”と言ったのかもしれない・・。