Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

”教え”自体にも執着するな!

2017年08月15日 | 人生覚書き

 

 私の教えは川を渡るための

 筏のようなものである

 そして 向こう岸に渡ったら

 筏を捨てていけばよい

       『中阿含教』阿梨咤経

 

仏教では”執着”するコトを戒める。

お金やモノ、人間関係…。

あらゆるものに執着するコトこそが、人の煩悩である。


しかし、究極的は、その執着を戒める”教え”そのものにさえ、執着するな・・というトコロまで行きつく・・。


原理原則は絶対・普遍のものである。


ーしかし、そこに固執するコトで、独善に陥るコトは多い。


キリスト教やイスラム教など、唯一・絶対の神を信じる一神教は、自らの神を絶対視するあまり、他の信ずるものを軽んじ、あるいは一段低い、野蛮で低俗なもの・・とさげすむ排他性さえ、生み出す危険性をもはらんだ教義でもある。


原理原則は確かに重要である。


しかし、原理を超えるものは”愛”である。


・・そのコトを、我々は忘れてはならないだろう・・。


 

 

 


煩悩と悟りのはざまで・・

2017年08月02日 | 人生覚書き

 

  有漏路より 無漏路へ帰る一休み

    雨降らば降れ 風吹かば吹け

            一休宗純


”有漏路”とは煩悩溢れる俗世間のコト、”無漏路”とは悟りの境地のコト。


禅の世界では、悟りを得た後に、そこにとどまり続けて、俗世に目を背けて生きるのではなく、また俗世に戻り、やがてまた悟りへ・・。


悟りの段階を示した「十牛図」も、悟りを得た最後は「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)といって、俗世へ出て、人を導くコトが描かれている。

(カテゴリー/アート:「十牛図」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/fb5cc15167e49b9582f5035d943d2dc9)


悟りの境地に達すれば、また俗世へ帰り、現実を生きる・・。


両方を行き来するコトで”一休み”・・。


禅宗は己を厳しく律し、突き詰めてあるところまで行く。

しかし、それで終わりではなく、もう1度元に戻る・・という考え方もある。


”娑婆”―すなわち、現実の世界で生きて死んでいく・・。


その現実で生きるコトを、破天荒で型破りな”破戒僧”一休さんは、”一休み”と言ったのかもしれない・・。