Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

究極のポジティブ・シンキング

2017年11月29日 | 人生覚書き

自分が望んでいるものが何であるかを発見して、徐々にこれらのものを数多く発見した

 

望んでいるもののいくつかを、本質的に獲得不可能なものとして上手に捨ててしまった

 

自分の欠点に無関心になることを学んだ

 だんだん事物の注意を外界の事物に集中するようになった


                    バートランド・ラッセル『幸福論』


ラッセルは、幸福になるためには、まず、不幸の原因を分析しなければならないと説き、不幸の最大の原因を自己没頭と考え、次の3つのタイプに分類して説明している。


罪の意識に取りつかれた状態 … 小さい頃に植え付けられた道徳から大人になっても開放されない状態

ナルシシズム … 自分を賛美し、人からも賛美されたいと願う状態

誇大妄想狂 … 何よりも権力を求め、愛されるよりも恐れられるコトを望む状態


…こうした”欲”自体は誰にでもあるものだが、何でも度が過ぎると不幸の原因になってしまう。

自己没頭ー自分自身にとらわれてるばかりでは幸福にはなれない。

幸福になるためには、外に目を向けよう…と、ラッセルは説いている。


幸福になるためには、自分の考えにひきこもるのではなく、外に目を向けていくしかないのである。



チームの力

2017年10月30日 | 人生覚書き


一人の百歩より百人の一歩

                  永森重信(日本電産創業者)


「会社経営の要諦はどこにあるのかといえば、一人の社員の百歩に頼るのではなく、百人の社員に一歩ずつ歩んでもらうという地道な前進をいかに継続させていくかにあると思っています。

このポイントを読み誤っている経営者は少なくありません。

優秀な成績をあげる社員、ずば抜けた能力を持った社員を大事にするあまり、一人の百歩よりも百人の一歩のほうがはるかに会社を強くすることを忘れてしまっているのです。

だから会社はいつまでもその一人の社員に頼り、強くなることができないのです」


”わたし”そのままでゆだねる

2017年10月18日 | 人生覚書き

 

 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

 ひとへに親鸞一人がためなりけり。


 さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、

 たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ


 善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。


 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、

 よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、

 まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします


                   『歎異抄』

 

これは親鸞が生前語っていた言葉を唯円がしみじみと回想している場面で、この冒頭に「聖人のつねの仰せには、」・・とはじまる。

すべての人を救いたいという阿弥陀仏の想いは、この自分1人を救うためのものであった・・という独白である。


解説の方の説明によると、”宗教”とは、ひとつの「物語」であると・・。

この場合の「物語」とは、フィクションとかストーリーといったコトではなく、”意味の体系”といったイミ。

「物語」と単なる「情報」とでは、どう違うかというと、「物語」とは、出会ってしまうと、それ以前の自分に戻るコトができなくなってしまうものであると語っていたのが印象深かった。



知行合一

2017年09月04日 | 人生覚書き

知識を蓄えて、

人を見下すようになるなら、

無知のままでいいから、

人を尊敬できる人間になりたい。

 

有名な人の知り合いだと、

虎の威を借りるようになるなら、

孤独なままでいいから、

等身大の自分で勝負できる人間になりたい。

 

知っていることは挑戦に値しないと、

バカにするようになるなら、

知らないことは多いまま、

行動を重んじる人間になりたい。


 

今やパソコンやスマホがあれば、自分で汗水流したり、一歩も外に出ずとも”検索”するだけで、様々な知識を得るコトが出来る時代・・。

だが、それは、本当に自分の骨身になる本物の”知識”となり得るだろうか・・?


「あ~、それ知ってる」

「あれでしょ・・?」


ーそう言って、その”浅い”表面的な知識だけで、そこから一歩も動かない、動こうとしない人が多くなっているのではないだろうか・・?

かつてそれは、ある程度経験を積んだ、そこそこ年を経た”大人”、あるいは老人の特権だったかもしれない。


しかし、情報が溢れかえってる現代、それはどんどん、若年化している傾向があるように思うのは、自分だけではないだろう・・。


「知識」は、単なる記憶されてるだけの情報にすぎない。

ーそれが善悪の判断基準によって取捨選択されると「見識」となる。

ーそこに行動がともなって、はじめて「胆識となる・・。


経験に勝る学びはない。

行動するしか、本物の”ハラ”に据えるコトの出来る知識にはならない。


「論語読みの論語知らず」になってはいないか・・?


人の為に生きる素晴らしさは誰もが知っていているが、それが本当に出来る人は、どれだけいるだろうか・・?


自戒も込めて、あらためて、行動できる人間になりたいものである・・。






 


 


 


”教え”自体にも執着するな!

2017年08月15日 | 人生覚書き

 

 私の教えは川を渡るための

 筏のようなものである

 そして 向こう岸に渡ったら

 筏を捨てていけばよい

       『中阿含教』阿梨咤経

 

仏教では”執着”するコトを戒める。

お金やモノ、人間関係…。

あらゆるものに執着するコトこそが、人の煩悩である。


しかし、究極的は、その執着を戒める”教え”そのものにさえ、執着するな・・というトコロまで行きつく・・。


原理原則は絶対・普遍のものである。


ーしかし、そこに固執するコトで、独善に陥るコトは多い。


キリスト教やイスラム教など、唯一・絶対の神を信じる一神教は、自らの神を絶対視するあまり、他の信ずるものを軽んじ、あるいは一段低い、野蛮で低俗なもの・・とさげすむ排他性さえ、生み出す危険性をもはらんだ教義でもある。


原理原則は確かに重要である。


しかし、原理を超えるものは”愛”である。


・・そのコトを、我々は忘れてはならないだろう・・。


 

 

 


煩悩と悟りのはざまで・・

2017年08月02日 | 人生覚書き

 

  有漏路より 無漏路へ帰る一休み

    雨降らば降れ 風吹かば吹け

            一休宗純


”有漏路”とは煩悩溢れる俗世間のコト、”無漏路”とは悟りの境地のコト。


禅の世界では、悟りを得た後に、そこにとどまり続けて、俗世に目を背けて生きるのではなく、また俗世に戻り、やがてまた悟りへ・・。


悟りの段階を示した「十牛図」も、悟りを得た最後は「入鄽垂手」(にってんすいしゅ)といって、俗世へ出て、人を導くコトが描かれている。

(カテゴリー/アート:「十牛図」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/fb5cc15167e49b9582f5035d943d2dc9)


悟りの境地に達すれば、また俗世へ帰り、現実を生きる・・。


両方を行き来するコトで”一休み”・・。


禅宗は己を厳しく律し、突き詰めてあるところまで行く。

しかし、それで終わりではなく、もう1度元に戻る・・という考え方もある。


”娑婆”―すなわち、現実の世界で生きて死んでいく・・。


その現実で生きるコトを、破天荒で型破りな”破戒僧”一休さんは、”一休み”と言ったのかもしれない・・。


 


いい記憶だけを残そう!

2017年06月12日 | 人生覚書き

  

 コーチをしていると

   よく「何が悪かった?」と聞かれます。


  そんなとき私は

   「どうすれば良くなると思う?」と返します。


                                    ルディ・デュラン(ゴルフコーチ) 


発想を変えるだけで、人生において見える景色は、全く違ったものになる!

 

 

 


人生の三カン王

2017年06月11日 | 人生覚書き

関心

     感謝

           感動

                   加山雄三

 

正直言って、ありきたりすぎる言葉ではある・・。

しかし、現在80歳、今も現役で走り続ける永遠の”若大将”、加山雄三が言うと、説得力がある。

年を重ねると、はじめて経験するコトが少なくなり、慣れや惰性で、何の新鮮味も感謝も感じるコトなく生活し、日々を過ごすコトもままある・・。


何にでも関心をもち、感謝の心を忘れず、感動ある生活をする。


当たり前のコトを当たり前にやり続けるコト—何より、それが一番難しいコトなのだろう・・。