「主よ、もうちょと切り落としていーですか・・その方が運びやすいんで・・」
・・とゆーほどのイミになろうか?
クリスチャン向け風刺漫画の1コマ。
「運命」、「業」、「カルマ」、「因果」・・その1つ1つは、厳密には、イミが違うものかもしれない。
―が、なんと呼ぼうが、そうしたものは確かにある。
目に見えない何らかの力が働き、時に我々の人生に大きな影響を及ぼす。
クリスチャンなら、それを「十字架」と呼ぶのだろうか。
それら、すべてが自分の「罪」・・とゆー概念だけでは割り切れない、不条理な、理不尽な環境や境遇におかれていると感じている人は、果たして、どれだけいるだろう?
職場や学校、家庭の人間関係など、自分が選択したワケではなくても、否応なく巻き込まれてしまう状況とゆーのは、誰しも経験したコトがあるのではなかろうか?
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)
・・有名な聖句であるが、誰だって苦しいのはイヤだ。
ツライのはイヤだ。
不条理で、理不尽なのはイヤだ。
―しかし、それでもなお、それを自分が背負うべき”十字架”だと、すべてを謙虚に受け入れられた時、人としての本当の成長があるのだろう。
「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(コリントⅠ10:13)
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道の書3:10)