Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

65と100

2010年08月16日 | 最近、思うコト

昨日は終戦から65年目の日。

様々な戦中・戦後の特番やドラマがTVで流れる中、深夜枠で「平和公園に眠る故郷~CGでよみがえる記憶の町」という番組がやっていた。

原爆の爆心直下で、現在は平和記念公園となっている広島市中島町の被爆前の町並みをCGで再現した映像作家のドキュメント番組だ。

 

その映像作家は、以前に会った、広島に行ったコトがあるというアメリカの新聞記者が、「爆心地が公園だったから、被害が少なくてよかった」・・と語っていたの聞いて、愕然として、この企画を思い立ったという。

 

当時の中島町の住人は、「自分には故郷がない」・・という思いで、今も生きているという。

 

すべてが灰燼に帰した爆心地には、”町並み”の面影や、欠片さえ残らなかったからだ。

しかし、かつて、そこは広島でも最もにぎやかな繁華街で、映画館や、多くの店や家が軒を連ね、多くの人々が生活していた場所だったのだ。

 

その中島町にあった旅館で、母親が働いていたという人は、母がどんなトコロで働いていたかも知らないまま、被爆直後の「ほうきで掃いた」ような状態の、既に町はない”中島地区”を見て以来、失意に打ちひしがれたまま、65年間、そこへ行ったコトがなかったそうだ。

しかし、その旅館の息子さんが生き残っており、その証言をもとに再現されたCG映像を見て、65年ぶりにその旅館跡へ行き、当然、今は何もない、公園の敷地の一画で両手を合わせ、「長い間、ごめんなさい・・」と涙ながらに頭を垂れていた。

 

記憶をたどる寄る辺さえない・・というのは、どれだけつらいコトなのだろうか・・?

ある日、自分の住んでる町一帯が、この地上から忽然と消えてしまうのだ。

それは想像を絶するコトだろう。

 

65年という歳月は、その当時の記憶をもつ人々さえも、この世から連れ去ってしまう。

その記憶は、語り継ぐ者がいなければ、やがて忘れ去られてしまう。

 

同時に昨日、お隣、韓国では65年目の光復節

今年、2010年は、日韓併合条約が締結されて以来、100年目の節目にあたる。

 

先日、発表された首相談話の中にも「 政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。」・・とあるが、そのあたりの歴史を、我々日本人は、どれだけ認識しているのだろうか?

 

アメリカの新聞記者の「爆心地が公園だったから、被害が少なくてよかった」・・という発言を、我々日本人はどう受け止めるだろうか・・?

広島に住む人、爆心地の中島地区に住んでいた人は、どう受け止めるだろうか・・?

 

―しかし、それと同じような無神経なコトを、我々日本人は、してきてはいないだろうか・・?

 

65年の倍近い100年という歳月は、当時の記憶を風化させ、日本人の脳裏から消し去るには十分な時間なのかもしれない。

実際に当時の様子を知る人は、今はもういないだろう。

 

しかし、被爆した町をCGで再現する試みが、当時の追体験と記憶の再生をもたらし、子や孫へ語り継がれていくように、同じような追体験と記憶の再生は、韓国でも行われているだろう。

 

少なくとも、被害者から、その心の傷が消えるコトはないコトを、我々は忘れてはならないだろう。