Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

「ゆるすということ」

2010年03月30日 | 人生覚書き

ゆるすことは
幸せになるための処方箋

ゆるさないことは
苦しむための処方箋

苦しみの原因が何であれ
苦しみにはすべて「ゆるさない」という種が
宿っていないだろうか?

復讐の念を燃やしつづけ
愛や共感を出し惜しみすれば
健康を害し 免疫が低下することは
まちがいない

当然だと思われるような怒りでも
こだわりつづけていれば
神の安らぎを味わえなくなる

ゆるしとは
その行為をよしとすることではない
残虐な行動を
見逃すことではない

ゆるしとは
怖れに満ちた過去に
こだわりつづけるのをやめること

ゆるしとは
古傷を引っかいて
血を流しつづけるのをやめること

ゆるしとは
過去の影に惑わされることなく
いまこの瞬間に
100%生き 100%愛すること

ゆるしとは
怒りからの解放であり
攻撃的な思いにさよならすること

ゆるしとは
誰に対しても
愛を拒まないこと

ゆるしとは
ゆるさないという思いから生じた
心の空洞を癒すこと

ゆるしとは
過去に何をした人でも
すべての人のなかに
神の光を見ること

ゆるしとは、相手のためだけでなく
自分自身のためであり
自分が犯したまちがいのためであり
くすぶりつづけている罪悪感と
自分を恥じる気持ちのためである

最も深い意味でのゆるしとは
愛で満ちた神から自らを
切り離してしまった自分を、ゆるすこと

ゆるしとは
神をゆるすことであり
神は自分を見捨てたという
おそらくはまちがっている考えを
ゆるすこと

いまこの瞬間にゆるすということは
もう先延ばしせずに
ただゆるすこと

ゆるしは心の扉を開け
感情をスピリットと一体にし
すべての人と一体にし
すべての人を神と一体にする

ゆるすのに
早すぎることはない
遅すぎることもない

ゆるすにはどれだけの時間が
必要だろうか?

それはあなたの価値観しだい

絶対にムリだと信じるなら
絶対に起こらない

半年かかると信じるなら
半年かかる

一秒ですむと信じるなら
一秒ですむ

私は心から信じている
一人ひとりが
自分も含めてすべての人を
完全にゆるせるようになったとき
世界は本当に平和になるということを
             

           ジェラルド・G・ジャンポルスキー

                 (『ゆるすということ』より)

 


K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメント2010

2010年03月29日 | 格闘技・武道

先日、K-1 WORLD MAX 日本代表決定トーナメントがやっていた。

去年の大晦日で魔娑斗は引退、今回のトーナメントに出場予定だった小比類巻太信もケガで出場を断念、引退を発表した。

 

長年、MAXを牽引してきた2人に代わり、今年の日本王者に輝いたのは、なんと!!

 

このブログでもたびたび紹介してきたコスプレファイター!長島☆自演乙☆雄一郎!!

 

・・・・。

 

お気づきだろうか?

普通は選手名の下に異名とゆーかキャッチフレーズ、そして、その下に空手やキックボクシングなど習得している格闘技や所属団体が書かれているのだが、自演乙は「アニメ」となっている・・。

どないやねん・・。

 

1回戦の相手は辰吉と並び、日本最速プロ8戦目で世界王者になった名城信男の弟で、その格闘センスは兄をも上回るといわれ、19戦して19KOというKO率100%の名城裕司

これを1ラウンドKOで破り、2回戦も元日本王者の城戸康裕を判定で下した龍二から、1ラウンドで2度のダウンを奪い勝利。

ノーダメージで決勝戦へコマをすすめた。

 

 

決勝戦の相手は魔娑斗も注目のゴールデン・ルーキー、中島弘貴

1回戦でTATUJIを下し、今回の優勝候補と目され、昨年のWORLD MAXベスト4の山本優弥を下した日菜太を秒殺KOで沈めた強打の持ち主。

ウエイト・トレーニングをまったくやっていないという、天性のパワーを持つ21歳だ。

中学時代は野球部に所属し、八王子市の優勝投手にもなったコトがあるという。

こちらもノーダメージ。

まさしく次代を占うにふさわしい新星同士の戦いとなった。

 

 

決勝のリングに入場する自演乙も気合いののったいい表情。

しかし、格好は相変わらずのコスプレ・・。

魔女・・?

こいつのコスプレはまったく元ネタが分からん・・。

アニメもいろいろあるだろーに、萌え系の女の子キャラばかりコスプレするとゆーのが、絶対に曲がられない彼の信念のようだ・・。

 

初回からバチバチに殴りあうも、パワーでは中島が上。

しかし、自演乙もまったく引かずに打ち合う。

2ラウンドに中島のパンチが入り、ヒザから崩れてダウンをとられる。

お互い、蹴りも出さずに真っ向勝負の殴り合いだ。

 

勝負を決めたのは3ラウンドに自演乙が入れたこのパンチ。

 

カウンターで中島の額に入り、そのままダウン!

立ち上がれず、レフェリーが試合を止めた。

パワーではあきらかに劣っていたが、それを上回って余りある気合いで、臆するコトなくガンガン前に出て打ち合い、勝機を掴んだ。

3ラウンドがはじまる前、セコンドから「お前、ここで負けたら、ただのオタクになっちまうんだぞ!」・・と檄を飛ばされ、送り出されたという。

 

最後は、ポスト魔娑斗にはなれないけど、MAXは絶対つぶれません!・・と涙ながらに絶叫してたのが印象深かった。

 

3回勝って3回コスプレで入場して、アニメ布教を完成させます・・と、日頃から公言しているアニオタのコスプレファイターが、実際にやりとげた時には、意外に殊勝なコトを言っていたのが、何とも彼の生真面目な性格を垣間見た思いだ。

 

まあ、あそこで、 

「アニオタは永久に不滅です! 

 

・・とか言っていたら、ただの野次だけではすまなかったかな・・?

 

しかし、自演乙が今年のMAX日本王者かー・・うーん・・。

 

ちなみに同じ日に行われたWBC世界フライ級王座統一戦で、亀田興毅ポンサクレック・ウォンジョンカムに判定で破れ、王座陥落。

 

兄弟王者も一瞬だったなあ・・。

残念・・。

 


海洋堂フィギュアコレクション 坂本龍馬

2010年03月26日 | 食玩など

出るべくして出た感のある「海洋堂フィギュアコレクション 坂本龍馬」

大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、世の中は今、ちょっとした龍馬ブ-ムだ。

 

セブンイレブンの500mlペットボトルのドリンクのおまけとしてついている。

造型企画制作はあのチョコエッグ動物フィギュアで一世を風靡した海洋堂

当然、販売終了次第おわりの期間限定品なので、欲しい方は今のうちに・・。

 

「―その生涯の軌跡―」とサブタイトルにあるように、幕末に龍馬の奔走した土地に焦点をあて、33年間の彼の生涯の軌跡を解説するコレクション。

①龍馬誕生(1835年)~高知~

②黒船来航(1853年)~浦賀港~

③海軍操練所練習船「観光丸」(1863年)~神戸~

④グラバー邸(1865年)~長崎~

⑤新婚旅行(1866年)~鹿児島~

⑥龍馬落命の地(1867年)~京都~

⑦坂本龍馬像(1928年)~高知桂浜~

・・の全7種類。

 

こちらは「黒船来航」のフィギュア。

小さいながらもなかなかの出来!

さすがは海洋堂。

 

龍馬の生涯を決定づけたのは18歳の時、江戸の剣術修行中に見た、この黒船であろう。

今だに外国から来た衝撃的な存在を”黒船”と称したりする。

 

若い時にそうした”黒船”と出会えた人はしあわせであろう。

もちろん、その出会いを活かすも殺すも自分次第であるが・・。

 

ちなみにパッケージのボトルネックにかける部分には坂本家の家紋、違枡桔梗紋が刻印されている。

 

桔梗紋といえば、明智家の家紋である。(カテゴリー/都市伝説・ミステリー:「光秀=天海?説」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/c2cc190300ba241d1e4563772846fa3a

そういえば、龍馬は明智家の子孫ではないか?・・とゆー話もある。

2人が詠んだといわれる歌もよく似ている。(カテゴリー/人生覚書き:「龍名に恥じず」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/6fe589c95e9d09b893d845c7a6760c50

 

まあ、いずれその話も・・。

(やるんかなー・・?


神様の問いかけ

2010年03月24日 | 人生覚書き

三浦知良

―通称、「カズ」

「キング・カズ」とも言われた日本のサッカーを牽引してきた男。

43歳の今も、プロとしてプレーし続ける現役最年長選手。

90分間、走り続けるコトが出来るよう、ストイックにハードな練習を自らに課すその姿が、若い選手たちの見本となり、刺激を与え、プロ意識を植え付ける”日本サッカー界の魂”とも言うべき存在である。

 

ドーハの悲劇を経て、4年後のジョホールバルの歓喜で日本が初出場を決めたフランスでのワールドカップが1998年、今からもう12年前のコト。

 

しかし、カズは悲願のワールドカップ出場の夢破れ、まさかの代表落選・・。

自分にとって、もうワールドカップはないのか?・・との思いに襲われた。 

 

昨日、NHK「プロフェッショナル」とゆー番組で、カズはその時のコトを振り返り、こう語っていた。

 

「もしかしたら、あそこからがサッカーの人生のはじまりだったのかもしれないね。

そこまでは、もしかしたらもう、本当にこう、こう言ってはなんですけど、余興だったのかなっていうね。

 

あそこから本当にこう、『自分がどうなるか?』っていう・・あの、サッカーの神様が与えたものじゃないの?

『お前はここから、どうやってサッカー選手としてやっていくんだ?』っていうね。 

そんなような気がしますね。 

サッカーの神様がいるなら」

 

運命は、時に残酷だ。

神様は、こっちの事情などお構いなしに、過酷な問いかけをしてくる。

自分の信じてきたものが、足元から崩れ去るような挫折を味わうコトもあるだろう。

 

―お前はここから、どう生きるのか?

―それでもやるのか? 

 

落ち込む時もある。

くさる時もある。

傷つく時もある。

「もうダメだ・・」という絶望感に駆られ、すべてを投げ出してしまいたくなる時もある。

 

しかし、誰よりも真摯にサッカーと向き合ってきた12年間こそが、その神様の問いかけに対する、カズの答えに他ならない。 

番組最後、恒例のプロフェッショナルとは?・・という質問に対し、カズは「どんな状況に立っても全力を出し切る、出せる人」と答えていた。

 

「どんな状況に立っても」

 

・・という言葉が、とても重みある響きにきこえた。

 

 


光秀=天海?説

2010年03月23日 | 都市伝説・ミステリー

琵琶湖のほとりにある明智光秀の居城、坂本城から北西に4km行った所に比叡山がある。

その比叡山の飯室不動堂に、光秀が寄進したと言われる石灯籠がある。

 

その石灯籠には「奉寄進 願主 光秀」の文字とともに「慶長二十年 二月十七日」と書かれている。

慶長20(1615)年といえば、大阪夏の陣豊臣家が滅びた年。

光秀が死んだといわれる山崎の合戦から33年も後になる!

 

我々がよく知る教科書にも載ってる光秀の肖像画は、光秀の息子が建てた本徳寺という大阪府岸和田市にあるお寺に所蔵されている。

 

その肖像画の上には「般舟三昧放下去」とあるが、「般舟三昧経」(はんじゅざんまいきょう)に基づく修行方法を常行三昧、または仏立三昧といい、心を一つの事に集中し、正しい智恵を得るための修行のコト。

「般舟」はサンスクリット語の音写で、訳すと「仏立」となる。

「仏立」の言葉のごとく、仏様が目の前に現れるという修行で、「放下」(ほうげ)とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るのイミ。

すなわち、「般舟三昧、放下し去る・・」とは仏門に入り、すべての執着を捨て、僧侶となって去っていった・・というコトなのだという。

 

前回、光秀が家康の家臣だったのではないかと言われるほど、徳川家とのつながりが深いとゆーのを見た。(カテゴリー/歴史・民俗:「明智光秀の謎」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/84e9f19b8c5c7b55555f6b0388cd034b

実は、光秀は天海僧正ではないか?・・との説がある!

 

南光坊天海は徳川幕府のブレーンとして家康秀忠家光と徳川家3代将軍に仕え、家光の名付け親でもあった。

家光の「光」と2代将軍・秀忠の「秀」で「光秀」となる。

 

108歳まで生きたとされるが、その前半生は不明で、突如、歴史の表舞台に現れ、徳川家の側近として朝廷との交渉や宗教政策に深く関わった。 

都市計画にも関わり、陰陽道風水に基づく江戸鎮護を構想、霊的な結界で江戸を守るため、鬼門である北東の方角に、家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮を建てたのも天海である。

約260年もの間続いた徳川幕府の礎を築いた、いわば、”スピリチュアル・アドバイザー”とでも言うべき存在なのである。

 

その日光東照宮の陽明門にある鼓楼鐘楼には桔梗紋の彫り細工が多くあるが、桔梗紋は明智家の家紋である。

 

また陽明門には、随身像という桔梗紋の袴をつけた像まであるのだ!

さらに天海が日光全体が見渡せる最も見晴らしのいい場所に明智平と名付け、その理由を聞かれた時に、「明智の名前を残すのさ・・」と答えたというエピソードもあるという。

 

日光東照宮には、他にも「かごめかごめ」の歌や、徳川埋蔵金に関する話もあるが、それはまたの機会に・・。

 

天海は死後、朝廷より慈眼大師の号を追贈され、日光の輪王寺にある天海の墓は慈眼堂という。

 

ちなみに「慈眼寺」の名をもつ寺は全国に多数あるが、京都の慈眼寺には漆黒の光秀像があるという。

 

また家康が天正20(1592)年に再建した秩父神社は、日光東照宮の雛形になったとも言われているそうだが、徳川家の葵の御紋がある社殿の下に、桔梗紋のついた着物を着た像があり、これは光秀ではないか?・・とゆー説も・・。

 

春日局が初対面のはずの天海に「お久しゅうございます」と挨拶したというエピソードもあり、光秀の家老の娘で、光秀とは主従関係にあり、顔見知りであったゆえにそうした挨拶になったのでは?・・と言われているそうだ。

なかなか興味深い説である。

 

天海の没年は諸説あるが、最大で135歳!

天海と光秀が同一人物だと享年は116歳(!)になり、当時の寿命を考えると少々無理があるのではないか?・・とも思うが、他にも2代で天海を演じたなどの説もある。

少なくとも、光秀が山崎の合戦で死んだとされる通説は、あらためて検証されるべきかもしれない・・。

 

もちろん、後世の編纂物によるものであるが、光秀の辞世の句とされるものに、こんな歌がある。

 

「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

 

うーん・・どっかで聞いた気がするね・・。 

 

信じるか信じないかは、あなた次第です・・。

 

 


桜はまだかいな

2010年03月22日 | 最近、思うコト

梅~は~ 咲い~た~か~

  さく~ら~は~ まだかいな~

 

・・「しょんがえ節」という端唄の一節だが、このあとは聞いたコトがない。

梅が咲く頃になると、庭や花をいじりながら、冗談めかしてよく母が歌っていたものだ。

 

昨日は春分の日

各地で春の嵐が吹き荒れ、結構、黄砂が飛んでいたようだ。

 

公園でも春の準備。

「三寒四温」とゆーが、今年は寒暖のふり幅がやけに大きく感じる。

 

つがいのカモが、小川の陽だまりで日向ぼっこ。

あったかそうに眠ってる姿がほほえましい。

 

 

ポカポカ陽気のあったかい日は15~6度、それ以上あったろう。

あちらこちらで春を感じるコトは多い。

 

 

ずい分早く、高知で桜が開花したとのニュースをラジオで聞いた。

観測史上最速だという。

 

常夏の国もいーけれど、四季の感じられる国は、またそのよさがある。

 

桜は日本を象徴する花。 

自分も1番好きな花だ。 

 

広島でも、そろそろ・・かな?


『草の葉』の心

2010年03月20日 | 人生覚書き

   

     寒さに震えた者ほど太陽の暖かさを感じる

       人生の悩みをくぐった者ほど生命の尊さを知る

                         

                         ウォルト・ホイットマン


明智光秀の謎

2010年03月19日 | 歴史・民俗

明智光秀といえば、本能寺の変で主君である織田信長を討った謀反人として、歴史にその名をとどめている。

しかしながら、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあるという。

 

諸学に通じ、和歌や茶の湯を好んだ文化人でもあり、戦国の世にありながら、大変な愛妻家としても知られている。

妻の煕子(ひろこ)が嫁入り前に疱瘡にかかり、あばた顔になったのを気に病んだ父親が妹を嫁にやろうとしたところ、「煕子こそ我が終生の妻」と断り、生涯、側室をとらなかったという。

(ただし、煕子は継室で、光秀にとっては2人目の妻・・とゆーコトになるが・・

そうした生き様からキリシタンであったとも言われており、実際、光秀に近い周囲の者にはキリシタンが多い。

組下大名(寄騎)の高山右近は有名なキリシタン大名であるし、細川忠興のもとへ嫁いだ娘のこそ、かの細川ガラシャである・・という具合だ。

 

『信長公記』には、その出自に朝廷と深い関わりがあったと記されているそうだが、出生や前半生など、織田家の家臣として歴史の表舞台に現れるまでは各地を放浪していたとも言われ、謎が多い。 

歴史家や研究者の近年の研究によって、さまざまな文献や記録に散見される光秀の足跡を追ってみると、”ある事実”が浮かび上がってくるという。

 

岐阜県可児市にある明智城は出生の地とされるが、なだらかな丘陵を越えるとすぐ三河で、歴史学者の佐宗邦皇によると、徳川家との関係が深かったという。

『名将言行録』に、三河の牧野右近太夫の百石取りの家臣であったとのエピソードがあり、徳川家康と主従関係にあったのではないか?・・という説もあるそうだ。

実際、『武功雑記』には、光秀が三河で渡り奉公をしていたとの記述もあるという。

http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide03.html

永禄3(1560)年桶狭間の戦い今川義元が信長によって敗れ、人質であった家康は岡崎城へと戻り、その後、光秀の足跡も三河から消えるが、静岡大学教授大和田哲男『永禄六年諸役人附』の奉公衆、足軽衆の中に「明智」の姓があるコトから、室町幕府の13代将軍・足利義輝に仕えていたとしている。

義輝は永禄8(1565)年松永久秀に殺されてしまい、室町幕府最後の15代将軍となった弟の足利義昭は落ち延び、越前の朝倉氏に身を寄ていたが、永禄11(1568)年、信長を頼って再び上洛した時に、光秀は朝倉の家臣として信長と面会したという。

光秀の仲介により、信長と義昭の同盟がなったのである。

 

『明智軍記』によれば、諸国放浪の後、朝倉義景に仕え、永禄8年頃には既に信長に招かれていたとあるそうだ。 

つまり、そこからが我々がよく知る、歴史の表舞台に出てきた信長の家臣として仕える光秀・・とゆーコトになる。

 

戦国乱世のコト、斎藤道三豊臣秀吉など、その出自がどこの馬の骨ともつかない、怪しげな前身の者は多いが、光秀は朝廷ともつながりもあり、各地を放浪しながらも様々な主君に仕え、出生の地は三河にほど近く、家康の家臣だったのではないか?・・と言われるほど徳川家と深い、何らかのつながりがあったというのだ!

 

本能寺の変の際、家康は堺にいたが、有名な”伊賀越え”で領地の岡崎城へ逃げ延びており、「大神君は先立ちて信長の変を聞召し・・」と、事前に光秀の謀反を知っていたとの記録も『朝野旧聞褒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)にあるという。

家康は信長の命により、正室・筑山殿と長男・信康とを殺されており、信長に妻子を殺された恨みがあり、なおかつ天下に野心がある・・となれば、十分に動機はある。

 

まあ、もちろん、信長暗殺の真の黒幕・・とゆーコトでは、他にもさまざまな説があるが、この光秀・家康共謀説の面白いのは、この後の話・・。

 

光秀は本能寺の変の11日後、天正10(1582)年6月13日京都・小栗栖村山崎の戦いで落ち武者狩りの百姓に竹槍で突かれ、命を落としたとされる。

いわゆる”光秀の三日天下”である。

 

しかし、信長方の記録には、光秀が死んだとの記述は残っていないという。

主君を殺した首謀者が死んだとなれば、当然、その記録が残っているはずなのだが、それにもかかわらず・・である。

 

実は、光秀は生きていた!?

 

・・という説があるのだが、つづきは、また・・。