今日は昭和の日、昭和天皇の誕生日だ。
今日からゴールデン・ウィークに突入して、連休に入る人も多いのではないか?
はやい人はもう連休中という方も・・。
豚インフルエンザで騒がれている今、昭和天皇の誕生日というコトを意識して、今日という日を過ごす人がどれだけいるのかわからないが、「天皇制」というものについては、卒論で扱ったテーマでもあり、「日本人とは何か?」というコトを考える時に、はずせないファクターであるなあ・・というのが自分の正直な感想だ。
「日本人と何か?」
・・というテーマも、わずかの間とはいえ、海外で生活した経験から、自分自身が日本人である・・というコトを強く意識するよーになったコトが、そこにこだわる1つの理由である。
東京で生まれ育った人間が広島に来たら、「自分は広島の人間とは違うなあ・・」と感じるのと同じような感情であろう。まあ、言うたら、カルチャー・ショックになるか・・?
自分の行ってた大学は無名の三流私大で、創立して3年目で自分が入学した当時は卒業生もなく、学部も政治経済学部1つしかなかった。(今は増えてるようだが・・)
3年になったら全員がゼミに所属し、卒論を提出しなければならない・・という中、政治にも経済にもそれほど興味がなかった自分は、「卒論のテーマは人間に関するコトなら何でもいーよ」という文化人類学のゼミの教授のゆる~い感じに惹かれ、そこで学ぶコトになった。
そこで政治や経済、宗教、冠婚葬祭といった人間の営みの根本は一体何だろうか?・・というコトについて考えさせられるようになった。
最終的に「天皇制」をテーマにしたのは、自分は何者か?日本人とは何か?・・という根本的な問いにつながるものだったからかなあ?・・と今になって思ったりもする。
今、その卒論は手元にはないが、要するに、「天皇は王か?」というコトと、「なぜ現在まで存続し得ているのか?」・・というコトについてまとめたものであった。
要約すると・・
<天皇は常に権力と共にありながら、権威を担い、何度も存続の危機はあったものの、フレキシブルに対応しながら今まで生き延びてきた。今も「象徴」というワケのわからない状態で続いている。
それでいて、民心を収斂する力をもっている。思想的に右よりでなくても、単なるミーハーのような皇室のファンもごく普通にいる。
それは、天皇の権威が再生されるシステムが社会にあるからで、その方がその時代時代の権力に都合がいい、要するに利用価値があるからなのだ>
・・という感じである。
実際、戦後GHQが天皇制を存続させておいたのは、占領統治に都合がよかったのと、来るべき共産主義との戦いに備え、日本に天皇制を残すコトで防波堤にする為であったという。
今、どちらかというと、「いかにして天皇制は生まれたのか?」という、そのルーツに興味は移りつつある。古代史のあたりになるが、いまだに邪馬台国がどこにあるかもわからないというのが現状だ。
そこには多くのナゾとロマンがある・・。
しかし、離婚や不倫のスキャンダルにまみれた英国王室の姿なんかを見ていると、日本の皇室はあるイミ、現在のこの日本において、理想的な家庭のあり方を見せてくれてるのかなあ・・と思ったりするのであった・・。
「自分の好きなコトでメシを食う」コトを”スキメシ”と言うそうだが、自分の好きなコトでメシを食えている人は、はたしてどれだけいるだろうか?
自分が好きだと思ってはじめた仕事だとしても、実際仕事となると、イヤなコトもやらなければならなかったり、苦手な人との付き合いもあったりするだろう。
本当に自分が好きだと思ってはじめたコトだとしても、向き不向きでいえば、向いてない・・というコトもないとは言えない。
たとえば、歌うのが好きで歌手になったという人がひどい音痴だったとしたら、いくら好きでも歌手には向いてない・・とゆーよーなコトだ。
これは心理学者のジョセフ・ルフトとハリー・インガムが考案した「対人関係における気づきのグラフモデル」、通称”ジョハリの窓”とよばれるものだ。
さっきの歌手の例でいえば、「盲点の窓」の部分にあたる。(音痴の自覚がないという前提ならばだが・・)
これをブラインド・セルフというそうだ。
「いやー、歌好きだから歌手になったけど、俺、音痴だったんだあ・・」
・・というたとえなら分かりやすいと思うが、実は結構、こーゆー状況って、多いのではないだろうか?
自分では見えてない部分も、他人ならよく見えていたりする・・まさしく盲点である。
「君なら、こーゆー仕事の方が向いてるんじゃない?」
・・というのは、実は客観的に見える他人の方が見極めやすいのかもしれない。
方向性に迷った時、アドバイスを求めるのは1つの良策であろう。
実は、この「自分には見えないが他人には見えている」”盲点の窓”、もっともよく覗かれている関係性が親子や夫婦といった家族ではないだろうか?
・・とはいうものの、身近な家族であるからこそ、ことに夫婦などは、お互いパートナーから指摘されれば、ついつい感情的になりやすい。
しかし、指摘される以上、自分には見えてなくても、相手の目には見える事実が確実に存在するワケだ。
自分の盲点をついた指摘をされた時は、ひとつ冷静になってその事実を認め、
「ありがとう、それは気付かなかった」
・・と、アドバイスに耳を傾ける。
そんな余裕ある大人の対処をしたいものだ。
・・まあ、それが素直にできれば、ストレスも減るだろーにねぇ・・。
則天去私
「天に則して私を去る」・・夏目漱石が晩年に達した境地とされる。
人間のエゴを見つめ、精神まで病んだ漱石だけに、重みのある言葉だ。
逆に言えば、「私」が去らなければ、天に則したコトにはならない・・といえようか?
天とは即ち、私を去るコト。
我執の多い自己を見る・・。
「人類が増え過ぎた人口を宇宙に移民させるようになって既に半世紀。地球の周りには巨大なスペースコロニーが数百基浮かび、人々はその円筒の内壁を人工の大地とした。その人類の第二の故郷で人々は子を産み、育て、そして死んでいった。
―宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市・サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この1ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は、総人口の半分を死に至らしめた。人々は自らの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に陥り、8ヶ月あまりがすぎた・・」
・・というナレーションではじまる「機動戦士ガンダム」が放映されたのは1979年、今から丁度30年前になる。
以来30年がたった現在も、続編やサイドストーリー、派生したガンダムの名を冠する作品が作られ続ける、根強い人気を誇る作品だ。
今では多くのガンダム作品があるため、最初に作られた本作は”ファースト・ガンダム”と呼ばれている。このファースト・ガンダム、いわゆる1年戦争がおわるまでのわずか3ヶ月あまりを描いた作品と後に知って驚いたものだ。
ガンプラ・ブームとあいまって何度も再放送され、小5くらいでブームにぶつかった我々世代にはドンピシャであった。同世代の友人にもガンダム好きは多い。
ちなみに現在、日本のキャラクター商品の9割はガンダム関連のものだという。
それまでは、どこぞの研究所が開発したスーパーロボットと、宇宙から来た侵略者や世界征服を目論む悪の組織とが戦うという単純な善と悪との戦い、勧善懲悪のストーリーだったのが、同じ人間同士の戦争という設定にした本作は、まさに画期ともいえる作品であった。
事実、ロボットが出て来る巨大ロボットアニメもガンダム以前は「スーパーロボットもの」、ガンダム以降は「リアルロボットもの」と、ハッキリとその傾向が分かれるようになったコトを思えば、その影響力や推して知るべしであろう。
ガンダムでは宇宙空間に移住するようになった人類の未来像を、衣食住にわたってリアルさを追求、ロボット自体も当初は出さない予定だったらしいが、スポンサーの意向で出さざるを得なくなり、近年「スターシップ・トルーパーズ」で映画にもなったSF作家、ロバート・A・ハインラインの『宇宙の戦士』に出てくる強化防護服=パワード・スーツを出そうとしたが、
「こんなちっこいのじゃ玩具が売れん、巨大ロボットを出してくれ」
・・というスポンサーの圧力で妥協して、マジンガーZの18mにしようというコトであのサイズになったのだという・・。(残念ながら、映画「スターシップ・トルーパーズ」にはパワード・スーツは出てこない・・)
ちなみに、これが、そのパワード・スーツ。
30年以上たった今も、全く古臭さ感じさせないそのデザインは、スタジオぬえの宮武一貴によるもので、ハヤカワ文庫版『宇宙の戦士』に、そのイラストを見るコトが出来る。
モビル・スーツというロボットの名称も、パワード・スーツの名残りというワケだ。
そのロボット自体も出すからには、それなりの理屈が必要というコトで、レーダーなどの電磁波を使う兵器をすべて無効にしてしまうミノフスキー粒子なるものを考え出し、有視界による近接戦闘が主体になったというコトで生み出されたのが、モビル・スーツというワケだ。当然、その描写は軍用の兵器というものだ。
その世界観の描写も、体制側の地球連邦とそこからの独立を望む反体制側のジオンというイデオロギーの戦いのみならず、組織内も一枚岩ではなく、さまざまな人間がそれぞれの思惑をもちながら、多様な人間ドラマを織りなす。
子供向けの巨大ロボットものの姿を借りつつ、その実、しっかりとした世界観と深い人間ドラマをもった、より高い年齢層の鑑賞にも堪えうるガンダムは時を経て、世代を越えて愛される作品となり、今に至る・・。
そのリアルな世界観や設定ゆえに、いくらでもストーリーを膨らませたり、派生させたりするコトが可能なのも長年愛されている理由の1つであろう。
しっかり作ったものは長持ちする!・・というよい例だろう。
ちなみに自分にとってガンダムといえば、ファーストのシャアとアムロがメインで、後はあんまり興味なかったりするが・・。
実際、原作者の富野由悠季は、全身全霊で血を吐いて自分を出し切った作品からはずされ、自分の手を離れて作られていくガンダム・シリーズを見て一時期鬱になり、自殺さえ考えたそうだ。
彼は以前に紹介した『絶望に効く薬』(カテゴリー/マンガ・アニメ:「絶望に効く薬」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/71add750eb900774e690b0ad0f12c66c)の中で、こう言っている。
『つながりが見えないことが、要するに絶望なんです。人は、人から認められて初めて安心できる存在なんだ。他者がいて、初めて自分がいるんだ・・・「俺が」「私が」って考えるのをやめることが、一番のクスリになるわけです。「我ありき」で考えないことです。』
そして、当初概念が曖昧で、さまざまな解釈ができたニュータイプについては、”相手の思っていることを、間違いなく理解できる能力をもった人”であるとしている。
ジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆は、実際に宇宙に行ってきたNASAの宇宙飛行士にインタビューして 『宇宙からの帰還』を書いた。
その中の1人、 ドン・アイズリはこう言っている。
「眼下に地球を見ているとね、このどこかで人間と人間が領土やイデオロギーのために血を流しあっているというのが、信じられないくらいバカげていると思えてくる。声を出して笑いたくなるほど、それはバカげた事なんだ。地球にいる人間は、結局、地球の表面にへばりついているだけで、平面的にしかものが見えていない。平面的な相違点がやたらに目につく。その違いと見える全てのものが、宇宙から見ると、全く目に入らない、マイナーな違いなんだよ。宇宙からは、マイナーなものは見えず、本質が見える。相違は現象で、本質は同一性である。同じだという認識が足りないから争いが起こる」
もしも、地球連邦という世界統一政府ができ、人類が宇宙に移民できるような科学力をもち、 そこで新しい世代が生まれるほどの時代を迎えながら、まだ戦争という愚かしい行為を繰り返しているとするならば、ニュータイプのような人類の真の革新は、まだまだ遠いとしか言いようがない・・。
昨日、久しぶりに奥さんの実家へ行ってきた。
ひょっとしたら、正月以来かな・・?
今、お母さんが1週間ほど家を空けてるので、いつもエサをくれる人が見当たらない飼い猫のこてつ君コト”こーやん”はちょっと情緒不安定気味だ。
友人で猫を飼ってて、そのブログを書いてるのがいる。
タイトルもズバリ、「愛猫 うちのネコさま」!
ほのぼのとした猫バカぶりがおすすめのブログだ。
ぜひ、ご覧あれ。http://minita.blog16.jp/
その彼の話によると、猫は自分の中でランキングをつけてるという。
もちろん、自分が一番エライ”ネコさま”・・。
次が自分にエサをくれる人・・というよーな感じで、家の中での位置関係を自分の中にしっかりもっているそうだ。
当然、たまに顔を出す自分のような人間は、「こーやんランキング」の中では最下層に位置すると思われる。
いつも自分が奥さんの実家に行くと、こーやんがやってきて品定めでもするかのように、顔からしっぽの先までおしつけながら、自分の足元をスルーしていく。
威嚇なのか、マーキングなのか・・?
「あんまりでかい顔すんじゃねーぜ・・」とでも言わんばかりだ。
それでも、やっぱりお母さんがいなくてちょっと落ち着かない雰囲気のこーやん。
もうちょっとの辛抱だからね・・。
現王者の魔裟斗は今年いっぱいで現役を引退するコトを表明しており、今年も王者のままリングを去りたいというのがホンネだろう。
今年のトーナメントを戦う8人を決定する開幕戦だけに、誰が勝ちあがってくるか注目されたが、MAXの四天王といわれるアルトュール・キシェンコ、ブアカーオ・ポー・プラムック、アンディ・サワーは順当に勝ち上がり、唯一、四天王の中では佐藤嘉洋が延長でドラゴに判定負けを喫した。
佐藤は完璧にスタミナ切れで打ち負けたという感じだった。
しかし、他の四天王の面々も勝ちあがったとはいえ、危うい内容も・・。
キシェンコはアルビアール・リマをKOで倒して勝利したが、ブアカーオはアンドレ・ジダの強烈なパンチで1ラウンド早々にダウンを喫し、かなり追い詰められていた。しかし、さすがの巻き返しで延長に持ち込み、相手を圧倒して勝利!
サワーもピーター・アーツの愛弟子、リーロイ・ケスナーからダウンを奪いながらも決めきれず、辛くも判定勝ち。
魔裟斗はサワーとは2戦して2敗。
引退するまでに必ずリベンジしたい相手だろう。
そして、日本代表決定トーナメントを制した小比類巻太信がケガのため、準優勝の山本優弥が出場、韓国王者のイム・チビンと戦い、判定勝ちを収めた。
ラッキーをものにした山本は広島出身、ぜひとも頑張ってもらいたい。
さらに初代王者のアルバート・クラウスが長島☆自演乙☆雄一郎を秒殺で倒し、トーナメント進出を決めた。
長島はコスプレファイターとしてファンの人気投票で圧倒的な支持を得て今回の開幕戦に参戦。実力はあるが、今回はさすがの強心臓もかなり緊張して動きが硬かったようだ。
試合前の舌戦ではクラウスは「男で女装するヤツなんて、頭がおかしいかゲイだろ?」と長島を口撃、
長島も「ゲイちゃうし!」と言い返していたが、その時の格好がウサギの耳?か何かがついたピンクのナース風?・・というコスプレで、およそ説得力に欠けるものだった。
まあ、ゲイではないにしても、十分頭がおかしいヤツには見える・・。(笑)
そして、画面いっぱいにコスプレで踊り、入場する姿はやはり、痛い・・。
最後にもう1人、トーナメント出場を決めたのがジョルジオ・ペトロシアン。
ジャバル”チンギスハン”アスケロフをKOで破り、下馬評通りの強さを見せつけた。
サワーにもカウンターで完勝し、ブアカーオとも引き分けたという実力の持ち主。魔裟斗もその名を口にした未知の強豪は、かつてのブアカーオのように、今年のMAXの台風の目となるか?!
注目の選手だ。
最近、マジンガーZのアニメがリメイクされ、放送されているそうだ。
タイトルは「真マジンガー 衝撃!Z編」!!
当時、放映してたものをそのまま再放送するのではなく、リメイクするというトコに「巨大ロボットアニメ」も、とうとうネタも出尽くして一巡したかなあ・・なんて思わされたりする。
まあ、40年近く前の作品を再放送するのもムリがあるだろうが・・。
日本初のアニメはご存知、手塚治虫の「鉄腕アトム」。1963年からの放送の本作、主人公のアトムはまあ、ロボットだが巨大ではない。
同じ年に「鉄人28号」が放送され、こちらは巨大ロボットだが、リモコンで遠隔操作するロボット。人が乗って操縦する、いわゆる「巨大ロボットアニメ」の元祖とされるのがマジンガーZだ。
ちなみに当時の子どもたちの夢の玩具であった超合金というネーミングは、マジンガーZが”超合金Z”という材質で作られているという設定に由来する。
その放送は1972年からで、自分が生まれた年の翌年からの放送だ。
世代的にも丁度、”巨大ロボットもの”とともに成長してきたコトになる。
「マジンガーZ」、「グレートマジンガー」、「UFOロボ グレンダイザー」、「ゲッターロボ」、「勇者ライディーン」、「超電磁ロボ コン・バトラーV」等々・・。
今となってはほぼ内容は覚えてないが、夢中になって見た覚えがある。
自分が乗って動かすロボットの中でも、合体変形するものにはカタルシスを感じたものだ。
合体変形するロボットの元祖はゲッターロボで、1974年の放送。
しかし、このゲッターロボの合体変形は理屈もヘッタクレもない荒唐無稽なもので、子ども心に
「ありえへん・・」
と思いながら見ていたものだ。
実際、スポンサーの玩具メーカーも玩具化できないので苦心したらしい。
その辺が考慮されて、玩具化可能な変形が出来るライディーン(1975~)や合体変形を極めたコン・バトラーV(1976~)へとつながっていく。
中でも5体のマシンが合体してロボットになるコン・バトラーVは個人的にも思い入れが深い。今でもトランスフォーマーとか「ちゃんと変形する」というものに惹かれるのは、このコン・バトラーVが原点かなあ・・と思う。
ちなみに合体変形するロボットの元祖がゲッターロボと書いたが、それに先立つコト7年前の1967年、実は実写で合体変形するロボットがすでに登場しているのだ。
それが円谷プロの「ウルトラセブン」に出てくるキングジョーなのだ!
4機の衛星や円盤が合体してロボットに変形、セブンを苦しめた。
アニメではゲッターロボだが、こちらが正真正銘、合体変形ロボットの元祖といっていいだろう。
弱点は転ぶと自力で起き上がれないコト・・。(笑)
どーでもいー人にはどーでもいー話だな・・。
さて、「巨大ロボットアニメ」といえば、画期となったあの作品を忘れてはならない。その話はまたいずれ・・。