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犬猫と日向ぼっこ

ミックス犬と二匹の猫と一緒に送る毎日の記録と庭の草花の栽培日記。また、旅行先での記録などを綴る。

夏の家族旅行の思い出

2006-07-19 10:17:23 | 思い出
娘が日帰りのバス旅行で神戸に行かないかと誘ってくれる。

最近の暑さで、娘に言ってはいないが気乗りがしない。

子供たちが小さかった頃、この時期には夏休み期間中に一回行く事に

していた家族旅行の場所探しと、私たち夫婦の休暇の調整をしていた。

あまり休みが取れなかったので、たいてい二泊三日のマイカーで行く

旅行だった。

一度、新幹線を使って神戸と大阪に行ったことがある。

吉本新喜劇を見にいって大阪に一泊した後、神戸に行った。

今だったら暑い夏に神戸の坂道を歩くなんて 信じられなーい

ことだけど、当時はまだ若かったんだなと、この間出てきた写真で思った。

震災前だったので、私も40才になって間もない頃。

家族旅行に行くと、いつも夫は私たちのことを優先してくれた。

このときも、娘と私が行きたいところに付き合ってくれた。

中華街で食べた 豚万 夕食で食べた中華料理。

帰る日に、新幹線の駅近くで食べたステーキは夫が喜んでいた。

(といっても、そんなに豪華なものではなかったけど)

その半年後、震災があった。

たくさんの人が亡くなった事を知った時、私たちと神戸の町ですれ違った

多くの人の中にも、亡くなった人がいると人の命の事を考えた。

だれも、命の残り時間は知らない。

あれから、夫も私たちを残して旅立ってしまった。

神戸に行くかどうか、そろそろ答えを出さなければ。







昔の職場で

2006-07-17 10:17:21 | 思い出
今朝のワイドショーで、コメンテーターの女性が「暑いから今日は

ノースリーブです。ちょっとお恥ずかしい」なんていまどき聞けないことを

話していた。昔の人が現代にやってきたら驚くような格好をした若者も

多い時代になって、ノースリーブという言葉も久しぶりに聞いた。

若い時勤めていた職場に、恐い先輩がいた。お局様が。

私の親くらいの年代の女性。

あるとき、私の少し年下の人が ノースリーブの服を着て来た。

今のようにクーラーもなく、扇風機もあまりない職場でわたしたちは暑い

から当然と思っていたが、彼女は休憩時間、お局様に呼ばれ

「ノースリーブの服はいかん」と注意を受けた。

彼女は後でぶつぶつ言っていたが、従った。

あの頃 袖のある服を着て それも今のようにゆったりした綿製品でなく

体にあわせた化繊のオーダーの服(既製品の種類が少なかった)で、

ストッキングも暑くてもはいて、想像するだけであせもが出来そうな

格好をしていた。

でも、当時 今ほど暑く感じなかったのは気温が今ほど高くなかったのか

それとも、若さがあったのだろうかと思う。

お局様が亡くなって20年近くになるが、今の若者の格好を見たら

血圧が上がって倒れるんじゃないだろうか。

写真は、庭にこぼれ種で生えた鬼百合です。

買い物籠

2006-07-13 09:35:01 | 思い出
ただいま 8:30過ぎ、いつもする家事(洗濯・掃除・ごみ捨て 

そして、わんこの散歩)終了。

今日はいつもしていないところをちょっと片付けようかなと思いつつ

休憩を兼ねてパソコンの前に座る。

着ているものは既に汗臭くなったような状態。以前だったらこの状態でも

扇風機だけで忙しく仕事をしていた。今のような甘い生活を味わってしまうと

とても、元には戻れないなあと思う。お仕事で頑張っている皆さんに感謝!

今朝のA新聞の生活欄を見て、また朝っぱらから昔を思い出す。

中野翠さんの、「スタイルブック」というコーナー。

買い物籠の写真と一緒に、昔の買い物籠の話が書いてある。

スーパー・レジ袋というものがなかった時代に活躍した買い物籠。

サザエさんがよくもって買い物に行く、あの籠。

私が子供の頃、うちの母も買い物籠を持って出かけていた。

時代とともに籠は、形・素材もだんだん洗練されていき、スーパーの出現で

紙袋 レジ袋へと進化していった。

今日の記事の中にも書いてあるが、よく あの籠だけで用が足りたなあ

と、今の人は思うだろう。

当時は 毎日買い物に行った。家の近くの何件かの八百屋さんで殆ど

済ませていた。豆腐も入れ物を持って買いにいっていた。

車はもちろんなかったし、自転車もお母さん用というものはなく、全て

歩きだったので家の半径500m以内くらいで済ませていた。

殆どのお母さんは専業主婦で、看護婦 電話交換手 先生など

限られた職種の人だけが働いていた。

私などあの頃にタイムスリップしたら、とても働いて子育てと

いうのは出来なかったと思う。

今日の新聞から

2006-07-09 10:38:44 | 思い出
この時期に家を空けると帰ってきてからが大変。

娘たちにあれこれ頼んではいても、日中締め切りになることが多いので

湿気がこもって。雨続きで明日ぐらい晴れてくれるといいのだけど‥。

今朝のA新聞から、生活の欄に連載で「患者を生きる」というコーナーが

ある。がん患者の体験などを乗せたものだけど、癌に関しては今日が終わりで

今日はがんを経て毎日を肯定的に生きる読者の声がのせてある。

その一つに、「もっと幸せに」と題したものがあった。

その中に、「告知を受けた時、死が目前に迫り、将来の青写真がもろくも

崩れた。年配の人がテレビで笑い歌うのを見ると、どうしてこの人は

ここまで生きてこられたのだろうと真剣に思った。でもある日、私は

毎日生活している今はそれでいいんじゃないかと思ったら、急に気が

軽くなった。」とあった。

私もテレビでそのような場面を目にしたとき、同じように感じる時がある。

そして、団塊の世代の退職の話になるとき、退職を迎えられずに

働くだけで終わった夫を思い暗くなる。

私は患者ではないので、感じる事は多少違うと思うけど、夫と過ごした

病院生活で、はじめは日々のすごし方をどうしたらいいのかと思った。

ある時期からあまり先を考えず、明日のことだけ考えるようにして過ごした。

仕事をしていた時とは違った毎日を。

旅に行ったりしてすごしていても、

私の青写真は夫の告知から崩れていったまま。

いまも、あまり先のことは考えず毎日を過ごすことにしている。





2006-06-30 14:13:44 | 思い出
梅雨時の必需品、傘の思いであれこれ。

子供の頃、我が家の斜め前の家は傘やちょうちんを作っていた。

傘といっても、今では高級品となった時代劇に出てくるような

竹で出来た傘。姉と一緒にその家によく遊びに行った。

姉より少し年上のお姉さんが遊んでくれたので。

その頃は、いま100円均一にあるようなビニールのものはなく、

布製のものか、竹で出来た番傘だった。

学校の置き傘というのも初めの頃はなく、途中から雨が降ったら

家の人が傘を届ける・友達にのせてもらう・ぬれて帰る

の、どれかだった。3年生の頃クラスに数本 置き傘として番傘が

配られた。しかし、番傘は当時の栄養失調気味の子供には重くて

両手で一生懸命さして帰るという状態だった。

あの頃 教室には照明がなく、雨の日は暗かった。

暗い校庭を重い傘をさして帰る光景を、思い出す。

今もある黄色の子供用傘が、置き傘として配られたのは少し後に

なってから。

そして、私が自分用の折りたたみ傘を買ってもらったのは、中学校に

なってからだったかな。

広島のデパートに父といった時、買って貰った花柄の傘は今でも

覚えている。

最近、少し前まで高価だった軽い折りたたみ傘が安くなっている。

もらい物等で数本ストックしている折りたたみ傘も、重さのせいで

なかなか出番がなくなった。

そういえば、昔は傘を修理してくれる店もあった。

ものを大切にしなくなり、自転車も傘も道端に置き去りにしてあると、

かわいそうになる。