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犬猫と日向ぼっこ

ミックス犬と二匹の猫と一緒に送る毎日の記録と庭の草花の栽培日記。また、旅行先での記録などを綴る。

映画鑑賞デー

2006-09-02 13:44:30 | 思い出
中学生の頃、わが町には三軒の映画館があった。いや、4軒だったか?

とにかく小さな町なのにあった。

一ヶ月に一回くらい、学校から映画を見る日があった。もちろん希望者だけだが。

その頃は、舟木和夫、西郷輝彦、吉永小百合 浜田光夫なんて青春スターの

全盛時代。(保護者がついていないと映画には行くことを禁じられていた。)

日曜日に映画館の前に並んで友達と開くのを待った。

今のような座席ではなく、クーラーがあったかどうか記憶にないが

いつも楽しみにしていた。

その頃見た映画で記憶に残っているのが、「キューポラのある街」。

吉永小百合の主演で、町工場がたくさんある街での人々の生活を描いたもの

だった。吉永小百合の演じる少女の友達の少年が、お父さんが朝鮮半島の

出身だったので(お母さんは日本人)故郷に家族全員で帰るのを駅まで

送っていくシーンがあった。

長い間、そのシーンの意味は分からなかった。

最近、北朝鮮のニュースを聞くとき、「日本人妻」と言う言葉を聞く。

そして、新潟から船に乗って行ったとか‥‥。

市川芳郎さんが演じた少年の家族が日本を離れていったのは、これだった

のかと分かった。

たしか、向こうに行ったらいいことがあるというように、希望を持って

行くような話になっていたような‥‥なにぶん40年以上前のことなので

記憶があいまいになっているが。

それなのに、つい最近までひどい状況になっているなんて知らなかった。

あの頃見ていた映画、今頃思い出すと結構考えさせられるものが多い。


今日は“ちゃり”で(ちょっと若者語を使ってみた)動物病院に

わんこたちのフィラリアの薬をもらいに行った。

せっかく行ったのに入り口に「学会出席で休み」とある。

がーん!

やれやれ出直しだと帰ってみると二匹が仲良く

おしりあいになっていた。画像のように。

静かなお盆休み

2006-08-13 15:44:51 | 思い出
朝早くから灯篭を持った人がお墓まいりに行っている。

いつもは静かなお寺の回りも、何事かと思うくらい車がとまって

灯篭を手にした人達がおりてくる。

広島の安芸門徒特有の灯篭。初盆の時は白い灯篭、次の年からは赤・黄・紫

といったにぎやかな色紙と竹で飾った灯篭になる。

この街で生まれ育ち、今また暮らしている私にとっては普通の光景だが

よその県から見たら、ちょっと異様な光景に映るだろう。

今日から数日はスーパーに買い物に行っても混雑していると思う。

夫が元気だった頃は 親戚が集まるのでちょっとした自家製オードブル

を作るため少し前から献立を考え、買出しに行った。

そして、当日は朝早くから作っていた。

一生懸命作ってもあっという間になくなった。まあ、残るよりいいけど。

夫がなくなってからは親戚も集まる事もなく、静かなお盆を過す事になった。

核家族だけで過す生活や、盆・正月を自分たちのペースだけで過す生活に

ずっとあこがれてきたが、いざそうなると落ち着かない。

もちろん、夫が元気でいてこういう状況になったのなら、そんなことは

感じないのだが。

先日の新聞の投稿欄に「鹿の子百合」というタイトルで投稿があった。

その中に、お気象キャスターの倉嶋厚さんの本から引用した

「天気と一緒で、人生は展開していくもの。ときには予想もしない形に」

という言葉があった。

私の人生はどんなに変わっていくのだろう。

まあ、あまり先のことは考えないようにしているが。









スイカの思い出

2006-08-12 08:55:29 | 思い出
昔は 今みたいに大きな冷蔵庫ではなかったのにスイカを丸ごと

買って入れていた。食べ物の種類もあまりなかったので、入れるものが

少なかったからだろうが。

最近はスーパーでも、丸ごと買う人を見ることもない。

ごみの問題もあるから昔ほどスイカを食べられないとも聞いた。

スイカの思い出と言うと、キャンプでのスイカ割りかと思われるかもしれないが

ちょっと違う。

私が中学一年の時(東京オリンピックがあった年)、おばさん(母の弟のお嫁さ

ん)が病気になって広島の病院に入院していたので母と一緒にお見舞いに行った。

おばさんは胃がんだった。まだ33才だったと母からあとで聞いたが、5才と

3才の女の子をおばあちゃんに預けて入院していた。

お見舞いに行った母と私に、散らし寿司を出前してもらって「食べて」と

気を遣ってくれた。働き者のおばさんだった。

帰りに母とデパートに寄ったら知り合いのおじさんに出会い、レストランで

ご馳走してもらった。

それが、スイカにカキ氷とシロップをのせたもの。

どうってことないようなものだが、当時切って食べるという食べ方しか

知らなかった私たち親子はカルチャーショックを受けた。

家に帰って、いかなかった姉と兄に自慢げに美味しかった事を話した。

物心ついて初めて出かけた広島の街だったので、このときのことは印象に

残っている。

おばさんは一時退院して少し家にいたが、また近くの病院に再入院した。

母がお祭り用に二人の女の子に着物を縫い、おばさんに見せに行ったとき

おばさんは泣き崩れたという。治らないという事が分かった頃だった。

もう、40年以上前のこと。治療法も今のようでなく、つらく苦しい

最後だったと思う。体も心も。

夏休みの宿題

2006-08-06 17:08:51 | 思い出
子供の頃、毎年早く宿題を済まそうと夏休み前には思っていた。

いざ、夏休みに入ると取り掛かりやすいものだけやって、自分の好きで

ないものや調べるのに時間がかかるものを後回しにして、8月末に

慌てるというパターンを繰り返した。

慌てる原因になる主なものは、読書感想文(気に入った本のときは

早く仕上がったが)、科学研究(あの頃はちょっと名前が違ったような‥)

工作それに夏休み帳の中の、ちょっと調べないと分からなかったところ等。

性懲りもなく毎年‥などと、自分でも反省はしていたのだけど。

小学校4年か5年の頃、社会というか工作というか日本地図に新聞紙で

作った粘土で山を作り、等高線別に色を変えて塗るというのがあった。

この宿題は父親の得意分野だったので、姉、兄 私と三人分を父は

張り切って作ってくれた。さすがに私のときは姉の作品を名前を変えて

持って行け等と言ったりしたが、先生が見たら子供のものでないのが

直ぐ分かるような立派なものを作ってくれた。

そして、卵の殻で貼り絵をする図画の作品は、途中から母が手伝って

くれていた。

さて、我が家の子供のときは私たちの時ほど作って持っていくものが

なかったので助かったが、何回かは手助けというか、私が作ってしまった。

ぐずぐずしているのを待ちきれず、ついやってしまった。

この間パンを焼いた時、こんなのを科学研究にしたらいいなと

ふと思った。我が家の娘の時は時間がなかったので、とても無理だったが

元気なうちに まごができたら夏休みの宿題に‥なんて思っても、

その前の段階がまだだ。

写真はパン作り三回目の作品。

入院中 知りあった人々

2006-08-04 09:40:01 | 思い出
昨日の続きで、若かりし頃大学病院に入院した時知り合った

人たちのことを。

6人部屋に退院までずっといた。何人かは退院で入れ替わったが

殆ど同じメンバーだったので、年は違っても楽しく過ごした。

私と、少し年上のお姉さん以外は泌尿器科病棟ということもあり、

おばあちゃんたちだった。

県北からきたおばあちゃんには、手術の時からおじいちゃんが付き添って

泊まっていた。女性部屋だったけど、みんなが「いいよ!」といって

おじいちゃんは部屋の一員になった。仲のいいご夫婦でとても

微笑ましかった。

このおばあちゃんからは、川魚の佃煮を頂いた。川魚は苦手

だったのだけど頂いた煮物を食べて驚いた。

臭みもなく、とても美味しかった。

もう一人、韓国系のおばあちゃんがいた。初めは恐そうだったが

慣れてくるととても面倒見のいいおばあちゃんという事が分かった。

いつも子供さんが面会にやってきてにぎやかだった。

そして、このおばあちゃんが先生をからかうのがとても面白かった。

時々、キムチを頂いて、「朝鮮の唐辛子は日本のものとちがうんよ

赤くてもそれほど辛くないんよ。この唐辛子は広島駅前の市場でしか

売っていないんよ」なんて話を聞いた。

美味しいキムチだった。

そして、いちばんお世話になった少し年上のお姉さん。

早く結婚していて、当時小学校高学年の子供が一番上で、その下に

二人の子供がいた。慣れてから色んな苦労話を聞き涙が出た。

たまに見舞いに子供を連れてくるご主人も冷たそうな人で

お姉さんは入院費の事もご主人に気を遣っていた。

でも、普段はとても暗い事を思わせない人だった。

私が退院して数ヵ月後に検査に行った時、退院したお姉さんは

再入院していた。

この時のいろいろな人たちの話が、その後の私の生き方を少し変えた。

あのお姉さんはあれからどうしたかな と、時々思う。