@tosi0531 新選組が大砲の調練をしていたとは、勉強不足で知りませんでした。そうなると和流の砲術調練か、西洋流の調練だったかが問題ですね。甲州に出発の際に、徳川家から四斤砲を受け取ったみたいですが、和流の調練だと導火線方式で… twitter.com/i/web/status/9…
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 00:42
@tosi0531 こちらこそ、ありがとうございました。逆に私は軍事以外に無知なので、新選組の人物や組織についてブログで勉強させて頂いています。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 01:25
昨晩の、棚倉藩の十六ささげについての記述が言葉足らずだったので、補足説明させて頂きます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 21:58
まずは棚倉藩について、棚倉藩は元々白河から棚倉に移封されたのですが、白河時代に江戸湾の海防陣地建設に従事した際に西洋軍事の有効性を知り、やがて軍制を西洋式に改めます。
この時に西洋式に抵抗して、甲冑に刀や槍の装備を貫き通したのが、十六ささげ。つまり強さよりも、武士の意地や誇りを優先した集団と言えましょう。その人数は16人、半小隊規模の部隊でした。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:02
やがて白河戦線に棚倉藩兵も出兵すると、十六ささげも出陣。棚倉藩兵の初陣とナル五月一日の戦いに参戦するものの、甲冑姿の刀槍部隊である十六ささげが、ミニエー銃装備の新政府軍に対抗出来る筈がなく、隊長始め数名の戦死者を出し敗走します。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:07
元が16名の小部隊ですから、隊長始め数名の戦死者を出せば、組織としては壊滅状態で、その後の三ヶ月近く続く白河戦線の記録に、十六ささげの名が出て来る事はありません。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:14
ところが「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」との俗謡が白河の領民の間で謳われたと伝わります。
仙台烏と言うのは、有名な衝撃隊。この衝撃隊が仙台藩の部隊として、白河戦線に参戦していたのは史料に残っていますが、新政府軍が衝撃隊を恐れたと言う具体的な史料は見たことがありません。ましてや五月一日の戦いで壊滅した、時代遅れの刀槍部隊である十六ささげを新政府軍が恐れる必要がありません
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:18
ここからは憶測ですが、前述したとおり白河は元々棚倉藩阿部家の領地、自分達の町が新政府軍に占領された時、かつての領主の棚倉藩兵を懐かしみ、既に壊滅した何の功績も挙げなかった甲冑姿の刀槍部隊を、歴戦の部隊として讃えた俗謡を謳ったのではないでしょうか。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:25
繰り返しになりますが、新政府軍側に、十六ささげの攻撃によって生じた損害の記録が無い以上、十六ささげの伝説は、かつての領主を懐かしんだ白河の領民が、判官贔屓で謳った創作の可能性が極めて高いと思われます。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2018年3月30日 - 22:28
熊本市歴史講座:歴史ウォーク「田原坂周辺~西南戦争の激戦地 田原坂~」を開催します / 熊本市ホームページ city.kumamoto.jp/hpkiji/pub/det…
— マンチカン 帝國 (@maEmpire) 2018年3月30日 - 22:33