歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

5月17日(金)のつぶやき

2013年05月18日 01時00分46秒 | twitterまとめ

ブログを更新しました。 『表も裏も』 amba.to/12DbpW9

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鍋島直茂は早くから龍造寺隆信・政家父子に匹敵する権限を与えられたけど知行は低く抑えられて、隆信生前は自前の家臣団は碌に持てていない。その代わり新たに龍造寺傘下に入った者でこれはと思われる人材を自家薬籠中のものにしていっているように見える。中野清明や大木統清とか。

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@take_nakanishi 直茂は竜造寺家で一番の大身だと思い込んでいました。そうなると沖田畷後もそれほど知行は多くなかったのでしょうか?、知行が多くないのならば、それで竜造寺家を指導出来たのが不思議です。それとも一時的に竜造寺本家の直轄地を押さえていたのでしょうか。


大洗の明治期の古地図を見ていたら、涸沼川の大貫運河より下流に船着き場が描かれているのに気づきました。これが大貫運河の開通によって寂れたのか、大貫運河開通後も荷揚げに使われていたのが気になります。そうなると大貫運河と磯前神社に加えて、大洗の経済拠点が更にもう一つあったのかな?。


@tukaohtsu 龍造寺隆信が生前三男の後藤家信に書き送った遺言的な書状には「私が突然死んでもみなで政家を守り立てて私の生前と同じように事を進めること。鍋島信昌(直茂)は私と同じ考えの者であるから、何事もこれと相談するように」とありました。おそらくは他の息子や一門の(続く)

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@tukaohtsu (承前)主だったものにも同様の書状を与えていたものでしょう。沖田畷合戦当時、直茂は筑後の経営に当たっていました。敗戦後直茂は柳川城に帰還します。佐賀ではこの未曾有の危機に、隆信の母慶ギンが政家の後見となり、義子でもある直茂を佐賀に召還して国政に(続く)

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@tukaohtsu (承前)当たらせようとします。直茂は筑後の情勢不穏を理由に難色を示しますが結局説得されて佐賀城に入ります。ところが今度は江上家種(隆信次男)率いる城原衆から「直茂は御家乗っ取りを目論んでいる」との中傷があり直茂は謹慎して蓮池城に移ってしまいます。(続く)

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@tukaohtsu (承前)この事態に政家は「一門の者が何を言おうが私は直茂の意向に従う」との起請文を出し「御家裁判」すなわち龍造寺領国支配の全権を委任します。龍造寺宗家家督の政家が直茂と一蓮托生の覚悟を示したことが、直茂の指揮権掌握を一門・家臣団に一応納得させることに(続く)

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@tukaohtsu (承前)なったものでしょう。次に直茂の知行高の件ですが、九州征伐後秀吉から安堵された知行は龍造寺家中最大のものとなっていました。隆信の死後から九州征伐時までの間に、どのような経緯で直茂の知行が増大していったのか、これは調べてみなきゃならないことですね。

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@take_nakanishi 詳しい説明ありがとうございます。確か島津家との和睦の時に、筑後は島津に割譲したと聞いた事があるような気がするので、それにも関わらず家中最大の知行があったと言う事は、やはり竜造寺本家の直轄地を掌握したのでしょうか。


@take_nakanishi そもそも秀吉臣従時に、本家の知行地があったのかどうかが気になります。直茂だけではなく、他の一族よりも蔵入が少なかったのでしょうか。それとも港や関所の税を直茂が独占していたのかなとも思ってしまいます。


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