高天神城址の遠景。
左の山に本丸、三の丸、御前曲輪などが在り、右の山に二の丸、西の丸、堂の尾曲輪などが在り、双方の山が尾根伝いに井戸曲輪で繋がっていました。
「高天神城を制する者は遠江を制する」で有名な高天神城址を、九年ぶりに訪問しました。
父武田信玄すら落とせなかった高天神城を、落としたと言う事で武田勝頼の名声が挙がったと言われていますが、近年の研究で、この信玄の高天神城攻撃は無かったのではないかとの見解が出ているみたいですね。
信玄の攻撃があったにしろ無かったにしろ、高天神城の戦術的価値は高かったのは間違いなく、長篠設楽ヶ原の戦い後に守勢に回った武田氏の遠江戦線の最前線拠点になり、実に5~6年にわたって徳川氏の攻勢を防いだ事は、高天神城の戦術的価値の高さを表していると思います。
追手門(大手門)跡。大手道は、防御の為に急角度で屈曲しています。
同じく大手道を上から見て。
大手門から井戸曲輪に繋がる道。
三の丸跡。解説版には城兵の居住スペースと書かれていましたが、それにしては狭い気が・・・。
本丸跡。
本丸跡に残る土塁跡。
本丸に隣接する御前曲輪跡。画像のとおり、観光用写真用のコスプレ看板(?)が在ったり、謎の近代建築の基礎があったりなど(管理棟でも在ったのでしょうか?)、正直この御前曲輪は雰囲気をぶち壊しにしている気が・・・。
御前曲輪から麓を見下ろして。
しかし高天神城の戦術的価値の高さは判るものの、「高天神城を制する者は遠江を制する」と称されるのは昔から疑問がありました。画像を見て頂ければ判るとおり、確かに高天神城は堅城であり、戦術的価値は非常に高いと思います。しかし東海道から遠く離れ、近くにこれと言った主要街道がある訳でもない高天神城にそんな戦略的価値があるのかと言うのは長い間疑問でした。
本丸、三の丸が在る山と西の丸、二の丸がある山を繋ぐ井戸曲輪。画像を見て頂ければ判るとおり、双方の山を繋ぐ尾根上に築かれています。
井戸曲輪の名の由来となった井戸跡。
井戸曲輪の下、搦手道に在る三日月井戸。何故か中に二匹の金魚が居ました、九年前に訪れた時は居ませんでしたが・・・。
西の丸跡に建つ高天神神社。絵馬を見ると、どうやら受験合格祈願の絵馬がたくさんありましたが、二度も落城した高天神城に合格祈願って・・・(汗)。
西の丸の南に位置する馬場平跡。
馬場平跡から御前崎方面を見下ろして。訪問した当日は曇りの為に見えませんでしたが、晴れた日は遠く太平洋まで望めるらしいです。
西の丸と馬場平の間の堀切跡。
馬場平から尾根伝いに続く抜け道。二度目の落城の際は、武田家家臣横田甚五郎尹松がこの道を使って脱出した為、甚五郎抜け道と呼ばれています。
そんな疑問に一定の答えをくれたのが、ツイッターで教えてもらった、雑誌『歴史REAL』の第四号です。この記事内で、高天神城は堅城故に武田氏と徳川氏の争奪戦の舞台となったとの見解が書かれていました。つまり高天神城は地理的な戦略的価値は低かったものの、その堅城のネームバリューから、両氏による争奪戦の舞台となり、「高天神城を制する者は遠江を制する」と呼ばれるようになったとの見解は興味深く、長年の疑問に答えてくれるものでした。
二の丸跡。
二の丸と堂の尾曲輪の間に在る堀切跡。
二の丸跡付近から麓を見下ろして。
堂の尾曲輪の堀切跡。
堂の尾曲輪。
堂の尾曲輪は武田氏によって整備拡張された曲輪であり、三つの堀切や空堀など技巧を凝らした縄張がされています。
堂の尾曲輪の堀切跡を見下ろして。
堂の尾曲輪の空掘と土塁跡。
同じく堂の尾曲輪横の空掘と土塁跡。
このような堅城を誇る高天神城ですが、天正9年(1581年)に徳川家康により奪取され、翌年武田氏が滅亡されると、用いられる事は無く廃城となりました。戦術的価値は高くても、戦略的価値は高くない高天神城は、武田氏との抗争が終わった徳川氏にとっては無用の長物となったのかもしれません。
訪問日:2012年03月07日、同年05月08日