歴声庵

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福島県文化センター開館四十周年記念出版:『直江兼続と関ヶ原~慶長五年の真相をさぐる~』

2011年09月06日 19時32分14秒 | 読書

 本書は2007年に福島県白河文化財センターや、福島県立博物館で開催された、会津上杉家から見た、所謂「奥羽の関ヶ原」の企画展示を元にされた冊子です。このような企画展示を冊子化する場合は、展示された資料の写真掲載と解説した物が殆どなので、本書もそのような物だと思っていたら、いざ読んでみると通説を批判して新設を展開する野心的な内容だったので驚きました。

 本書で展開している新説は、神指築城は戦争準備ではなく、首都機能の移転」「直江状は決して宣戦布告ではない」「革籠原決戦計画は無かった」「松川合戦は無かった」と言うのが主な物ですが、どれも史料を駆使して解説してくれるので、なるほどとは思うものの、だからと言って鵜呑み出来る物ではないと言うのが正直な感想です。
 神指築城について、戦争準備ではなく、首都機能の移転と説明して、城下町の構想から上杉方に戦争の意思はなかったと書かれています。確かに史料の紹介を読む限りでは説得力があり、なるほどと思ってしまうものの、一方で上杉家が浪人を集めていた事に関しては一切触れていません。もし上杉家が戦争を避けていたのなら、この浪人を集めていた事に対しても解釈が必要だと思います。しかし首都機能の移転については強調しても、浪人を集めた事に対する説明が無い為、正直「神指築城は戦争準備ではなく、首都機能の移転」と言われても、すんなり納得する事は出来ません。
 「直江状は決して宣戦布告ではない」について書いてある事は、それぞれ納得出来るのですが、明確な答えを表示していないのですよね。まあ直江状の信憑性自体が議論の的になっている現状では仕方ないものの、細々と説明しているものの、結局答えが出て来ないので、正直中途半端な感があります。
 「革籠原決戦計画は無かった」については、本書では『東国太平記』の信憑性を真っ向から否定して、現地調査を経て革籠原決戦計画は無かったとの主張は説得力を感じ、賛同する内容でした。では上杉家が構想した主戦線はどこだったかについては、現在の会津西街道沿いだったと解説しています。この主張どこかで聞いた事があると思ったら、三池純正氏著の『守りの名将上杉景勝の戦歴』と同じなのですよね。参考文献に同書が挙がっている以上、同書を参考にして書かれているのは間違いないと思うので、オリジナルの新説で無かったのが少し残念。
 最後の「松川合戦は無かった」は、この戦いが在ったと思っていた私にとって驚きの内容でした。通説への批判もきちんと出典史料を明示して解説してくれているので、中々説得力がありました。
 批判めいた事ばかり書いてしまいましたが、対最上戦の解説などは、概要をコンパクトに、かつ判りやすく纏めてくれており、ありがたかったです。直江兼続は関ヶ原の敗報を知って撤退したのではなく、戦局悪化から撤退したと言うのは、中々興味深い指摘でした。

 冒頭に書いたとおり、普通の企画展示の冊子化がカタログになりがちな中、通説を批判して新説を展開する本書は、野心的な本だと思います。ただ企画展示の冊子化の為、どうしてもボリュームが限られてしまい、新設の解説が強引に感じてしまった部分がありました。一般書クラスのボリュームがあれば、もっと自然な新設の展開が出来たのではないかと思うので、その辺は残念です。もう一度一般書クラスのボリュームで書き足した物を読んでみたいとも感じました。
 本書で展開された新説を全て鵜呑みにする事は出来ませんが、今後の研究に一石を投じたと言えるかもしれません。


9月5日(月)のつぶやき

2011年09月06日 02時25分11秒 | twitterまとめ
12:56 from web
RT @itaru_ohyama: 『才谷梅太郎に捧げられた哀悼歌』 http://t.co/J2o5eOA
23:08 from web
電撃屋の五更瑠璃Verのキャラドの締め切りが今日だったので、慌てて注文。
23:08 from web
第三大隊である御料兵の記録の『慶応兵謀秘録』に、何故か第一大隊(伝習第一大隊)の戦いである大田原城攻防戦の記録が書いてあるのですね。
23:09 from web
ただ、「あながちに士卒を損し戦ひ勝は、勝の下なる者也」と言うのは負け惜しみにしか聞こえない。大田原城を奪取すれば、白河城の補給戦を分断出来るので、その後の白河城の奪回戦が尽く失敗したのを考えれば、犠牲を問わずに大田原城を奪取すべきだったと思ってしまうのは、後世の傲慢かな。
23:17 from web
@irisiomaru 私なんかは板室の伝習第一大隊の防戦は、有利な地形を選定し布陣して、火力を用いて新政府軍を拘束するなど、流石は伝習隊と思ってしまいました。結局迂回攻撃を受け敗退しますが、それは多分新政府軍が、地元の人しか知らない間道を辿ったからの結果の気がするのですよね。
23:22 from web
@irisiomaru 実際に板室に行った際は、那珂川右岸の絶壁がどのくらいの範囲(横方向に)だったかを見てきたいと思います。翌日の塩原方面の戦いでは、同じシチュエーションで新政府軍と草風隊が延翼運動をしていますので、板室でもひょっとしたら延翼運動がされたのではと思っています。
23:24 from web (Re: @naishimasahiko
それは是非読んでみようと思います。前も書かせて頂きましたが、個人的には高天神城の重要性がピンとこないので・・・。やはり水源を確保している城なのですかね。 @naishimasahiko 歴史リアルに高天神城の重要性が説明されていた
by tukaohtsu on Twitter