歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

上杉文書に収録「慶応四年四月五軍押前行列」

2010年03月28日 20時02分49秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 国会図書館にて上杉文書のマイクロフィルムを見ていたら(都立中央図書館に収録の上杉文書ってマイクロフィルム版なのかしら)、個人的には興奮物の史料を見つけました。目録では「五軍押前」としか記述されていないので、今までスルーしていたら、何とこの史料慶応四年四月、つまり米沢藩が参戦する直前の米沢藩兵の編成が書かれています。それも小隊長に留まらず、それぞれの小隊の兵士名まで全て載っている、米沢藩の戊辰戦争史を調べる者にとっては垂涎の史料かと思われます(^^)
 もっとも、幾ら貴重な情報が書かれていたとしても裏付けを取らないといけないものの、一応『戊辰紀事』や『史談会速記録』に断片的に書かれている情報と比べても矛盾が無いですし、『米沢藩慶応元年分限帳』と照らし合わせても二人を除けば実在していた事が確認出来たので、この史料を信用しても良いかと思います(二人の名が見つからなかったのは、慶応四年までの間に代替わりしたのか、はたまた私の照会の仕方が悪かったのか)。それに米沢藩のニ之手大隊の四番小隊長が誰々だからと言って、歴史の評価が変わるわけではないので、信用して良いかと(^^;)
 と言うわけで、この「慶応四年四月五軍押前行列」に書かれている情報の内、各大隊の大隊長と小隊長の氏名を転載させて頂きます。尚、米沢藩は大隊長を大隊頭、小隊長を隊頭と呼称していますが、判り易くする為、「大隊長」「(小)隊長」の呼称で統一させて頂きます。

一之手大隊
大隊長:大井田修平
一番隊長:増岡孫次郎、二番隊長:古海勘左工門、三番隊長:土肥伝右衛門、四番隊長:太田某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、五番隊長:戸狩左門、六番隊長:長右馬之助、七番隊長:関新右衛門、八番隊長:山下太郎兵衛九番隊長:三俣九左衛門、十番隊長:種村半左衛門、砲一門司令官:石栗善左衛門、砲一門司令官:朝岡兵蔵、砲一門司令官:桐生源作

ニ之手大隊
大隊長:中条豊前
一番隊長:香坂与三郎、二番隊長:関文次、三番隊長:山吉源右衛門、四番隊長:山崎貢、五番隊長:角善右衛門、六番隊長:大関武四郎、七番隊長:青木藤衛門、八番隊長:大熊左登美、九番隊長:小川源左衛門、十番隊長:岡田文内、砲一門司令官:三矢清蔵、砲一門司令官:新屋十次郎

三之手大隊
大隊長:江口縫殿右衛門
一番隊長:桐生丈右衛門、二番隊長:佐藤孫兵衛、三番隊長:山吉新八、四番隊長:安部清兵衛、五番隊長:登坂捴右衛門、六番隊長:上村九左衛門、七番隊長:高村三郎左衛門、八番隊長:山吉一郎左衛門、九番隊長:楠川織右衛門、十番隊長:三本左近、十一番隊長:大石与三郎、十二番隊長:宮政右衛門

五之手大隊
大隊長:桜井市兵衛
一番隊長:桜孫左衛門、二番隊長:温井弥五郎、三番隊長:小幡弥五右衛門、四番隊長:高野鉄右衛門、五番隊長:泉崎弥一郎、六番隊長:小田切兵衛、七番隊長:津田仁左衛門、八番隊長:船田善左衛門、九番隊長:近藤誠次郎:十番隊長:富沢小藤次、十一番隊長:斉藤新右衛門

御出馬隊(一之大隊?)
大隊長:上杉桃之助(一門)
一番隊長:山崎理左衛門、二番隊長:徳間久三郎、三番隊長:斉藤篤信、四番隊長:早川新右衛門、五番隊長:佐藤久左衛門

ニ之大隊
大隊長:上杉主水(支藩世子)
一番隊長:直海新兵衛、二番隊長:野口久左衛門、三番隊長:飯田久右衛門、四番隊長:香坂勘解由、五番隊長:高橋弥左衛門、六番隊長:桃井清七郎、七番隊長:鈴木久左衛門、

三之大隊
大隊長:長尾権四郎
一番隊長:苅野鉄之助、二番隊長:鈴木健助、三番隊長:石川某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、四番隊長:小幡喜兵営、五番隊長:石井次郎右衛門、

御視兵隊
一番隊長:佐伯金五兵衛、二番隊長:桜井恭次、三番隊長:藤巻与捴

軍政府直属
一番隊長:小山又兵衛、二番隊長:本間伝兵衛

奉行府直属
一番隊長:小倉善左衛門、二番隊長:高野広次、大砲二門司令官:畠山修造・山本寺亀太郎


 以上となります。この史料によれば、戊辰戦争参戦前の米沢藩は66個小隊と4個小隊相当の撤兵隊を保有していた事になり(当史料ではまだ撤兵隊は編成中なのか、一まとめにされています)、これが全兵ミニエー銃を装備していたのですから(当史料には卒身分は掲載されていません。また撤兵隊はスペンサー銃を装備)、菊池明や星亮一の言う、「米沢藩の軍装装備は旧態依然だった」との主張がいかに的外と言うのが判るかと思います。

 ところでこの史料を読んでまず判る事は、その後の越後出兵の際の米沢藩兵の編成は、この史料に書かれているものとはかなり違うのですよね。実際参戦時に一之手大隊長の大井田修平と、ニ之手大隊長が率いる中条豊前がそれぞれ大隊を率いて越後に出兵したのに、この時に両名が率いた大隊は上記の編成とは結構違うのですよね。参考までに書かせて頂くと・・・。

大井田修平大隊
「五軍押前」の編成
 増岡孫次郎隊、古海勘左工門隊、土肥伝右衛門隊、太田某隊、戸狩左門隊長右馬之助隊、関新右衛門隊、山下太郎兵衛隊、三俣九左衛門隊、種村半左衛門隊、石栗善左衛門隊、朝岡兵蔵隊、桐生源作隊
実際の出兵時の編成
 増岡孫次郎隊、古海勘左工門隊、曾根敬一郎隊、戸狩左門隊、長右馬之助隊、山下太郎兵衛隊、桃井清七郎隊

中条豊前大隊
「五軍押前」の編成
 香坂与三郎隊、関文次隊、山吉源右衛門隊、山崎貢隊、角善右衛門隊、大関武四郎隊、青木藤衛門隊、大熊左登美隊、小川源左衛門隊、岡田文内隊、三矢清蔵隊、新屋十次郎隊
実際の出兵時の編成
 香坂与三郎隊、斉藤篤信隊、柿崎家教隊、苅野鉄之助隊、香坂勘解由隊、岩井源蔵隊、芦名但馬隊、芋川大膳隊、小倉吉蔵隊、朝岡俊次隊、松木幾之進隊

 このように全然違う編成(特に中条豊前大隊)になっています、これを米沢藩が実戦に合わせて編成を変えた柔軟さを持ち合わせていたと考えるべきか、単に泥縄式の編成だったと考えるか、これからの勉強次第ですね。
 以上、長々と書いてしまいましたけれども、当史料を読んで一番不思議なのは、この「五軍押前」の編成には、後に七月二十九日の戦いで八丁沖東部西部戦線で共に大隊長として勇戦した、柿崎家教と横山与一の名が見当たらない事なんですよね。両名の指揮下で戦った小隊長の名は発見出来るのに、米沢藩の士官の中では有名と思われるこの両名の名が見つからなかったのが不思議です。
 何はともあれ、読んでいく内に知ってる名前がゴロゴロ出てきて、「へ~この人物はこの部隊の所属なのだな」と楽しみながら照会が出来た、良い週末でしたね。