戊辰北越戦争にて米沢藩総督、後には同盟軍総督をも勤めた米沢藩家老の千坂高雅。戊辰北越戦争の同盟軍と言えば司馬遼太郎著の「小説」の影響により、長岡藩が重視されがちですけれども、同盟軍の北越戦線で最大の兵力を有した米沢藩こそ、北越戦線での同盟軍の主力ではないかと言う考えから当サイトの北越戦争の記事を書かせて頂いています。そのように米沢藩の重視した、当サイトの北越戦争の記事ですけれども、その米沢藩の総督を勤めた千坂高雅に関しては厳しい評価をしています。これは後世から見た傲慢かもしれないものの、どうしても千坂の戦略手腕が拙いものに見えてしまうので、千坂に対しては辛口な評価になってしまいした。
しかし最近この千坂に対する厳しい評価を見直そうかと思っています、北越戦争当時千坂は27歳の若輩に過ぎず、また軍事の専門教育を受けていませんでした。このような軍事の専門家でもない27歳の若者に過ぎない身で、一時は新政府軍と膠着状態に持ち込めたと言うのは、それは賞賛に値するのではないかと思い始めています(まあ新政府軍を率いた山県有朋の消極的戦略が大きいと言う声もあるかもしれませんが)。北越戦争の記事を書いた時は私も若かったので、千坂の年齢に配慮せずにあのような酷評をしたものの、年齢から考えれば千坂の北越戦争時の姿勢は十分賞賛に値するのではないでしょうか。少なくとも自分の27歳時を考えれば、27歳で同盟軍を引きいて新政府軍と戦った千坂はやはり非凡な人物だったと言えましょう(全藩士銃兵化の提言などは慧眼だと思いますし)。
今は仕事の合間に野州戦争の記事を書こうとしている最中ですけれども、落ち着いたらもう一度北越戦争の記事を書き直して、千坂の評価も改めたいなと思っています。
・・・と、若さ故の未熟と言う視点から千坂の評価を改めたいと書きましたけれども、同じ戊辰戦争では若くても優れた手腕を発揮した人物も多いのですよね。ざっと思い出しても二十代で活躍した人間としては、長州の山田顕義(戊辰時24歳)、薩摩の大山巌(同26歳)、土佐の板垣退助(同29歳)、庄内の酒井玄蕃 (同24歳)、桑名の立見尚文(同23歳)が挙げられます。このように二十代で活躍した人物は結構居るのですよね(大鳥軍の瀧川充太郎に至っては18歳!)。う~んそう考えると若さだけで千坂を擁護するのは難しいかしら(汗) まあ個人的には勝ち目の無い戦争に自藩を導いた、会津藩家老の梶原平馬(同26歳))よりかは、まだ千坂の方が有能だと思うのですが・・・。