歴声庵

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米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その2

2009年09月06日 18時22分45秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先月コピーしてきた『上杉家御年譜』と『史談会速記録』をようやく読む事が出来ました。その1で書いた通り、戊辰戦争における米沢藩の参戦理由は、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」の裏付けを取りたくてコピーしてきた物です。残念ながら裏付ける決定的な記述は無かったものの、中々興味深い記述がありました。
 まず両書とも軍政府との具体的な記述はなかったものの、慶応四年四月五日に千坂高雅が軍務総督、甘粕継成が軍務参謀に任命されたのは間違いないようで、この二人を中核に軍政府が組織された模様です。この軍政府は『史談会速記録』の千坂の言によると、藩内若手の俊英(もっとも三手組以上の身分に限られると思いますが)によって構成されたらしく、この若手達が半ば暴走して開戦を主導したとのニュアンスが書かれています。これだけで断定するのは危険かもしれないものの、当事者である千坂の回想録と言う、一次史料に書かれた記述ですので、信憑性は高いのではないでしょうか。
 『史談会速記録』記載の千坂の口述筆記によれば、千坂が出羽に出兵中に色部長門(家老)・中条豊前(二の手大隊長)・若林作兵衛(中老)・小林五兵衛(御勘定頭)・甘粕継成(軍務参謀)・斉藤篤信(小隊長、後に仮参謀)が越後出兵を決定したと書かれています。この内、後の行動から考えると色部と若林が開戦を主張したとは思えません(むしろ二人とも非戦派)。小林に関しては他の史料では名前を見ないので判らないもの、少なくても主戦派として名前を聞かないので、実質開戦を主張したのは甘粕・中条・斉藤の三人ではないかと思っています。実際この三人は北越戦争で指揮官として勇戦しているので、千坂の言う若手の主戦派とはこの三人ではないでしょうか? もっとも若手と言っても中条と斉藤は千坂より年長なので、やはり開戦を主導した若手と言うのは甘粕のみを差しているのかもしれません。
 このように「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」に関しての裏付けは取れなかったものの、今回『史談会速記録』を読んで思ったのが、千坂が甘粕を快く思っていなかったのでは?の疑念です。総督の千坂からすれば、参謀の甘粕は片腕であり、甘粕に関しての記述が多くても良さそうなのに、甘粕についての記述は少なく、あったとしても否定的なニュアンスが多いのですよね。特に千坂の言によれば七月二日に行われた米沢藩単独の総攻撃は、千坂の許可を取らずに甘粕が独断で行ったそうで、この甘粕の独断による攻撃のせいで米沢藩は甚大な損害を受け、後の行動に支障をきたしたと憤っています。これも千坂が責任を甘粕に負わせた可能性はあるかもしれないので鵜呑みは出来ないものの、千坂の甘粕に対する否定的なニュアンスも考えれば、甘粕が千坂を無視して独断専行の気があったのは可能性が高く、その最大のものが新政府軍との開戦だったのではないでしょうか。

 以上、「甘粕継成が主導する軍政府が新政府軍との開戦を主導した」の裏付けは今後も行いと思いますけれども、今後は千坂と甘粕の関係と言うのも合わせて調べていきたいと思います。
 尚、前述の千坂の不在時に色部・若林・中条・小林・甘粕・斉藤等が越後出兵を決めた理由が、会津藩が越後で乱暴狼藉を働いているので、苦しめられている越後の民衆の救う為と言う口実を挙げていたのが興味深かったです。