会津史談会の会報「歴史春秋』に収録されている論文です。友人の掲示板で話題になっていたので読んでみました。読んだ感想を簡潔に纏めると、「自身の専門分野の部分は流石に良く纏められているものの、欲をかいたのか自身の専門分野以外にも手を伸ばしたが、研究不足の点が目立ち、結果良質な筈の自身の専門分野の功績も薄まってしまった」と言うのが正直な感想です。
本論文は、未だに誤解されている「戊辰会津戦争後、会津藩士の死体は新政府軍によって埋葬を禁止され、野ざらしにされた」と言う、小説家やホラ吹きが作った俗説を、史料を用いて誤りを正していくと言う内容です。このように本題は「会津戦争後の遺体埋葬問題」なのですが、その本題にたどり着く前に各地の戊辰戦争の(反新政府勢力の)遺体埋葬状況はどうだったかを解説してから、本題に入る形式です。
本人が長年温めてきたと述べるとおり、確かに本題の会津戦争については、著者が拘る一次史料を駆使して、ボリュームのある内容になっています。しかし問題がその本題に至る前の、各地の戊辰戦争での遺体埋葬状況の説明では、会津戦争での説明と比べると調査が雑な部分が目立ちます。私が知る限り、著者は会津戦争に関しては造詣が深くても、他の戦線は専門外ではなかったのではないでしょうか。どうも本論文は既存研究と差別化を図る為に、欲をかいたのか会津以外の遺体埋葬状況までも手を広げたが、他の戦線の調査のクオリティが、会津の調査のクオリティと比べると、あまりにも見劣りしてしまう物でした。
私は上野戦争や白河城攻防戦については詳しくないので、話を北越戦争と野州戦争の記述について限定させて頂きますが、まず指摘したいのは双方とも読み込む史料が少な過ぎます。まず北越戦争については、驚くべき事に稲川明雄氏編纂の『北越戦争史料集』一冊だけで、北越戦争の遺体埋葬問題を言い切ってしまっています。確かに稲川氏は北越戦争研究の一人者ですが、稲川氏の本だけで北越戦争を研究したように語ってしまうのは乱暴と言わざるをえません。諫言すれば稲川氏の知らない遺体埋葬状況があるのに、さも北越戦争の遺体埋葬状況はこうだったと断言してしまっているのですよね。
まず伊藤氏が書いているとおり、確かに北越戦争は「泥と血」の戦いでしょう。ただ八丁沖(西部)戦線は、湿地帯の中に浮かんだ集落を巡っての戦いであり、湿地帯に埋葬がされなかったのは当然で、現地を訪れてみれば湿地帯の集落内に同盟軍が埋葬された地が複数残っています(代表的なのは旧大黒村の西照寺)。そのような意味では「最前線では戦死者の供養や墓碑建立は出来なかった」との主張は誤りで、稲川氏の研究に依存している弊害の表れと指摘します。そして稲川氏が長岡藩研究の第一人者である反面、米沢藩の研究にはそれほど踏み込んでいないので、本論文では梨ノ木峠や榎木峠での米沢藩士の墓所に触れる事が出来ず、結果「最前線では戦死者の供養や墓碑建立は出来なかった」との史実に反している記述をする事になっています。
尚、上記の間違いはともかく、私が許せなかったのは「北越在住の方々が当時の古文書を所有している事が多いという。しかし在住の方々が当時の古文書を殆ど公開してくれないのが現実だ」との記述です。これは事実に反し、現在在住の方々に対する侮辱だと言わざるを得ません。何故なら私自身が旧今町宿・旧見附村・旧大黒村を訪問した際は、地元の方に親切に対応をして頂き、何件かは古文書も見せて頂いたからです。もし著者が本当に新潟県を訪れて、地元の方に古文書の観覧を断られたのなら、それは著者の態度に問題があっただけに過ぎません。そして自身は新潟県を訪れず、稲川氏の記述を鵜呑みにして地元の方を誹謗したのなら、もはや言語道断です。
続いて野州戦争について、こちらも北越戦争同様に読み込む史料の数が少な過ぎます。確かに著者が拘る一次史料を読まれていますが、二冊だけで野州戦争を語ってしまうのはナンセンスです。そしてその二冊が共に土佐側の史料なので、土佐の知らない遺体埋葬状況を知らずに断言してしまった為、こちらでも史実と異なる記述がされています。著者は戦死者の数に比して、宇都宮周辺の戦死者の埋葬地が六道ノ辻にしかないと書かれていますが、まず第二次意宇都宮城攻防戦で戦死された兵士達は日光で埋葬された者も多く、宇都宮周辺に埋葬されてないからと言って、埋葬されていないと考えるのは短絡的と批判させて頂きます。何より宇都宮は太平洋戦争で空襲されており、この空襲での消失と、その後復興の区画整理で損失した埋葬地の存在を忘れているのではないかと指摘します。例えば宇都宮正行寺には三十人近い会津藩士戦死者の過去帳が残っていますが、墓石自体は区画整理で損失しています。このような遺体埋葬問題のようなデリケートな問題を調べるのなら、その時代だけではなく、その後の歴史について調べる配慮も欲しいものです。
以上、主に北越戦争と野州戦争での著者の記述について批判させて頂きましたが、冒頭に書いたとおり著者が書きたかったメインテーマと言うべき会津戦争での遺体埋葬問題については多くの史料を駆使し、流石と言うべき内容なのは著者の名誉として明記させて頂きます。だからこそ自身の専門分野に特化した論文にしておけば良かったのに、欲をかいたのか自分の専門分野以外にも手を広げ、それらが自身の専門分野と比べてクオリティが低くなってしまったのは残念と言わざるを得ません。会津だけに専念しておけば優れた論文だったのに勿体無い・・・。
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おりますよ。湿地帯に埋葬がされたという口伝
もありますが。地元に方々から色々と伺っています。戦の最中、遺体を埋葬するのが困難であるということは、2枚めくった大内での記録文
に書きました。そこを読まば理解できるかと
思いますが、自軍に有利な場合は埋葬が出来たのです。これは、至る所で述べました。古文書を非公開とする人は、日本各地にいることは避けられない事実です。野州で新政府軍の方からの史料だと如何なることを命じたかがわかるでしょう。宇都宮で何故に1カ所か。地元の者や
同じ部隊によって埋葬されたのは史実です。しかし、何年に建てられたのかを最後の方と比較すると理由もわかるでしょう。会津以外でも遺体埋葬令が出ていた東大の史料を引用掲載しました。会津のみ述べてるよりも全国でのことを述べて前座とする必要性はあるものです。日本各地で埋葬禁止令があったと思われている方が多いのですから。 最後の文の上2行は、どうもです。