【きょうの人】 0324 ■ ある女性社長の会社 ■ 西郷 頼母 幕末の会津藩家老
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ ある女性社長の会社
横浜市の郊外にある会社を訪問しました。社長さん以下従業員は全員女性です。私が訪問する相手は、その会社の社長さんですが、玄関にわざわざ出迎えに来てくれました。
私が入室するとそこにいた全社員十数人が一斉に起立して私に挨拶をしてくれました。これまでたくさんの企業を訪問しましたが、廊下ですれ違ったり、視線が合ったりすると黙礼をするなどの挨拶を受けることがありましたが、このようなことははじめての経験です。
幸い頼み事はスムーズに進み、社員の方々の気持ちよい応対で気分良く協会事務所に戻ることができました。
■ 西郷 頼母 幕末の合図藩家老
さいごう たのも
文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 明治36年(1903年)4月28日)
江戸時代後期(幕末)の会津藩の家老で、諱は近悳(ちかのり)です。明治維新後は、保科 頼母(ほしな たのも)と改名し、号を栖雲、または酔月とし、晩年は八握髯翁とも号しました。
会津藩家老・西郷近思の子として生まれました。会津藩の家老は世襲制で、身分意識が強く、会津の名門九家の門閥しか家老に就くことが許されませんでした。また、「ならぬものはならぬのです」という教えによって、身分が低くても優秀であれば出世できるということが許されなかったのです。
万延元年(1860年)、家督と家老職(家禄1,700石)を継いで藩主・松平容保に仕えました。
藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、隆盛の怒りを買っています。また、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説くなど、隆盛の考え方の異なるところが多かったようです。
戊辰戦争の後の新政府から、頼母等の初景を命ぜられますと、反旗を翻し、結局新政府軍に囲まれてしまいました。
会津から逃げ延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦い続けましたが、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなりました。
明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で、74歳で死去、墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にあります。
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【 注 】
【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。