【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 5 福田商事のCI戦略
その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。
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1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
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◆5章 中小企業を育てる
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◆5-5 福田商事のCI戦略
アテンド客のひとり、北野原はケント光学という福田商事とは付き合いの長いメーカーである。北野原にはニューヨーク着任前に何かとお世話になっていた。
昼間は日曜であることから、彼のたっての願いと言うほどではないが、楽しみにしていたという自然博物館に連れて行ったが、それが嬉しかったようである。
夜になると、また酒の席に下戸である竹根は引っ張り出された。幸い、北野原は酒の強要はしないが、その後アメリカ詣でに来るたくさんの人に悩まされることになる。アメリカでは、酔って汚物を出したりすると罰金をとられるので気を遣う。酒飲みに対して寛大な日本と大きな違いの一つである。
その日の北野原は、福田商事が企業イメージ戦略の一つであるCIの一環として、それまで技術者に慣れ親しまれてきたKENTブランドが使われなくなる。北野原は、社名にケントと入れているだけに、残念な気持ちが強いようである。竹根は、せっかく確立したブランドを捨てることはもったいないと思う程度で、北野原のようなこだわりはない。子会社の意向を無視した福田商事のやり方が不満なようで、北野原は少々荒れた。
因みにCIとはCorporate Identityといって、企業イメージ高揚のためのマーケティング戦略の一つである。社名をカタカタ文字に変える企業が出たのもこの時期に多い。社名が変わるとその経済効果は大きい。CIを実施した企業側は、印刷物をはじめいろいろなところにコストがかかるが、印刷業界、建築装飾業界など多くを享受できた。CI実施企業にとっては、メリットはばらつきがあった。
福田商事は、社名を変更することはなかったが、ブランドはすべて「FUKUDA」ブランドに統一され、それまで理化学機器や製図機器関連はケント、事務機器関連はオリエントを使っていたが、それらは一切使わなくなった。
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翌日の月曜日は、午前中は事務所で手紙や本社関連の事務処理をした。本社の相本が送ってくれたであろう手紙について、各担当者に返事を書いた。北野原を待たせているだけに、急いで書くこともあり、書き損じが出て、かえって時間がかかってしまったかもしれない。北野原は、近くの五番街を廻ってきたとかで、高島屋のニューヨーク店があまりにも小さいのでがっかりしたとか、タイムズスクエアあたりのブロードウェイは、彼がかつて滞在していた頃とあまり変わっていないとか言っていた。高島屋が小さい店構えであったのは、それが、日本の国力の実情だろうと、北野原は自分を慰めていた。
二人で事務所裏にあるコーヒーショップに入った。
「社長、私がアメリカに来る時の飛行機の中で、ジュースがおいしかったのが非常に印象的だったんです。そのときに、アメリカ人は、毎日こんなうまいものを食べているのかと、うらやましくさえ思いました」
アメリカ生活の経験がある北野原には、竹根が言いたいことが解ったらしく、ニヤリとした。
「ニューヨークで生活するようになって、アメリカの食事をするようになるとすぐ、『よくアメリカ人はこのようなまずいものばかりを毎日食べていられるな』と思うほど、なかなかうまい料理にありつけませんね」
北野原、頷きながら笑っている。
「わらじステーキは、肉ではないよな」
竹根がニューヨークに来てまもなくの頃、近くのステーキ屋に入った。丁度わらじのような大きさと形をしたTボーンステーキが二、三ドルで食べられた。値段が安い分、わらじをかじるような歯ごたえのある肉である。
<続く>