一般の人の業績評価をここでは意味しない。私の関心のある武谷三男の業績評価ということである。
まだ全く彼の伝記の作成とかには取りかかれてはいないし、これからも取りかかれることになるのかもすらもわからない。だが、どのように取り扱ったらいいのかについては今まで少し考えてきた。
それでいま現代の科学思想の中で取り扱うのがいいのではないかと密かに思い出している。
すでにここでも触れたことがあるが、高木仁三郎氏が原子力調査室に関わるようになったときに武谷との論争があった。考えの違いが明瞭にあったのだが、そういうことを主眼にした描き方がいいのではないかということである。
私はまだ高木のように徹底した立場に立つことはできていないが、彼に代表される考え方を無視することはできないだろう。
しかし、もっと広く現代の哲学思想の中での位置づけも考えるのがよりいいのではないかと密かに思い出した。これは私が勝手に思っているだけで、もしこのような考えに沿って私以外の方が同様な思考と論理を展開されるのはかまわない。
武谷の生涯の、時代に沿った伝記的な研究はすでに地道な研究が N さんによって始められている。それに科学史学会でもぽつぽつと研究発表は数人の方々からされているようである。その内容はよくは知らないが、それらが大きなものになっていくのかどうか。
それからまだなお、しなくてはいけないのは資料の整備である。私は「武谷著作目録」と「論文リスト」をつくった。著作目録の第3版はwikepdiaの武谷三男の項目の参考文献にもなっているが、また改定をしなくてはいけない段階になっている。
それに実は以前から思いながらまったくできてはいないのだが、雑誌や新聞に武谷が投稿した論文やエッセイのリスト作りはまだ全くできていない。
しかし、こういう仕事はすでに誰かがしてもいいはずだが、されていない。地道な仕事の評価が低いからであろうか。
まだ全く彼の伝記の作成とかには取りかかれてはいないし、これからも取りかかれることになるのかもすらもわからない。だが、どのように取り扱ったらいいのかについては今まで少し考えてきた。
それでいま現代の科学思想の中で取り扱うのがいいのではないかと密かに思い出している。
すでにここでも触れたことがあるが、高木仁三郎氏が原子力調査室に関わるようになったときに武谷との論争があった。考えの違いが明瞭にあったのだが、そういうことを主眼にした描き方がいいのではないかということである。
私はまだ高木のように徹底した立場に立つことはできていないが、彼に代表される考え方を無視することはできないだろう。
しかし、もっと広く現代の哲学思想の中での位置づけも考えるのがよりいいのではないかと密かに思い出した。これは私が勝手に思っているだけで、もしこのような考えに沿って私以外の方が同様な思考と論理を展開されるのはかまわない。
武谷の生涯の、時代に沿った伝記的な研究はすでに地道な研究が N さんによって始められている。それに科学史学会でもぽつぽつと研究発表は数人の方々からされているようである。その内容はよくは知らないが、それらが大きなものになっていくのかどうか。
それからまだなお、しなくてはいけないのは資料の整備である。私は「武谷著作目録」と「論文リスト」をつくった。著作目録の第3版はwikepdiaの武谷三男の項目の参考文献にもなっているが、また改定をしなくてはいけない段階になっている。
それに実は以前から思いながらまったくできてはいないのだが、雑誌や新聞に武谷が投稿した論文やエッセイのリスト作りはまだ全くできていない。
しかし、こういう仕事はすでに誰かがしてもいいはずだが、されていない。地道な仕事の評価が低いからであろうか。