今朝起きてくると、妻が「鶴見さんが亡くなったよ」と知らせてくれた。悲しい知らせである。
鶴見さんと知り合うようになったのは私が武谷三男の論文リストや著作リストをつくってその別刷を送ったことからである。
鶴見さんの武谷さんに対する信頼は大きかった。これは彼によると当然でもあろうか。鶴見さんといえばもちろん雑誌『思想の科学』の創始者であり、およそ50年にわたって発行人兼編集人を務めて来られた。
もちろん、鶴見俊輔の業績は『思想の科学』の発行だけではなかろうが、それでも鶴見俊輔の名を不動にした大半はこの『思想の科学』と『転向の研究』によるであろう。
お姉さんの鶴見和子さんが弟の俊輔さんのためにお父さんの祐輔さんに頼んで『思想の科学』がはじまったのは間違いがなかろうが、それでもこの和子さんのお考えで『思想の科学』は廃刊の危機にあった。
だが、それに反対されたのは武谷さんであった。日本共産党がしっかりしてきたので、もう『思想の科学』はいらなくなったのではないかとの和子さんの意見に対して、一つくらい日本共産党とは独立なリベラルな雑誌があってもいいのではないかという意見を武谷さんが述べられた。
それで『思想の科学』は廃刊を免れた。これには鶴見さんは生涯恩義を感じていたであろう。鶴見さんは近代的な自由で独立した精神と義理がたい魂をもたれた方であった。
そういうこともあってか、いつか私のその当時所属していた団体が京都で集会を開いたときに少額の講演料を承知で講演を引き受けて下さった。鶴見さんがどれくらい優れた方なのかは私を含めた集会の参加者はだれもが理解をしていなかったと思うが、それでも鶴見さんの一言、二言から多くの人がこの哲学者の生き方に感銘を受けた。それは言葉で表される以上のものが、おのずから体からあふれているからである。
その数年後であったが、松山で「九条をまもる会」の総会での講演をお願いしたところ、快諾をされて松山まで来てくださった。
お姉さんの和子さんがもう余命いくばくかもないといわれていた頃であり、ひょっとすると途中で急遽京都に帰られるかも知れないという状況ではあったが、松山大学であった講演会は満員の盛況であり、立ち見こそ出なかったが、階段教室の階段に座って、講演を聞いた若い学生もたくさんおられた。
はじめJRで京都まで帰られるという予定だったが、大阪まで飛行機で帰られることに予定を変更されたので、松山空港まで妻の車でお送りして別れた。それが生前に直接に接した最後の機会であった。その後もテレビ等で九条をまもる会の講演会の報道等をお見かけしたけれども。
ご冥福をお祈りしたい。
鶴見さんについては細かな配慮をされる方であり、そのことについては別の機会に述べてみたい。
鶴見さんと知り合うようになったのは私が武谷三男の論文リストや著作リストをつくってその別刷を送ったことからである。
鶴見さんの武谷さんに対する信頼は大きかった。これは彼によると当然でもあろうか。鶴見さんといえばもちろん雑誌『思想の科学』の創始者であり、およそ50年にわたって発行人兼編集人を務めて来られた。
もちろん、鶴見俊輔の業績は『思想の科学』の発行だけではなかろうが、それでも鶴見俊輔の名を不動にした大半はこの『思想の科学』と『転向の研究』によるであろう。
お姉さんの鶴見和子さんが弟の俊輔さんのためにお父さんの祐輔さんに頼んで『思想の科学』がはじまったのは間違いがなかろうが、それでもこの和子さんのお考えで『思想の科学』は廃刊の危機にあった。
だが、それに反対されたのは武谷さんであった。日本共産党がしっかりしてきたので、もう『思想の科学』はいらなくなったのではないかとの和子さんの意見に対して、一つくらい日本共産党とは独立なリベラルな雑誌があってもいいのではないかという意見を武谷さんが述べられた。
それで『思想の科学』は廃刊を免れた。これには鶴見さんは生涯恩義を感じていたであろう。鶴見さんは近代的な自由で独立した精神と義理がたい魂をもたれた方であった。
そういうこともあってか、いつか私のその当時所属していた団体が京都で集会を開いたときに少額の講演料を承知で講演を引き受けて下さった。鶴見さんがどれくらい優れた方なのかは私を含めた集会の参加者はだれもが理解をしていなかったと思うが、それでも鶴見さんの一言、二言から多くの人がこの哲学者の生き方に感銘を受けた。それは言葉で表される以上のものが、おのずから体からあふれているからである。
その数年後であったが、松山で「九条をまもる会」の総会での講演をお願いしたところ、快諾をされて松山まで来てくださった。
お姉さんの和子さんがもう余命いくばくかもないといわれていた頃であり、ひょっとすると途中で急遽京都に帰られるかも知れないという状況ではあったが、松山大学であった講演会は満員の盛況であり、立ち見こそ出なかったが、階段教室の階段に座って、講演を聞いた若い学生もたくさんおられた。
はじめJRで京都まで帰られるという予定だったが、大阪まで飛行機で帰られることに予定を変更されたので、松山空港まで妻の車でお送りして別れた。それが生前に直接に接した最後の機会であった。その後もテレビ等で九条をまもる会の講演会の報道等をお見かけしたけれども。
ご冥福をお祈りしたい。
鶴見さんについては細かな配慮をされる方であり、そのことについては別の機会に述べてみたい。