瀬戸内寂聴と作家の故井上光晴、その妻をモデルにした小説。
この作品が出るまで、瀬戸内師と井上光晴が付き合ってたこと知らなかったし、三角関係の本、年末年始にどうよと思いつつも今朝読了。
うんうん、なかなか面白かったですよ。本来なら修羅場になる筈のところを二人の聡明な女性は、相手を否定することなく、男を間に挟んで、間接的に向かい合う。どちらも自分一人のものにできないと初めから分かっていて、それぞれのやり方で愛し合う。
女流作家は単なる男女の間柄以上に、文学を分かり合える同士として。妻は夫の作家業を支え、家を守り、そこに自分のプライドを置いて。
男は純文学の(あまり売れない)作品を書き、やがて各地に文学学校を開設する。作家が主催する文学同好者の勉強会のようなものだったらしい。
文学水軍と小説の中ではあるけれど、その文学伝習所の名前も私は記憶にある。エネルギッシュな人だなとその時は思ったけど、そこに集まる女性にも手を付けていたなんて、呆れたけど半ば納得。この小説の中の男ならやりかねん。
女性に、自分の文学論を披歴して、外国の作家の名前など出して、あなたは自分の生き方を見つめなおさないといい作品書けないとか、懇親会の席でそんなこと言う男が全国津々浦々、いったい何人いたことか(いや、今でもどこかに生息しているかもしれないけど)
下心あった人、なかった人、ややこしいことになった人、ならなかった人、文学と言う言葉の持つ独特のいかがわしさはそこらあたりから来ているのでしょうか。
そのややこしいことの中に人間の本性が現れる。
小説の中の瀬戸内師は愛することに貪欲で、却ってすがすがしい。ご高齢なのもその生命力のなせる業か。
しかし、男も妻もがんでこの世を去る。転移を繰り返しながら、それでも手術をあきらめない男の最後が哀れである。若い時なら平気で読めた死に行く人の描写も、この年になると、ひりひりとした痛みなしには読み切れない。死が昔よりは身近な年齢になったからだろう。
愛することは切ない。その切ない時間を受け入れること。しかし、人を愛さないよりはずっとまし。そんなことを思った。