美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百六)

2017年09月13日 | 偽書物の話

   ジキル博士とハイド氏の怪奇譚を連想させる、かすかに湿っ気た臭いがしないこともないが、水鶏氏の語っているのが多重な人格のことでないのは、門外の私にも容易に理解できる。自心とは現世界の実在とその認識になくてならない根基であって、人格という、いわば具体にイメージされる個性の色相ではないのである。
   「黒い本に馴染む以前には、書物論の突端にある岩角に爪先立って遠景を望むことができました。現世界が書物の告げ知らせる別世界を自らの集合世界の一要素とし、次いで、そうした振舞いを客体化(対象化)することで現世界の自心が更なる複層の実在を得心して行くという、彼方の景色が霞なく見晴らせたものですがね。」
   黒い本を帯同して帰ろうと、私はそわそわし出していた。書物論の行文が今後幾ばくかの効験を現わす真言であれば、純一にありがたいで済むのだが、そこでおさまることなく、一つならず複数出現する書物の自心と実地に触突した水鶏氏の驚駭は察するに余りある。その驚駭を糧にして、ますます張り切る水鶏氏の志操の勁さに気圧されて、小人たる私は唖然と佇むのが精いっぱいである。ただでさえ水鶏氏は、現世界に憑いている開闢由来の妖かしや一斑の数学的不完全性を敢えて留保して、芝居がかった懊悩に煩わされない用心を怠っていなかった。それなのに、この期に及んで黒い本が甘言を弄し、捨て置けない歪みを書物論に投入したとなると、黒い本の送り主は申し開きのしようがないのである。せめては水鶏氏の白熱する思考の鍋から、焼け石と化した偽書物を取り除けるのが私に課せられた目下の責務であろう。

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