美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(百七)

2017年09月20日 | 偽書物の話

   タイミングをどう見計らって熱鍋に手を突っ込んだらいいか思い巡らしたが、小手先の軽挙は禁物である。潮が満ちたと自然に感じられる、その時に切り出せばいいのだと居直った。曲のない処し方はいつものことだが、水鶏氏の棹さす流れを無作法に堰き止めて、火急に偽書物を回収するまでの事態ではない。いっとき理外の別世界に遊び、果然、書物に複数ある自心の存在を推度した水鶏氏は、初めに書物の文字が語る別世界に重ねて、理外の別世界も編み込まれて形成される現世界の複層を、新機軸の解析を案出して究めたいと勇躍している。ひがみ根性の染みついた私如きが立ち入れない境地にある水鶏氏は、仕掛けられた落し穴に嵌ったとは毛筋ほども思わないのである。
   驚駭する自らの魂の姿をためらいなく客体に捉え、擁する書物と観想する自心とで彼我の集合世界を照り交わして、書物論の再建へ挑んで行くのが水鶏氏の真面目である。真摯な汗の賜物に、蒐集した後も長く埃をかぶって忘れられた書物から、未開封の秘教的黙示を受け取る幸運に恵まれることがないとは言えない。私にしても、水鶏氏のためにそのことあるを願わずにはおれない。的を射た応答はさして期待されず、差し向き思弁の言葉を並べて出来不出来を吟味する仮置場に私がなっているのであれば、掛け値なしで身に余る光栄である。
   「書物論の突端と、そこから眺望される遠景に越えられない距たりがあって構わないのではないですか。まずは書物を論じて複層の世界への道脈を卜するのが先生の立論手法ですから、書物の境域を遠く離れた彼方の全貌が霞んで見えなくとも、文句をつける人はいません。」

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