美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

文学作品は立派な商品でもある(『大波小波』で文学などを語る人)

2009年08月01日 | 瓶詰の古本

   七月三十一日付け東京新聞『大波小波』欄執筆の“文学解体業者”によると、「経験的に知るところでは、百万部、二百万部も売れた本なんか、もう文学とは関係ない。文学とは、そもそもそういうものである。村上はせいぜい十万部しか売れなくても、彼の最高と評価されるような作品を今後書いていけるのか」だそうだ。村上春樹の「1Q84」を論じての言説だが、作品が文学と繋がっているかいないかは、本の売れ行きによって結果的に判別できるものとは知らなんだ。結果的にという余計な付け足しをしてみたものの、相変わらずこの文章がなにを言っているのかさっぱり解らない。
   小説といい詩歌といい、新たな文学の魂が文章に宿ったとき、作品として産み落とされるのではないのか。たくさん売れるような仕掛けの小説は文学ではない、少数の選ばれた読者にのみ支持される小説が文学なのだとでも言わんばかりの、俗臭芬々たる迷論を押し付けられ、「経験的に知るところでは」などという無意味な言葉でもてあそばれるとは、文学もなめられたものだ。迂闊にも知らなかったが、文学にとって本当に不幸な時代になっていたのだ。
   空前の新理論によるならば、文学と文学ならざるものとを峻別するものとして売り上げ部数という指標があるようなので、その臨界部数とは幾許であるのか、先ず具体的な数値を挙げて根拠を論じるのが礼儀だろう。それ以前に、昨今、小説が十万部も売れたら「せいぜい」と評価されることはないと思うが。
   売れない小説こそ文学的に尊いとする心性は、売れる小説こそ文学的に本物だとする心性と同じ幹に咲く異なる花に過ぎない。いくら匿名批評欄であるにせよ、「経験的に知るところでは」「そもそもそういうものである」といった空疎な文字を晒して飽き足らず、文学にまで言い及ぼうとする不遜な心性には、人はひっそりと文学的精神の種子を懐いているという事実を感得することは永劫にできない。

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