余は又ごろりと寝ころんだ。忽ち心に浮んだのは、
Sadder than is the moon’s lost light,
Lost ere the kindling of dawn,
To travellers journeying on,
The shutting of thy fair face from
my sight.
と云ふ句であつた。もし余があの銀杏返しに懸想して、身を碎いても逢はんと思ふ矢先に、今の様な一瞥の別れを、魂消ゆる迄に、嬉しとも、口惜しとも感じたら、余は必ずこんな意味をこんな詩に作るだらう。其上に
Might I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.
と云ふ二句さへ、附け加へたかも知れぬ。幸ひ、普通ありふれた、恋とか愛とか云ふ境界は既に通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。然し今の刹那に起つた出来事の詩趣はゆたかに、此五六行にあらはれて居る。余と銀杏返しの間柄にこんな切ない思ひはないとしても、二人の今の関係を、此詩の中に適用めて見るのは面白い。或は此詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。二人の間には、ある因果の細い糸で、此詩にあらはれた境遇の一部分が、事実となつて、括りつけられて居る。因果も此位糸が細いと苦にはならぬ。其上、只の糸ではない。空を横切る虹の糸、野辺に棚引く霞の糸、露にかゞやく蜘蛛の糸、切らうとすれば、すぐ切れて、見て居るうちは勝れてうつくしい。万一此糸が見る間に太くなつて井戸縄の様にかたくなつたら?そんな危険はない。余は画工である。先は只の女とは違ふ。
(「草枕」 夏目漱石)
夜かけて旅する人に
あかつきの光見ぬ前
月影の薄れ落ちたる
悲しみに增せる悲しみ!
いとほしの御身が面輪の
わが眼より今ぞ消え行く。
あはれ一目御身を見てこそ
心行きて息をも引かめ、
かゝりては誰丈夫の
たらはひて天を仰ぎし。
あゝバナヴァー
執着の貴きものよ
わが息の命ぞ御身は、
わが額の油ぞ御身は、
廣野かけてわが乗る行手
芳しきかをりなりしを、
わが手の力、わが脈の血を。
(「シャグパットの毛剃」 ジヨオジ・メレディス著 皆川正禧譯)