平岡正明の本を、二冊ともいつも手の届くところに置いてあると言いながら、すぐ近くに「風太郎はこう読め」の一冊があるのを、すっかり忘れていた。珍しく古本屋の包装紙でカバーをかけて本棚に突っ込んだきり、何の本とも分らぬままに影を失ってしまっていたのだ。ぱらぱらと頁を捲れば、確かに一度は読んだような気がしないでもないが、一言たりとも頭の中に照応する痕跡はない。きれいに拭い去られている。もしかしたら読んでいるという頼りない感覚が、そこはかとなく漂っているだけである。
風太郎忍法を論じて、山田風太郎は『ドグラマグラ』における細胞主体説の継承者であると考えられる、とさらり書き流してあるのも、本の中に次から次へと本が現れるという、あの妖術のほんのさわりに過ぎない。縦横に書物を喚び寄せては面白楽しませる平岡正明手練の奥義は、ここに極まって、読めば読むほど本の面白さを増幅させ、煮え立たせるまでの神域に達してしまっているようだ。
今、この本を拾い読みしていて、惹き付けられる訳はそれだけではないことに気がついた。平岡正明のほかには誰も発明し得ない「あねさん待ちまちルサンチマン」だの「福岡玄洋社のルサンチマン」だのの言葉の節回しに、ボタ山臭い郷愁を強く感じて惹き付けられるのは、それこそ洞海湾に面した工場にいる過去の自分からの、独り心理遺伝が覚醒してくるからなのだと。ことに、部屋の中がこんなに暑いと、コークス工場の屋上掃除の記憶まで引き連れて覚醒してくるからなのだと、その術中にはまったあげくに、たわけたことをほざきたくなってくる。
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