美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

その男の深淵を覗こうともしない市井の徒には髭のことしか語れない(辰野九紫)

2022年02月09日 | 瓶詰の古本

 ところで、身に箔がついて来ると、若いばかりが自慢にはならぬ。
『もう少し俺もエラク見える方がいゝかも知れん。』
 丁度、その時、ある雑誌でヒツトラーのことを読んで、これある哉と思つたさうな。――独逸の国民的崇敬の的となつてゐた英雄ヒンデンブルグ将軍と対立して、今や、日の出の勢ひで自己の縄張を拡大しつゝある彼は、タカの知れた伍長上りのくせに、どこに、あれだけ人気を博する魅力があるのだらうか。…‥彼の唱道する理論だけでは、あんなに大衆が引ずられて来る筈もない。加之に、彼はテンポの速い出世男にあり勝ちな、インチキ性をも多分に有つてゐるではないか。
『うん、さうだ、この髭、この髭! こりやチヤツプリン映画のおツちよこちよいに似て非なるもんぢやア。どことなく、好いたらしい感じがする。』
 日の出ビルの地階にある美髪軒の主人も共鳴した。
『それでこそ、梅田さんも用心棒が一段と上りますよ。』
『ナニ?』
『いや、ヨウボウ、容貌が一段と上りますよ。はゝゝゝゝ……どうも、今まではどことなく、画龍点睛を欠く憾みがありました。』
『何をいつてやんでえ。』
『ほんとです。矢張り髭の本場は独逸ですナ。』
『さうかも知れん。南無妙法蓮華経の髭題目を英語で書くと、独逸文字になるんぢやさうな。』
『成程、さういふ理屈ですかね。ヒツトラーて奴は活動役者ですか。』
『うんにや、偉大なる政治家、まア、この次回の大統領だらう。』
『はゝア、政治家髭ですか。さうすると、日本でも荒木さんにあやからうと思つて、真似をする連中の出て来たのも無理はありませんね。』
『ほゝう、あの大臣独特の髭に追随する人達があるかい。』
『へえ、さう申しちや失礼さんで御座ンすが、床屋の方から遠慮のないことをいはせて頂きますと、ありや旧式なんですけど……』
『それでも、復活する点をみると、将軍の人格も素晴らしいもんぢや。』
『まア、お気をつけて御覧なさい。銀ブラの中でも一人や二人は屹度ゐますから……』
『ふうむ、主人――俺の髭も流行り出すぞ。』
 どうやら、この予言は的中したらしい。

(『丸の内五人男』 辰野九紫)

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