ホトケ(これはヌレボトケ、ガキボトケとかいふやうな複合詞ではボトケとなる)に就いては言ふも不思議な事がある。
ホトケといふ語は仏陀といふ意味である。
ホトケといふ語はまた――死者の霊は立派な生涯を送れば或は仏陀の道に入るか或は仏陀に成るかすると信じられて居るから――死者の霊といふ意味も有つて居る。
そこで婉曲な言ひ方の上から、ホトケといふ語はまた死骸を意味するやうになつた。そこでホトケヅクリといふ動詞は、『物すごい顔をして居る』、死んで長い間経つた人のやうな顔をして居る、といふ意味を有つて居る。
それからホトケサンといふ語は――ホトケサンは『仏様』――眼の瞳子に映つて見える顔の映像に与へてある名前である。法華経の仏世尊ぢや無くして、我々銘々の誰にも住まつて居られるあの小さな仏で――即ち霊で――である。
ロゼッテイは『眺めて我は汝(な)が心、汝(いまし)が眼(まなこ)の影に見ぬ』と歌つた。東洋の思想は正しくその逆である。日本の恋人は『眺めて汝(いまし)が眼の影に、おのが仏を我は見ぬ』と、斯う言つたであらう。
斯んなにも奇妙な信仰に関しての心霊的学説は何んであるか。斯うでもあらうかと自分は思ふ。――『霊』は自己の体内に在つてはいつも目に見えないものであるが、妖術者の鏡に映るが如くに、他人の眼にその姿を映すことは出来る。已が愛する女の眼を凝視してその女の魂を見分けようとしても無益である。その眼には透いて已が魂の影だけ見えるのである。その先きは――『無窮』に達する――神秘あるのみである。
然しこの説は真実では無いか。『自我』は、シヨオペンハウエルが驚嘆すべくも述べて居るやうに、視神経が入つて居る点では眼は盲目なのと正しく同じで、意識の暗黒点である。我々は他人に於てのみ自已を見るのである。他人を通じてのみ我々は我々の如何なるものたるかを朧気に察するのである。そして他の者を最も深く愛して居るといふことに於てつまり自分自身を愛して居るのでは無いか。我々の人格と称するもの、個性と称する者共は、『普遍的実在』の無限無数の震動に他ならぬのでは無いか。我々は総て、不可知的な『究極』にあつて『一体』のものでは無いか。思慮すべからざる過去を有つて居る一つ物では無いか。永遠の未来を有つて居る一つ物では無いか。
(「嶋巡り」 小泉八雲 大谷繞石譯註)