朝日デジタルの記事を読んで考えた。
引用 2016年12月8日17時00分
糖尿病治療のための制限食を「おいしくない」と言って食べず、どんどん衰弱。とうとうお医者様から余命2カ月と診断されるところにまでなってしまいました。それでも母は、いつもの言葉を繰り返しました。
「死んでもいいの。おいしいものしか食べたくないの」
なくなったこの方のお母さんは、医療とは何かとか、あるいはそれ以前に生きるとは何かを僕らに突き付けている。
人は無制限に長く生きたいものか。もしも、無制限に生きたいと考えるのが多数であり正しいのであるのなら、死は絶対いまわしく怖く苦痛であるはずだ。
なんとなくそうだろうな、死ぬのは嫌だもん、と考える多数がいる限り、生命を永らえる仕事をする医師という人間は、みんなの尊敬を集める。ところが、その尊敬たるや昭和の産物であることを人は認識していない。
医者は貧乏だったのである。それが保険診療制度、もっと言うと診療保険点数制度ができたことにより公金による高所得が保証され、それを目当てに医者希望が増え、さらにそれを目当てに医学部定数が増員された。
悲しいのは、医者の声を、患者の生殺与奪の権を持つものと考えている家族は、天の声として聴く。
低能な医者は、その高収入とその低能を根拠に自分が本当に天賦の才能があってそこらの素人より上の人間だと錯覚する。
診察室では猫をかぶっているが、いったん外へ出ると、さて、今日はどこに精子をまくか、フェラーリが早く来ないかな、晩御飯は上海でカニだな…
そんな人間が、「死にたくなかったらこの糖尿職を食え」と患者に言えるか。患者の身にならないから適当なことがいえるのだ。
引用
好きなテレビ番組を見て、好きなものを食べる生活。お餅やうどんが好物でした。私が車いすで連れ出す以外は寝たきりでも、生き生きとしていました。
「死んでもいいの。好きなようにさせて」