か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 52

2019年03月20日 | 韓国

<前回の続き>

3. 植民地近代化論の内容

殖民地近代化論は韓国の経済発展を長期的観点と世界史的視野から分析しようとする特徴を持つ。植民地近代化論の核心的主張は前近代化社会が近代化社会に移行する本質が資本主義の導入と発展であり、韓国は韓国は例え部分的であり歪曲されたものであるとはいえ日本帝国主義の植民地であった時期にこれを経験したというものだ。これは資本主義がすべての社会が近代がに移行にするにあたり「理想的な」進路を取ったという意味ではない。ただ、近代社会の理念としての標準は18世紀以降西ヨーロッパの社会変動であるという。とくに植民地近代化論の立場から資本主義の定番は産業資本主義である。資本主義は「工業主義(industrialism)と不可分な経済体制」であるのだ。資本主義の精神と貨幣市場経済は西ヨーロッパだけの特権ではなかった。しかし、工業主義だけは違った。植民地近代化論が韓国史の資本主義萌芽論を拒否するわけもまさにここにある。西欧以外のすべての地域の産業化はその地で発明されたものではなく外から輸入されたものである。韓国の場合も決して例外ではない。


韓国は日本帝国主義の植民地であった時期に西ヨーロッパが長期間の移行過程を経て成し遂げた近代資本主義を完全に外来的な形態で、しかし逆説的には最も先進的な形態で発展させた。植民地初期の日帝は近代的官僚国家を構築することで「外からの近代化」のための制度的基盤を準備した。また、土地調査事業の実施を通じ近代的所有関係を確立した。また教育制度や財政金融制度合わせて交通通信施設のような各種社会基盤資本も積極的に育成した。もちろんこのような処置は経済的収奪を目的にしたものに違いはないが、その過程で日帝が殖民地に資本主義を意識させたということは否定のしようがない歴史的事実なのである。日帝は韓国をはじめ自身が統治していた植民地諸国のすべてを動員して近代化させるという発展戦略を樹立していたからである。


植民統治初期に日帝は会社令の制定と土地調査事業の実施を通じ農業優先政策をすすめたのは事実である。しかし、土地調査事業が終わるや否や会社令を撤廃したし、そのこと自体も収奪的性格だけで決めつけられるものではなかった。最近まで日帝の土地調査は農業収奪であるというのが定説であった。しかし1980年後半以降国内外の研究によると収奪論は実証的な根拠を急速に失いつつある。とくに論争の争点になっている土地申告過程において不法な所有権移転がほとんどなかったのみならず、植民地国家の広大な国有地が創出されたという主張も事実とは異なると判断される。当時韓国の「永久併合」を意図していた日本は韓国で「一発土地詐欺劇」をしかけたのではなく彼ら日本と同一な近代的土地所有制度を創出することで長期的にも持続可能な方法での収奪を準備した。つまり、土地調査事業を契機にして「従来朝鮮社会を支配していた前近代的授受関係に変わり資本主義の論理が新しい授受関係をもたらした」とみることができ、これは土地調査事業が資本主義発展に寄与ということを意味するのである。

 

近代的制度の整備が一段落したのちには植民地資本主義が本格的に発展し始めた。植民地経済は1930年を前後した恐慌期を除いては1911年から1938年まで3.7%の成長を見せた。比較歴史的に見るときこれはこれはきわめて長期持続的な経済成長だった。また1918年から1944年まで進攻した産業構造の変化を見ると、農業生産額の場合には80%から43%に下落したが工業生産は18%から41%に成長した。国内総生産において鉱工業の比重は1911年の4.5%から1938年の18.7%に増加しているし乗数においては同時期において110ヶ所から6590ヶ所へ増えた。また工場労働者数は1931年から1943年の間に8.6万名から36万名に増加したし、労働者全体では1943年まで175万余名に増えた。このことにより1940年代初期に至ると植民地朝鮮の経済発展は先進帝国が近代経済成長で到達した水準に達することができた。

 

<次回用メモ> 식민지 시대 경제성장의 동력은 일본으로부터의 자본유입 から





春のよき日にイタ車イタ飯

2019年03月15日 | 食・レシピ

額に汗して長時間労働にいそしむ過労死予備軍、日本の労働者階級の皆さん。僕は平日のお昼にイタ飯(いためし)をいただきに出かけたのだ。

この頃は間違ってあぶく銭をつかんでいかにも自分が優れているかのような錯覚をして、これ見よがしにあほ車に乗り歌でも詠んでありもしない教養をひけらかしているつもりのバカが増えた。

 

ほんものの教養が身につくと人生が豊かになるが、本来見えなかったものまで見えるようになり悩みも増す。だけど、都合のいいものだけ見るわけにもいかぬ。

どうしても舞い上がったバカ、調子に乗って偏狭な国家主義を吹聴する低能…がいっそう目障りになる。どうすればそんな低能ができあがるのか、だれも何も言ってあげられなかったのか、と。

ま、そんなのに花を持たせるわけにもいかず、日頃から「知」の戦闘にいそしんできたぼくは自分へのご褒美に今週は外飯(そとめし)ウィークと銘打って食堂巡りをすることにした。

 

爾来、巷の極貧層は僕を非難するときよくこの名称を貼った。「プチブル急進主義」 いみじくもその通り。おまいらの顔には「ひがみ劣等感ひねくれ極貧ぐうたら退廃主義」を貼ろう。

そんなバカたちは自分の貧困や無能を認めたがらず、どうしようもなく認めざるを得ないときは頭が悪かったからとか運が悪かったとかとにかく自分という精神主体以外のせいにする。

当然に努力と才能と環境がそろえばだれでも生活や精神に一定のpositionを得る。努力、才能、環境のうち才能や環境は本人の責めに帰さない。しかし、ここはまじめに考えなければならないところだ。

だからこそ残りの一つである努力こそは欠かしてはならぬのだ。

脳細胞がひがみでできている人は話の本筋でもないのにこういう。じゃあ、からけんは相当の努力をしたんだな。僕は答える。人の心配は大きなお世話だ。自分のバカさかげんこそ心配しないと社会にとって不要で有害な人間になるぞ。

 、

ぼくは努力したからこうして美食の報酬を得ているじゃないか。ほんとおいしい話だ。報酬なんてなくともよいが、努力に教養は必ずついてくる。努力しないで言い訳ばかりが上手になりひがんで片田舎で一生を終えた可能性もあったわけで、そう思うと実にぞっとする。

 

そのおいしい話。このレストランは紙のカードに1個/1000円のハンコを押してくれる。妙に電子カードなんかじゃなくて歪んだハンコも何となく人間臭い。ハンコが20個になると800円引いてくれる。ありがたいという本音もすこしある。

これは富裕層たるぼくを狙った店の陰謀だが、あえて引っかかってやることにしている。ウエイトレスの可愛さは関係ない。

国道沿いのブロイラー化した人間用のうるさく下品で汚れた婆が行く外食屋ではなく、文化を担うPetit bourgeoisが行く静かで駐車スペースが広い料理店がある。

労働に追われた下品な民は髪が乱れている、声が大きい、話題が貧困で、見栄ばかり考え、縮小コピーしたしつけしてないガキを連れる。この人たちの関心は価格と量である。

 

品のあるまともな外食業が勝負するときのポイント。

① いかに家庭で出せる味を超越するかにある。そのためにはいかに向上心を持ち続けるかである。というのは、うまいからと言ってイタ飯屋がラーメンを出すはずはない。が、イタ飯の範疇での多様性が問題だ。易しいことではない。この店は一度として同一の料理が定番になったことはない。動機を問わず行きつくポントは努力だ。

ぼくは尊敬している。これほどの発想の自由さ、大胆さはどこから来るのか。調子に乗って舞い上がっているところは早めにやめろ。くさい。 ξ

 

② 素人もまぐれでうまい料理ができたりする。しかしそれを異なる料理で続けることはできない。素人の料理にたとえ100点があっても所詮素人であるわけは、80点であっても決して60点を取らないプロには及ばないからである。

たまにするまぐれ当たりよりコンスタントな上品さは、えも言えぬ安心感となり客はその店のとりこになる。

店は安心感を与えているか。

 

③ 上記の①、②がそろっているという条件の下、どうぞ高い値段を設定してくれ。高級であるということはまねできないことをすることだ。だから閉鎖的であるのは当然である。金持ちだと錯覚したのが口にものをためて大声でしゃべるのは殺してもよいことになっているらしい。走り回る子供がいたら絞め殺してよい。横柄な態度でウエイターを呼んだらシェフはそいつの車の屋根で包丁を研いでよい。

下品なふるまいは食中毒より怖い。

その場違いを排除する威厳があるか。

 

上記①,②,③が満たされるとき、たかが飯を食うだけではあるが、うららかな春のひかりのなかに至福の時が流れる。

料理内容は次回


残酷なピカソ、さみしいルソー

2019年03月09日 | 芸術

画家のルソー(Henri Julien Félix Rousseau)は特別に絵を学んだ経験もなく、いわばアマチュアとして絵を描いてきた人だ。

死後その評価は高まるが、年金生活の中で書き続けるにはあまりにも収入が不足した。

そんな彼をひそかに応援したのがロートレック、ゴーギャン、ピカソ等である。お世辞にもうまいとは言えない彼の絵だが、人々は彼の絵の中に、静かな優しさや、誠実な彼の人柄や、懸命に生きた彼の人生が反映していることを感じ取る。

物は言いようでそんな彼は「素朴派」といわれる。


ぼくは直方の谷尾美術館に行き、いまや日本を代表する画家となった植木好正画伯から面白い話を聞いた。

40年前、まだ一介の画家だった彼から一枚の絵をかいてもらったことがある。Rousseau(ルソー)とはジャンルの違う絵だがタッチには不思議と共通性を感じる。ンなもんだから彼と話すうちなんだか彼とルソーがダブってきた。

世事に疎く、すぐ人を信用する。物事に素直に感動し、詐欺師にとっては絶好のカモのはずだ。ところが画壇とは、奸計、権謀術数が渦巻く世界なのだ。絵の世界も悪人に満ちている。


ただあまりにもおおらかで自分を飾らず無防備な人に会うと、こちらもいつの間にか浄化され神経をピリピリさせて生きる自分が恥ずかしくなる時がある。


ルソーの絵から人々はそんな心の浄化作用を感じていると思う。


ところが、そんなルソーを茶化し笑いものにしサンドバッグにしていたのがピカソだ。友達とか援助者とか理解者のふりをして接近したのだからたちが悪い。

世の中からは当時全く評価されないルソー。それどころか蔑視さえ受けていた彼にやさしく接近し、自分の使い古したり書き損じたりしたキャンバスをルソーに援助したのがピカソである。

あのピカソから援助を受けたことをルソーは素直に喜び周囲に言わずにはおれなかった。私にあのピカソ、あの世界最高の画家ピカソが目をかけてくれたのだと。


ピカソは計算高い。まるで公園のハトに餌をやるように自分にすがってくるルソーを楽しんでいたのだ。ピカソは友人とともに彼をバカにし面白がった。

下手が画家になったつもりで吹聴しているぞ。そういって無邪気に喜ぶルソーを面白がった。


悲しい工業地帯 HAM Fair

2019年03月04日 | 趣味

年に一度のHAM Fairが日産苅田(かんだ)工場で開かれた。この工場ができたころ、僕は工場を見学させてもらった。

自動車工業の場合、最適規模はそれまで6000人とされていた。、ところが苅田工場は4000人で今までの工場と同規模の生産を行うと誇らしげな説明を受けた。(現在は2000人台)

その時僕は、じゃあ労働者の賃金は50%UPしましたね、と言って大いに嫌な顔をされた。

ぼくに説明をする程度の人だからあまり大した人ではない。どういった組織だろうが国家だろうが、下部組織になればなるほど愛社精神にあふれTOYOTAとの競争意識が強い。

 

資本主義の邪魔になる人ほど余計な愛国心を持つ。僕は劣等感によるものと思うが、今のところそう思って支障ない。

 

必死になってMITUBISHIなんかに負けないぞと従業員は叱咤されていた。ところが状況が変わるとゴーンちゃんはさっさとMITUBISHI と敗者連合を組んだ。

なんのこたあない。九州は賃金が低いから日産はやってきただけだ。餌を求める九州の飢えた狼たちは会社のためなら何でもする。狂気の愛社精神を身にまとい500社に及ぶ下請けをバカにした。

それを屁理屈で固め、案内はこういった。「九州は日産の故郷です」「戸畑鋳物や矢野自動車は日産の母体なのです」と。

ゼニ儲けに狂った会社ではポチまで安部のようなうそを言う。日産は、とくに鮎川は、戦争協力に熱心だった。戦後はオースチンのノックダウン生産を引き受け、クルマのまがい物を作りブルーバードと称した。

ネトウヨは韓国をパクリ国家だとバカにするが日本はそのパクリすらできなかったのである。例外的に世界に誇る、E,A,L型engineはさすがに完成に近い珠玉の名品だった。TOYOTAなど、ただ後塵を拝すのみでこの点だけは評価できる。

だが、井底の蛙、大海を知る由もない。

現在韓国はパクリを脱した。トウが立った日本などといつまでも付き合う必要はないのだ。

プリンスと合併しなければ何の技術の蓄積もない日産は、節操もなく座間工場、村山工場を廃止し政府とグルになりミサイル開発を引き受け軍産複合体の先頭を走る。北朝鮮が持つモノと同一のものだ。

つまり、NISSANのロケット、北朝鮮のミサイル。

自分がしたらロマンスで、他人がすると不倫だな。

節操のない、技術もない、あるのは政府とのコネだけ。そんな会社がHONDAにすら抜かれるのは必然だった。

 

輸出を待つ完成車のCar Poolには、決して日本にはないケバケバしいボディ色の左ハンドル車が並んでいた。

 

工場周辺の産業関連社会資本の充実ぶりは産官複合のいい見本だ。日産はいずれ去る。6車線道路と広いヤードが残り、社畜どもはあっけにとられて幹部を見送る。自業自得だがさみしい。

公共の一切が産業に奉仕している。バカ殿に盲従する赤穂浪士の群れがいた。便所紙のように捨てられるのに。

 

朝もやに煙る6車線を僕のクルマは走った。HAM Fairは日産の体育館を借りている。

戦国武将の兜のようなアンテナが人目を引いていた。僕の高級外車の屋根には、

十分。

会場の様子は次回。