か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

二人の帝国海軍中将

2017年12月08日 | 故人

戦艦武蔵

偶然にも僕の家はお二人の家に近い。お隣りと言ってもいいほどだ。僕の子供はよくそのうちの一人に遊んでもらった。

もちろんお二人とも鬼籍に入っておられるが、悩みぬいた軍隊時代であったことには変わりない。

山城の船体の位置があきらかになったが、こんな練習船など、はやめに解体すべきであった。それを軍令部は「死に場所を与えてやる」と告げ、艦長はありがたく拝聴した。

山城(改装後)

どんなにカッコつけても、改装して30㌩(50㌔/h)どころか25㌩しか出ない。そんな遊覧船程度の船で第二次世界大戦を乗り切ろうとしたのがわが小日本だ。

数年も前から夜戦の勝ち目はアメリカにあった。わざわざ鉄と命を捨てにフィリッピンに突入する。突っ込んだ山城は集中砲火で沈んだ。もし突っ込まなくてもやがて沈んだ。米軍に比べ1/100の弾数だ。どうしろというのか。

戦力の差が5倍以下までなら精神力や練度で勝敗が決まることもある。しかし精密な観測、100倍の物量、十分な休養と食事をした兵。それに挑むことは勝ち目のないただのバカテロだ。

 

伊藤中将は戦艦大和の最後の艦長だ。伝習館高校から兵学校に進んだ、まさに文武の天才だった。

往々に、バカは理解力がなく、2度3度くりかえし言ったことに対し思い出したように反論する。こんな時、伊藤さんは言い合いを避け黙って聞いていたという。

平時ならそれでよい。戦時は、即決射殺しなければならない。だが武蔵にはそんなのろまは3000人中一人もいない。どの一人も生きていれば日本の中枢になった人たちだ。

バカが多数になり日本は道を誤った。声の大きい奴は責任を取らず、こともあろうに寡黙な人間に貧乏くじを引かせた。

水中の落ち葉 兵やあはれ

 

貞金中将は、修猷館から兵学校に進んだ非の打ちどころのないエリートだ。昔の人にしては大柄で大きな戦艦武蔵の模型を部屋に飾っていた。街中にポツンと豪邸がある。自分の生きざまを背中で教えた人だ。ご子息すべて優秀だ。

彼は戦艦陸奥の砲術長から戦艦武蔵の副艦長に進んだ。詳しい方はご存知だ、砲術長という任務がいかに高等数学を要するものか。僕は本人からよく数学を習った。問題の背景にある広い世界を教えてくれたので数学の世界を広めることができた。バカには無理なことだ。

貞金さんは副艦長として戦闘詳報を大本営に持ち帰る仕事があり3000人の船員を見殺しにしても持ち帰った。それは当然の仕事だ。

一方、栗田はその際間違った戦闘指揮により終戦を半年はやめ、原爆を落とすチャンスをもアメリカに与え、降伏する能力さえ日本から奪った。25万人の兵がルソンで餓死することはなかったのに。アメリカはダウンした日本を蹴り続けた。しかしセコンドはタオルを入れなかった。

現場で勇猛果敢に戦った人は捕虜虐殺などで戦犯として銃殺になり、牟田口や栗田、南雲、富田、青木…の無能たちはなぜ戦後をのうのうと生き抜いたか。

平和をほしがるなら戦争を考えろ。

平和を言うな。人殺しをして平和に生きた人間を殺せ。


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