か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

筑紫女学園大学公開講座 英語前置詞の世界 

2023年11月25日 | 受験・学校
近所なのでママチャリに乗って行った。講師は松崎先生。

あまり期待しなかったが、聞いてみてびっくり。さすがプロだなと思った。めんどくさく細かくまれな使い方を説明されたらいやだなとか、・・・。

さにあらず。こんな先生から習えるなんて学生は幸せだ。

Oxford English Dictionaryによると前置詞は200以上あるそうだ。先生は、こんなにあるからしっかり勉強しろ、じゃなくて、こんなにたくさん理解できるはずない、ということから話を始めた。

ちょっと安心したが、テキストの英文についての質問をする。( )に何が入るか受講者に指名し発問。僕は当たった。

英文はこんなふう。
I bought this computer (     ) 50,000yen.

ぼくは、 withと答えた。またある人は、at と。

で正解は、for。ここからが先生の腕の見せ所。
先生 said,
buyがあるので前置詞はforと覚えていた人もいるでしょう。まちがってもbyじゃないぞと考えたでしょう。図星を言われてドキッ。with, at でも通じますと慰めてもらった。

だけど正解は for だが、そんな覚え方をして正解にたどり着くという方法では面白くありませんというようなことを言ったのだ。

目からうろこ。


学生のころさんざんイディオムをたたき込まれた。ところが外人は、イディオムという単語自体を意識してない。どころか、知らない人が多いそうだ。

in front の次には of が来ますと教え込まれた。そうやって僕の頭の中には膨大な英単語が入った。高3のときにはそのバカな暗記作業はピークを迎え一日50の単語試験が毎日あった。

高校はバカな苦痛を与えただけだ。学校は間違った英語を熱心に教えた。



forの使い方というかイメージみたいなものを解説された。今回、多くの意味を覚えるより概念として for のイメージをつかむことが大事だと教えてもらった。

最後には僕ですらこの文章の意味が分かるようになった。


I cannot speak for everyone.

「私は皆の意見を代弁しているわけではない。」 ここでは、for だなとよく納得した。


僕は今更遅いけど悟ったよ。
丸暗記は百害あって一利なし。問題は理解なのだ。丸暗記ばかり強調するバカな高校を出た。

ウソはしきりと絶叫する 109

2023年11月20日 | 韓国
<前回のつづき>韓国人が韓国人に向けて書いた日本像です。毎月20日発行。


さらに最近のことでは1980年光州抗戦(光州事件)のときのこともある。当時光州に進駐した戒厳軍は「現在、光州市内をスパイが掌握している」というようなとんでもない教育を受けて侵入し良民を虐殺した。彼らは銃剣術や射撃の練習をするように光州市民を殺した。これがわずか20年前のことなのだ。こんな国がはたして60年、100年前に発生した戦争において不可避的に行われた人権蹂躙を根拠に日本を悪く言う資格があるのか。日本は過去に原初的な軍国主義の時期に侵略戦争をしつつ他国の国民を大勢殺したが少なくとも敗戦後には理性を取り戻し人権が保障された文明国になった。反面、韓国は子息を殺しても2か月過ぎれば釈放されすましてそこらをうろつくことができる未開社会だという事実を知るべきなのだ。他国を卑下する前に最小限の身の程をわきまえるべきだ。



また、中国はどうであろうか。良民虐殺と侵略に関する限り中国は一定の見識を持っている。実際そのような事情が分かっているので中国は日本の過去に言及するときにも抑えた口調でポーズをとっているようだ。中国共産党は1949年大陸を統一したのちにも満足できずにチベット、ウイグル族の国を侵略したのみならず、いまだにその地域の独立運動家たちを無慈悲に虐殺している。



1950年中国は「帝国主義の脅威からチベットを解放する」という犬にも笑われる名分を立て平和なチベットを侵略、500万の人口の半分を虐殺した。中国はチベットを占領したのち1964年にはヒマラヤ山脈を越え征伐軍を送った。が、インド軍の熾烈な反撃に耐えきれず押し返された前歴もある。また1979年には30万の大軍と800余機の航空機を動員しベトナムを侵略し全面戦争をくりひろげた。幸いにもインドとベトナムは強力な軍事力を有する国家だったので中国の侵略を防ぐことができたのであるが、万が一にもこれらの地域までの中国の手下になっていたら今日の中国はインド洋から太平洋に至る大帝国になっていただろう。しかし私は中国がこのような過去にしでかしたこのような侵略に対し謝罪をしたという話は聞いた事がない。



1960年代、江清らを前面に立て毛沢東が行った紅衛兵のクーデター、いわゆる文化大革命のときには手に毛沢東語録を持った気違い紅衛兵が全国を席巻し数百万の無辜の人々を虐殺した。また1989年、天安門広場で発生した民主化デモを鎮圧する過程で2000名の市民を虐殺した国がまさに中国なのである。こんな国が日本の総理の神社参拝を問題にし非難声明を出し、日中戦争のときは日本が自国民を虐殺したと宣伝しまくっているのだから中国という国は実に面の皮が厚い。



日本が起こした戦争というのもまた同様だ。1895年日清戦争に始まり日露戦争、日中戦争に至るまで太平洋以前に日本が介入した戦争はすべて世界のどこでも起こっていた領土獲得競争であっただけだ。アメリカだけをとっても20世紀初までネバダ、オレゴン、カリフォルニア、テキサス等の地域を挟んでメキシコと血生臭い戦争をした。帝国主義時代の論理というのは力のある国が多くの地域をわがものにするということであり、力がなければすでに獲得していた地域もとられてしまうということだ。そのようにして戦争に負ければ日本の様に戦犯国になりおとなしく引き下がるしかなく、勝てば戦勝国として分け前にあずかり大きな口をたたいていけるのだ。日本の罪といえばただ負けたということ一つであると言いたい。




【1-10】経済開発の種を提供した日本 
         
李承晩博士(韓国初代大統領)は日本から4億ドルとれるなら大成功だと考えた。長期政権のときには請求権をあえて最初に放棄し6億ドル相当の技術と経済協力をもらうという話がでた。さらに今度は2年間の引き延ばしののちついに無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款1億ドル以上という決定を見たのである。


<つづく>

What is essential is invisible to the eyes.

2023年11月02日 | 受験・学校
若いころ、ある公務員試験を目指していた。試験は6~7月にかけてあり合否は9月に発表された。しかし、合格とは採用を意味するものではなく合格したが不採用という場合も多かった。

ひどい時には合格が僕一人で採用ゼロという年もあった。

試験会場には高校の教室が使われた。一つの教室に受験生は50人。競争率は最低100倍。ということは2教室の中から一人しか合格しない。

何を血迷ったのか、身の程をわきまえず、などなど罵詈雑言を浴びつつ悪口雑言を振り切って我ながらとんでもない挑戦を始めてしまった。

一番つらかったのは自分の位置がどの程度にあるのか皆目見当がつかなかったこと。全然手が届かない無謀な挑戦をしているのか、一点差で不合格になっているのか、まったく知る手立てがなかった。

勉強をしていると悪魔がささやく。大手銀行の内定通知が来たじゃないか、このままじゃあお前の20代は暗黒時代になるぞ、もう意地を張るのはよせ、と。


そんなこんなを振り払いやりかけた試験合格にかけることにした。ここでやめたら20代を棒に振るどころではない。不合格という烙印は一生のコンプレックスとなること必定だった。


紆余曲折あって、

僕は何とか合格&採用になった。4年間の絶望的な努力には見合わないが、世間は手のひらを返したように揉み手すり手、平身低頭して僕の周りでしっぽを振った。先生様先生様、様様。

僕は全力を出し切って疲労困憊していたので、ちやほやされてももはや何ともなかった。

意外なことが嬉しかった。研修を受けている中で、指定された銀行に口座を作れと言われたこと。

絶望と極貧の中で頑張って勉強していたので当たり前のことを忘れていたのだ。そうか。今からはお金をもらえるのだ。しかも夢みたいな大金。毎月。俸給という名の賃金が降ってくる。

中核とか革マルとかが僕を裏切り者だといった。どーーぞ、言ってください。僕は心の中で快哉を叫んだのだ。僕はぼくの勝負に勝ったのだから。


午後から銀行口座を持たないやつばかり連れ立って口座開設に行った。まだ現金支給の時代。都市銀行に口座なんて。

銀行の行員たちが全員起立した。「ありがとうございます。」


帰りに台所用品をくれた。そのころはバブルの予感がする豊かな時代。立派なボウルやザルや水切りをもらった。


時は流れ、

40年後、何千回と使った水切りについに限界が来た。うどんはいいがそばは壊れた水切りから漏れるようになった。


僕の子供たちは、けち臭く劣化したプラの水切りをいつまでも使いやがって、と思っている。僕は説明しない。

到底理解してもらえない。


プラの水切りを捨てた。