







といっても、僕が僕にあげるのだからあまり高いのは余裕がない。
ワニの型押しなんて嫌な気がするが、内部まで金属チャックであること。奇をてらったデザインでないこと。もう最後の財布になるだろうから十分な耐久性があること。
まだまだ条件は多い。カード入れが少ないこと。(どうせ入りきれない) 紙幣を入れるところが深いこと。(ウォンを入れる) 色が浅はかな田舎の屋根みたいな色でないこと。ワシントン条約に抵触しない皮であること。角の折り込み(菊折り)が丁寧であること。(たとえ同じ材料でもこんなところがのぼせ上がった中国人が作ったのとは違う)
と考えていると結局dakotaが残った。財布もバッグもスーツも極めて精選された品ぞろえで僕を魅了する。バラバラ並べて買え買えと急き立てる売り方は僕には合わない。通信販売で安いからと中華財布を買ってその後何十年も不快なまま使うのか。
こういう小さな不愉快が重なって貧乏人は何をするにも気が短くすぐけんか腰になるのだろう。
とてもかわいそうだ。前の財布は三越で買った。象皮だった。その時は合法だったがその後違法になった。すでに所有しているものは持ち続けられるが、これ見よがしに持つのは成り上がりものだ。僕はやめる。
Dakotaは小さいところまで考えつくされている。馬具会社から発展したバッグ屋は大体間違いない。
これはご存知コードバン。馬の両側の尻からとるので一頭から2個しか作れない。世界最高の強度といわれるが、使ってみると柔らかい。さすが7年前とは思えないつやがある。これも佐賀玉屋。
僕は玉屋が好きでたまらない。店員の知識の豊富さ。こちらが話し終わるまでじっと待つゆとり。気に入ったものがない時も気持ちよく送り出してくれる。
その玉屋があまり具合がよさそうではない。行くたびに売り場が狭くなり、人通りが少なくなり人々の表情が暗くなる。
これではいけない。たかが財布屋の一軒や二軒がつぶれようと知ったことではない。問題はそこではなくて、佐賀の文化の中心であり佐賀には他にめぼしいものはないということ。つまり佐賀玉屋以外は砂漠なのだ。
バルーン大会とか言って風船に人が乗って遊んでいるがなくてもいいものだ。
これだけ安く集中的に目の肥えた店員が本物を売る空間は福岡でさえない。
食事も同じだ。内縁の娘には何も買わなかったのでかんかんに怒っていた。しかも何にでも腹を立てたいらしく、カメラで顔が写ったと言っては怒り、食事が遅いと言っては怒っていた。
ざる蕎麦なぞババ臭いものをたのんだ。ぼちぼちとうが立ってきたようだ。僕は芸がないが玉屋定食。でも店の名前が付いたのがなんだかコスパがいい気がして。
さすがポタージュは小麦粉から、タルタルは缶詰じゃなくキッチンで作ったものだ。これが違うんだよな。グルメ雑誌にカネを払って載ってるのはうまくないだろ。食堂も文化だ。うまい店はキッチンが片付いていて狭い。
玉屋の火が消えたとき佐賀県は福岡に吸収される。だって存在理由がないだろ。
読者の皆様には申し訳なかったと思います。僕に反感を抱いている人もさぞや寂しかったろうと思います。ネット環境がそろわなくてひと月も迷惑をかけました
本論。
言葉とはなかなか通じないものだ。ただ、どんなに嫌な奴の言葉でも、ふとした瞬間にストンと納得する時が来るものだ。それは世界が二律背反で成り立ってはいないからだ。例えばアホは、あれは左翼だ、はたまた右翼だと色分けをしたがるが、どうして世界が右と左しかないといえようか。
前も後ろも上も下もある。
人を左に追いやって自分だけの整合性の中でマスをかく変態は、とにかく女性に嫌われせいぜいブスと添い遂げるのがオチだ。
どうも世間がうるさくなってしまった。知にはたらいて角が立ったわけでもなく、平凡な日常が息苦しい。
清涼剤が必要な時に、タイミングよくジュエリーの発表会があった。この年になるとドレスコードがめんどくさい。ベンツS以上だのスーツも細かく言われる。僕は極貧で正月は毎日うどんで過ごした。しかし悔しいじゃないか。無教養の小金持ちには負けない。
食事が出るのが楽しみの一つで、タダだから文句ないがやはり炭水化物に浸かった体はけいれんを起こして喜んだ。
時計なんてダイソーに行けば100円で来る。それはグランドセイコーより正確だ。
だから何だ。時を知るのは5番か6番目に重要なことで、一番は、何といってもそれを身にまとったことにより元気が出るかが重要なのである。
値段は安いが僕の時計の中では最高に僕を元気にする。SEIKOは大好きだ。
今日は庶民の生活に触れようと スーパーに行った。どうして貧困な人はあんなに老けているのだろう。その上表情が厳しくいつも子供を叱っている、声が大きい、服装が派手で汚れている。
人が人生をかけてタダの石を探し求め、またある人は技を磨き年月と伝承を加え、最高の接客技術とともに、やっとジュエリーになる。ウブロの係の人がいいことを言った。「宝石はどんなに大きくとも価格は手間賃の積み重なりのみです。」
今のロレックスは下品の極みだが、60’は上品なジュエリーだった。
しきりに感激していたが、僕の下心は見抜かれていた。「からけんさん、食事ならいつでもできますよ。」
財布を買った。福岡天神やこのごろの博多駅に行けば、それなりの新作に出会えるだろう。だが良いものとは豊かな土地にしかない。
昔日の日々、わが世の春を謳歌した町があった。かろうじてかつての栄光を感じる町でも、ふんだんにカネがあり湯水の様にカネを使った土地には本物が根付いている。
逆説的に聞こえるだろうが、無駄遣いがあふれた土地は、やがて廃れて廃墟みたいになっても物を見る目が生きている。
貧しいだけの労働者のそばには、本物は近づかない。労働者のほうでも本物を避けるから、「名品」といわれるものだけがかもし出す優れた文化は、かつての炭鉱とか港湾とか製鉄とか、とにかく、そこらの労働者の5倍の収入のあった、一見ならず者達に引き継がれていったのだ。
今回佐賀に限って話をする。佐賀玉屋は、佐賀という窒息させる湿度の中で孤高を保った奇跡のデパートである。知られていないが佐賀の中小企業のレベルは西日本最高である。アメリカのロケット、アポロは佐賀のアポロ電子工業が無かったら飛んでない。そんな例はいくらでもある。
そこの管理職、経営者は、豊かなときをもち審美眼を養った。ゴルフ場と会社しか知らない福岡のチンピラ企業経営者には分かるまい。福岡では育たない人材たちだ。
店内に人が少ない。したがって広い。店員はマニュアルを繰り返す機械ではない。売らんかなとあせっていない。Dakotaについての薀蓄を語り合い、さてどれにしようかと悩む。楽しい悩みだ。
じつは佐賀玉屋は風前の灯だ。なくしてはいけない。経営の話ではない。佐賀の文化の話だ。
帰りは日本食を食った。
冷たい茶碗蒸しが気持ちいい。レタスは手前の味噌をつけた。なぜこんな高いところに来るか。わけは簡単。塩辛くないから。
八寸膳。高さ八寸の膳の意味だったが、足はなくなりお膳だけが残った。こう見えても大食の私が残すほどの量があった。
あじ、ひらめ。しょうゆの中にモズクを入れた。いい考えだ。
手間がかかっているのは分かるけど、僕にはもっと具が大きくて、どんぶり鉢に注がれたれたほうが良かった。
メインは平凡だったので省略。
友人と背振山にドライブした。周りの人がクマが出ただクマが出たと騒いでいた。今まではまったく他人のフリをすればクマも第三者とみなしてくれただろうが。この現実を安倍はどう言いくるめるか。
集団・・・でちょっと知らぬフリも出来なくなった。「いえいえ僕はコペンの運転をして金太郎を運んだだけです。」といってもクマが見逃すはずはない。マサカリも金太郎に与えただけです、という言い訳が通用するのが安倍の空想的安全保障だ。
バカ。通用するはずない。
(背振気象レーダー)
そもそもあらゆる戦争は、開戦の時点で勝敗は決している。大日本帝国は700倍の石油精製能力の開きのある国と開戦した。戦争中はそれは2000倍の差に開いた。備蓄はさらに大きく差が開いていた。
そして、勝つと叫び狂った。
ありえない流言飛語に怒り狂う国民の教養のなさ。外交らしい外交のなさ。アホを納得させる領土問題をいまさらのように持ち出す。・・・これで世論は十分燃えた。
バックギアのないクルマは5年も前からすでに走り出していた。
といっても、僕は安部の人間性まで否定する気はない。否定するのは思考力だ。邦人輸送だ、ホルムズだとおよそありえないたとえに固執した。こんな言い訳しか考え付かないのは、ブレインも含め相当脳の劣化が激しい。
安部がノーベル賞受賞者を祝って電話するのを聞いた。低姿勢をつらぬき肩書きを名乗らず普通の人が言うお祝いの言葉に、僕は意外な印象を受けた。会いたい。
30年ぐらい前、安倍のじいちゃんの岸がよく職場に電話してきた。僕に用事があるはずなくあっても僕はとらないが、名前が似ていた人がいて間違えて何度か話した。岸に見込まれたその人はキャリアでもないのに超高速で出世した。
気に食わないのは職場の態度だ。皆地区労の労組員のはずが、水戸黄門の前の下級武士のようだった。
威張りくさったモノの言い方は今でも耳の奥に残っている。「岸だが、・・・・」
貴族からけんは、岸の声なぞ思い出したくない。
すばらしい腕時計を買った。内縁の妹が最近機嫌が悪い。内縁の妹というのを止めろという。僕はギクッとしたが、続く言葉に安心した。
「内縁の娘にして。」
男は皆弱虫だ。ほっ。
YENA Paris(ムーブメントはセイコー) うずもれた玉を磨き光らせるなんてなんと楽しいんだろう。日本の職人が欧米に負けるものかと必死になって作った。当事戦後の日本人はそんなもの買えるカネがない。旦那がグランドセイコーを買い奥方がYENAを買うまでにはまだ道は遠かった。
パリに輸出されたものがJAPANに逆輸入されるまでには10年かかる。
昨日、グランドハイアットでジュエリーとバッグの発表会があった。高価なモノがあつかわれるところでは、人間は見栄を張る。
ジュエリーって石じゃないか。バッグは定着した外来語だが、早い話が鞄だ。ブランドも漢字圏では「名品」と訳される場合が多い。
一部に例外はあるが総じて上品で静かだった。来ている人は皆金持ちで穏やかでしかも話が面白い。なおかつ俺が俺がと出しゃばらない。
今回も業者がお昼をおごってくれた。このときとばかり食ったので今でもお腹がすかない。金持ちは損をしないな。
こう書くと貧乏に該当する人はここら辺で読むのをやめる。不愉快だろう。
我慢我慢。
決してカネがある者が金持ちというのではない。一見、カネがあるのでゆとりが生じ、教養が増し、争いごとは去り、モノを見る慧眼を持ち人生が豊かになると思える。
僕が経験した限り真実は逆だ。まづ最初にゆとりが生じる生き方をして、そのゆとりを教養が増すことに使い・・・、なので結果としてカネがたまり金持ちになる。そうなるまでは壮絶な貧困に耐えている。
貧乏人の銭失い。これほどの名言があろうか。
さすがの金持ちも展示された名品(ブランド)の金額となると、カードを切るときにはやせ我慢の表情をした。笑っても引きつっている。
基本、金持ちはケチだ。その上、普通の人が飽きるほど精密な人生観を持つ。みんな苦労をしている。貧乏人はかたまって生きるので金持ちを一人も知らぬのが普通だ。知らないのに最初っからの金持ちがいると言う人がいる。そういう貧乏人が考えるようなコガネもちは、家柄もなくすぐ滅びる。あるいは、「私は面白半分にカネを稼いでいる。」という人は寄生虫か泥棒だ。
金持ちは、金持ちなんていつでも辞めていいと思っているが、貧乏人は命がけで金持ちを目指す。仲間を蹴落とし必死でつかんだくもの糸が肝心なところで切れ、まえ以上の極貧になる。必定。
日本はいまや一人当たりGDPは、アジアですら5位になった。安倍になって自分の生活がどうなったか考えるゆとりを持たないからいつまでも貧乏なのだ。
金持ちグループの会合に出て名品の石や鞄を見ていると、増加する極貧層が哀れだとつくづく思う。極貧層とのいさかい事に明け暮れるのではなく、教養を高め中身のある思考をせよ。
安部の矢は金持ちのために放たれたのだ。すぐイラつくおまいら貧乏人のことを考えてくれる奴なんていない。そんな見返りのないことを誰がするか。
「日本はかわいそうなことをしますね。」と金持ちが言った。Non-Politikなキリギリスは冬に死にます、と僕。
ふと目を離した隙に、内縁の妹はパイソンの鞄を買っていた。我慢我慢、やせ我慢の笑顔。
カードを発明した奴は人類の敵だ。北朝鮮に拉致せよ。