か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

子供のころの夢。

2014年02月27日 | 日常

サガハイマット(九州国際重粒子線がん治療センター)についてフォーラムがあった。開業医はたいていアホだが研究職のドクターはさすが頭がよかった。それについてはいずれ書く。

少しだけ紹介。東大の中川恵一准教授とは、話していて参りましたと感じ、打ちひしがれてしまった。理Ⅲとは僕の到底及ばない壁だ。くやしいがバカだから引き下がるしかない。常に僕より安易な例を引き、専門用語に酔うこともなく、分かってもらおうという態度で、かつ正確な言葉を使った。

相手の理解の速度を見てくどくならぬよう留意した。東大は行く価値のある大学だ。ノブレスオブリージュを見た。

ダラダラ数式や用語をならべ何を自慢したいのかよく分からないアホがいる。僕らの世界では最初から相手にされない屑だが、政府は目ざとく落下傘人事をする。跳ね飛ばされた実力者は辺鄙な国立大で飼殺しになる。

でもそれも小さいことだな。タレント、草野仁が講演をした。以下に書いた彼の話しは、彼が引用した例とは異なる。そんなに細かく記憶できない。しかし、彼の伝えたかった願いは正確に書いた。

子供のころの夢は、かなわないものだ。こう切り出した草野は、笑顔の奥に願うような、「がっかりしてはいけない。」という言葉を秘めていた。

そんなに夢がかなうなら、みんな宇宙飛行士かケーキ屋さんになる。ところがそれでは世の中は成立しない。ケーキだけ食って糖尿になって死ぬか。

みんなやむなくほかの仕事に就く。さらに他の仕事についても、配置転換、転勤が待っている。やむなく長距離恋愛になる。破たんする。きまりきっている。とくにかわいい子をつかまえると嫌がらせのように転勤させられる。人事課も小市民だ。

住宅を建ててもそうだ。5分で燃える家を35年かかって返済する。それでもマイホーム、と思った瞬間単身赴任だ。

しかし、ここからが大事なところだ。最初の希望、つまり宇宙飛行士は、なりたい自分であったわけだが、自分にあっていたとだれが言えよう。

倉庫係の伝票整理になったと、人は悔やむ。おれより学歴のない私立しか出てないあいつが秘書課だ。が、そこでボヤいていては人はそこで終わる。

与えられたところで限界まで頑張ったか。もし頑張っても納得できないのなら迷うことはない。脱出だ。ためらうお前は努力が足りない。東京本社から鹿児島支店に来るのは左遷か。「薩摩おごじょ」は薩摩の宝石だ。東京はあっていたか。鹿児島はあわないか。行く前から分かるはずない。

就職や転勤や配転や業態転換などにより、仕事の内容は変わる。いかに希望のところに就職したことが無意味だったか。その新しい環境になれていきつつ自分に合う仕事を探すべきだ。

最初のリクルートで人生を決めてはいかん。


 

 

 


遠い日の記憶

2014年02月24日 | 受験・学校

ずいぶん昔になった。よど号事件。まだ犯人のうち4人は北朝鮮にいる。

Boeing727 犯人の中に知り合いが一人いた。ハイジャック犯だ。幼稚な奴らだ。犯行時刻に一部の奴らは遅刻する。主犯は福岡で降り、列車で東京に帰る。もう一度やり直そうというわけだ。

飛行機の乗り方も知らず朝鮮半島を武力統一する。革命は、中国の林彪一派を駆逐した後、毛沢東主義による統一から、ベトナムの英雄的米帝撃滅の戦いへとまさに燎原の火のごとく広がるのだ。というママゴトに人生を捨てた。

スローガンを叫びつつうねるように街を蛇行する。ヘルメットに角材、長髪、マスクにもなるタオル(催涙弾)。日本だけかと思ったら、僕は韓国に行ってからもこの催榴弾に悩まされた。(世界最強で発がん物質が混ぜてある)

日本の学生運動はやさしい。韓国は角材ではなく鉄パイプだ。敵も機動隊ではなく戦闘警察だから武装のレベルが違う。

学生たちは鉄パイプを地面に打ち付け、鉄パイプの先がめくれるようにする。これはきわめて鋭利だ。学生同士の仲間割れはない。日本はこれがひどかった。(内ゲバ)

さらに僕のように参加しない奴がいると、日本では大勢で取り囲み、革命性が足りないといって集団で詰問した。(総括)

僕は、日本でも韓国でも、まやかし戦闘ゴッコはやめろ、という立場だった。明日にも革命が起こりそうだと信じ込む奴らは、僕をさして「ヒヨル」と言った。日和見主義から来た造語だ。

角材が武装か。長髪はすぐケンカに負けるぞ。僕は生れて一度も2センチ以上髪を伸ばしたことはない。機動隊はピストルすら持ってない。だが自衛隊には長距離砲がある。なにが革命なんぞ起こるもんか。

このあたりまえのことが気違いには通じない。僕に向かってひきょう者と言ったので研究室の扇風機をもって20回ぐらいたたいた。昔のは、金属製なので今思うとぞっとする。長髪がまきついて頭を切った。やり足らなかったが、しつこく共産党に追われることとなった。反代々木系だったら僕を殺していただろう。

ひとつ思い出すと手品の万国旗のようにスルスルといろんなことが記憶から出てくる。

ただ、充実していた。秋田明大と話していたら朝になっていたこと。講堂に立てこもったとき近所の婦人会や子供会から激励の手紙をもっらったこと。機動隊の放水は薬品を混ぜているのでとても痛かったこと。

僕らの要求はこうだ。

時間いっぱい授業をしろ。コネでバカ教員を雇うな。公平な採点をしろ。学内にスパイを放ちスパイにえさを与えることはするな。私立ばかり学費値上げをして国立私立の差を広げるな。

 

 

 

 

 

 


SISAY(シサイ、花が咲く)

2014年02月21日 | 音楽

天神(福岡の中心)にいくと、Z-sideという百貨店がある。岩田屋の亜種だ。カッコつけてジーサイドと読むそうだ。僕が知ったかぶりをしてゼットサイドというんだとある人に教えたら、その人は天神で大声で、「ゼットサイドはどこですか」と聞いてしまった。

今後、そのひとと会うことはないだろう。だから気にすることはない。

SUROY これをなんと読めというんだ。シュロアだそうだ。福岡南部にある中規模モールだ。無理がある読み方をさせて何を楽しんでいるのか。変態め。

かと思うと九州山口の貧乏人が狂ったように押し掛けて不必要な渋滞を発生させるモールがある。OUTLETMALL  これはそのまま読めばいいのだがいつから固有名詞になったのか。

例えば、電器屋という名前の電器屋があっては、区別がつかなくなる。寿司屋という名の寿司屋はない。「棚ずれ品集積所」。ま、「鳥栖」という言葉が冠詞のようにつくだろうが、僕が見た大きな看板には、ただのアウトレットとある。

しかも安くもないアウトレットに突進する姿は、貧乏のるつぼに自らはまるものだ。本物を見る目を曇らす。大丸、三越で同じものを見て安く買ったと誤った喜びにふける。変態だ。

二流なら持たないほうがはるかに豊かだ。

そんな読みにくいものに、MALLAGEというのがある。僕はマラゲと呼んでひどく顰蹙を買った。だが、どう見てもマラ毛だ。(本当はモラージュ)で、本題ベレッサ。BELLEZA 僕は読めん。スペイン語の方がよっぽど読みやすい。SISAY

うるさいモールの中で演奏していた。曲もUPしたいが、また痙攣をおこして消すだろうからできない。やっとUPするやり方を2年がかりで覚えたのに。皆さんは、YOUTUBEで検索してほしい。基本に忠実で且つ西欧の楽器との融合も図るなかなか本物だ。

ちょうど大丸や三越のようだ。アメ公やイタ公の名前を変に取り入れると、読み方の間違いごときを鬼の首をとったように笑う人間をふやす。そしてその人間こそ笑われることに必ずなる。

リーダーと話した。僕はスペイン語はほとんど知らないので身ぶり手ぶりで話した。とくにチャランゴ(charango)の演奏がとても速くてとても悲しい、と。普通、音楽は早いと楽しい。

どんなにハモっても、大きな声を出しても、チャランゴが二重弦の深い響きを出しても、僕はすべての曲が悲しかった。アウトレットな音楽がはやる中、本物たちの目は澄んでいた。

エクアドルにいて歌うのは、スペイン語の歌じゃないか。自分たち南米人はイベリア半島の言葉しか知らない。それでも歌う。言葉は饒舌になり曲は早くなる。歴史とともに、澱のように深く沈んでいるわだかまりをかき消すかのように。

いいか、朝鮮人。言葉をとられるとはこういうことだ。






 


ルックス、ルーメン、カンデラについてはっきりさせようじゃないか。

2014年02月18日 | クルマ

(そのまえに、今日、デビ夫人が敗訴した。ブログの顔写真掲載問題に関してだ。ポン介は、だからみだりに人の顔を載せてはいかんだろうと考える。絵にかいた誤答だ。まず話は民事裁判である。さらにブログの運営者が問題になっているか。おまいら文系でちゃんと勉強したのなら「当事者能力」が民法のカギになることは覚えているか。ナポレオン法典に書いてあるぞ。ポン介SNSは最初っから当事者ではない。よく考えたらわかるかもしれないことだ。無理かな。便所虫は便所から出てはいけない。臭いからだ。世の中はポン介ばかりではない。このOCNがあって本当によかった。)                     神戸新聞2月17日                                                                                     

ま、間違っても人のブログを消したらいかんということだ。公序良俗に反しない限り、載せられた人と載せた人との問題でみんカラは関係ない。分からんだろうな。


カンデラから。これは光源の明るさを表す単位。光の本質はよく分からないので、すべて18世紀に発想した便宜上のものを修正して使っている。

正確に書こうと思うと、いい気になっていると言われ、分かりやすくと思うと間違いだと言われ、住みにくいな。

分からない光をなんとか把握しようと昔の人はこう考えた。光源から無数に粒が飛び出している。これを明かりがついている状態だと置き換えて考えた。じつはこれは深い。1m離れたところに粒が100個当たったとすると2mのところでは同じ面積に何個当たるだろう。50個ではなくて25個だ。

粒が当たる面積は2mになると4倍になる。粒の数は変わらないので同じ面積では1/4の粒が当たる。

粒が飛び出す方をカンデラ、当たる方をルックスと決めた。(たとえば 5ルックス=125カンデラ/5mの二乗)

明るさは距離に二乗の反比例する。2倍離れると4倍暗くなる。どれか一つ分かりやすいのがあればと願います。

そこで、最近出てきてチカチカ眩しいLED。僕ももう40年ぐらい前から工作に使っているが、クルマにつくと、歯が欠けたように点灯しないのが出てきてみっともない。

メーカーは、使いもしない高回転で高出力を誇って、何にもならんのにアホをだますため不要な馬力競争を仕掛けてきた。それと同様に、陳腐なものを売りつけてバカをだまして金をとろうとするクルマ屋が増えた。

LEDは必ず構造上一方向に強い光を出す。レーザービームは元をただせばLEDだ。ところがカンデラの大きさで言うと電球にはかなわない。だから何個もつけて数でごまかしている。

しかし、電球よりも明るいですよと素人をだますためカビの生えたルーメンという単位に目をつけた。

ここはちょっと数学が出ます。ので、嫌な人は5行ほどスルーしてください。結論は理解できます。

全方向に光の粒が飛ぶとしたとき、光のあたる力をルックスとしたが、LEDは全方向に飛ばないのでこう考えるようにした。

球の半径 r の平方(球の半径を一辺の長さとする正方形)と等しい面積の球面上の部分 a の、中心に対する立体角をステラジアンと定義した。中心には光源がある。ステラジアンという限られた方向にのみ放たれる光を、粒を束ねたようなので光束と呼んだ。

このようにステラジアンというのは角度のことだ。10度、20度という角度。

どうだ。インチキくさいだろ。もともと一方向しか飛ばない弱い光を数字上強く見せるため、光の当たるところだけの照度を測った。単位はルックスに光源からの距離の二乗をかけるとルーメンになる。

サイドから見たら暗いLEDがあるでしょう。よく許可したな。               画像はWiki

 

 

 

 



 


高嶋ちさ子コンサート

2014年02月18日 | 音楽

(アホがあわてて消さないようにしつこくも今回、内容にうつる前に無料著作権講座をする。渋谷をうろつくガキが集まってSNSを始めると錯乱した行為をする。今回の高嶋さんの肖像は無料パンフレットのものだ。対価がないモノには権利は発生しない。よく考えたらわかるかもしれないことだ。無理かな。便所虫は便所から出てはいけない。臭いからだ。僕はチンピラSNSばかりでなく理性的なOCNがあって本当によかった。バカだらけなら日本は終わりだ。)

観客は、平日なのに子供を連れて来ていた人もいる。よくコンサートには、託児所ありとか書いてあることがある。そんなコンサートは貧乏人がいくコンサートもどきだ。よほどの嬰児でない限りしつけろ。

しかも学齢期の児童を連れて来ていた。欠席が増えたら報告書に書くのが怖い、タマの小さい公務員らしい教員は、学校を休ませまいとする。親はそんな貧乏組合員の妄言を跳ね返す教養をもっている。

「教育は親がします。」という親に対し返す言葉は下品だ。教員、「仲間の中で学び合う姿勢が必要です。」とぬかしやがる。そんなことしたらバカにひきずられて我が子の成績が落ちるだけだ。きちんとしつけられた同レベルのお友達はたくさんいる。

ところが、小学校の教員は、何でもかんでもお手手つないでチイチイパッパをやりたがる。この雀の学校には行かない権利がある。

低劣な親よ。学校がどうしたこうしたと叫ぶな。組合員がいるか、いじめがあるか、はたまたPTAが忙しいか。ほとんどカネも払わず給食にケチをつけ、教科書に因縁を付け、学校に因縁をつける。

この無教養な親は、子が高校になるとピタッといなくなる。数Ⅲは分からんからだ。そんなアホの狂宴に付き合うのは、よしたらどうだろう。校長たって、もと小学校の教員だぞ。

ホールでは、子供たちは一言も話さなかった。凛とした顔立ち、しまった口元、端正な服装、散髪したての髪。3時間動かなかった。これが教育だ。一日スズメの学校に行かないぐらい大勢に影響ない。

モーツアルトと同じ年に作られたストラジバリウスがいかに貴重なものか、子も親も学習した。みんな、NHK竜馬伝のテーマ音楽を弾いている人のピアノに天才を感じたはずだ。これがチェロかというほど自由な音階を行き来する演奏に、手に汗をかいて聴いていただろう。東京フィルはなんと言う人材を持っているのか、と。

コンサートは必ずかぶりつきで聞くべきだ。CDでは消される譜面をめくる音、チェロが舞台を擦る音、左右の離れた音、譜面台を動かす音、その場所により音をさえぎったり反射したりする。

子供を子供扱いしてはならない。子供はそのすべてを記憶して帰る。

確かに料金は、気絶するほど高い。それが何だ。保育料と称するカネで他人に育てさせているじゃないか。それに比べたら安い。どうしても行けないというなら、BOOK-OFFでUsedを買え。本物を大音量で聞かせろ。そこらのへぼ車のボコボコ低音を圧倒する教養を持つ子を育てよう。


Shim(シム)

2014年02月14日 | 技術

スペーサーともいう。しかし、クルマをがに股にして喜ぶための円盤とは違う。踏切を渡るたび腹をこすり、泥の飛沫をクルマの側面に播き散らす。

日本は豊かになりすぎたかな。アホが人類の英知の結晶で遊んでいる。おれのカネだとか言ってよく狂いだすが、そのアホ車が年間5000人以上殺しているのを理解できるか。

日本の道路は左側が下がっている。あるいは右側だけに人が乗ることが多い。体重が全く同じ二人が完全に水平な道路を選んで走ることはできない。左カーブより右カーブが緩やかだ。それを同じ速度で同じ曲率で同じ回数、走ることはできない。

つまりどんなに正確につくったクルマもひずんでくる。いわゆる癖が出てくる。人のクルマを運転してみるとよく分かる。こんなにくせのあるのをよく運転しているなと思う。たまには浮気も必要だ。

人間の場合は、いろんな運転癖があるのに乗るのもまた楽しい。クルマに乗る場合、癖はあってはならない。車台といろんなロッドとの間にスペーサーすなはちシムを咬ませる必要が出てくる。例えば、何らかの異常な力で車台の位置が変わった場合、車台との間にシムをはさんでロッドが無理にタイヤにストレスをかけないようにする。

車の運転癖は楽しくない。

結局、クルマも人間も慣らし運転が過ぎたころの状態が一番よい。その状態に戻すのがシムだ。

フロントホイルアライメントの調整は、フレームがないクルマに関してはよく分からない。だが、人任せにしないで苦労するのは実に楽しい。とことん困れば何とか道はあるもんだ。

コペンの屋根のひずみがひどくなったのでシムを買いに行った。これが商業都市の悲しさで、シムを売ってくれる専門店がない。トヨタ部品に行った。2枚で150円もした。ホントは20円だろうけど仕方あるまい。トヨタ部品であってシム屋ではない。

ダイハツはシムを4枚も5枚も使っていた。いい加減なもんだ。ところがどっこい、それぞれ厚みが違う。しかも測ると0.25ミリづつ厚みが違う。だがその厚みの種類は、順に0.25、0.5、0.75、1・・・となっているのではない。

話がしやすいように4倍すると、1、2、3、4、の厚みではなく、3の次は5、その次は7となっていた。こういう基礎工業製品は本当に頭のいい人がつくる。互いに素なのだ。

こうすると3、4種類のシムの組み合わせでどんな厚みも作れる。素晴らしいじゃないか。がに股のタコ車に乗る能天気たち。互いに素、互いに素なのだ。僕とおまいらのよう。


議論は同じレベルのもの同士でしか成立しない。

2014年02月14日 | 日常

こう考えるとバカを相手にカッカ来て、自分がバカを相手にバカになってしまいそうな、危うい自分に気がついた。低レベルは相手にしてはいけない。バカは常に伝染力がある。

僕は最初みんなは冷たいと思った。さんざんイイネや絶賛のコメントを送りながら、主水さんが消されると、あたかもその人がいなかったかのように、平然と自分のブログに熱中し続ける。いまだに、何事もなかったようにふるまう人はいやだ。

IDを変えて復活できるのですよ、とか親切に教える人もいる。誰が復活の話をしているか。不当に消されたのがおかしいと言っている。

今からする話は、実に面白くないし、詳しく言えば反論もあろう。だが覚えた知識は忘れる。理解した知識は忘れない。この意味で原理原則からきちんとした理解が必要なのだ。細かいことは忘れた方がよい。本質を見失う。エピソードや例外にあふれたブログは面白そうでもあとに残らない。まるでブスが乳を出したエロ本のようだ。汚いことはやめよう。みんカラ編集部だけでたくさんだ。

「モノはだれのモノか。」この社会では必ず誰かのモノだ。仮に所有者のいないものがあったとしても、最初に所有を宣言した人のモノになる(無私物先占)。根拠は所有権だ。財産権といっていい。ところがこの財産権は二つに分かれる。物権と債権。今回は物権はちょっと置く。なぜなら物権の内容は民法で決まっているから。

で、話はあいまいな債権だ。肖像権とか著作権というと、あたかも抵当権(物権)のように思う人がいる。マチガイ。それらは債権。たしかに、資本主義社会の高度化に伴い肖像権は物権化しなければならない、という議論もある。僕もそう思うが、ここでは論点ではない。

Mが砂場を造った。だれでも遊んでいいよということだったのでKは遊び始めた。すると、Aの絵が落ちている。MはまえもってAの絵は使用禁止だと言っていた。なのにKはAの絵を使って遊ぶ。

Aの絵には所有権があるのでAはKにたいし、差し止め請求、返還請求、現状回復請求、損害賠償請求ができる。Aは、砂場の所有者のMに対しても善良なる管理者の注意義務を怠ったことによる様々な責めを請求できる。

それはなぜか。所有権という物権の中心をなす最重要な権利をめぐる争いだからだ。

ところが肖像権であった場合。たとえばブロマイド。僕Kと原作者Aとの間の問題である。まさにそこが債権なのだ。違うというなら日本でサイトを開くな。つまり、砂場の所有者つまりみんカラMは当事者能力がないのである。僕と著作権者、肖像権者間の問題であり、その当の肖像権者が許諾した以上、みんカラは物権が係争事項にない以上口をはさむことはできない。






物事は静かな世界に流れる。

2014年02月08日 | 思想

方丈記の世界ではない。科学の話だ。走った曲がったと、目に見える世界に興味をひかれても、原理原則にはむとんちゃくな人が多い。世の中が見えた通りなら学校は要らない。見えない法則が、実はわれらの目に見える世界を支配している。

コップの水に赤インクを数滴落とすと、インクはやがて水と混ざり赤い色はほとんど見えなくなる。ここから、最初の水とインクが分離した状態に戻そうとするのは、不可能だ。

地球上にある金の量は学校のプール2杯分だ。だがすでに人類は半分の一杯ぶんは使ってしまった。どうせ使った分も地球にあるからといって、使ってしまった金をかき集めることはできない。

インクにしろ金にしろ、赤い色素が偏在をしているとか、熱水鉱床に金が集まっているということ自体が、「騒がしい」状態であり「静けさ」を求めてモノは動こうとしていた。そして静かなほうに動いた。

色が水に溶けたインク。地球上に散らばってしまった金。均等で変化のない世界。行きつくところまでいった世界。これをエントロピー(おしまい)という。

水が高いところから低いところに流れ続けるのも太陽エネルギーがあるからであり、太陽が冷えれば海からの水分の蒸発はなくなり川は枯れる。水は静かな海から動かない。

すべて化学反応はこのようにエントロピーに向かった一方通行な反応である。

反論があるだろう。O2+2H2→2H2Oは右辺にも左辺にも反応は行ったり来たりする。たしかに。だが右辺を左辺に持っていくエネルギーは無限かな。左辺が右辺に移行したとき放出されるエネルギーを全部回収することはできない。

それはちょうどクルマのガソリンの燃焼エネルギーは、すべては運動エネルギーにならないのと同様だ。

先日エロDVDショップに入ったらちょうど停電になった。雷がひどく対雷回路が働いたようだ。真っ暗になったので出ようと思ったが、定置網にかかった魚のように出口が分からなくなった。

店員に来てもらってレジまで手を引いてもらったが、あわててお気に入りのDVDを握りしめていた。借りた。レジには乾電池が置いてあった。身障者の自立のための作業所で、バカチョンカメラをばらし乾電池を取り出しているという。販売している。

それだけならまあいいなと思った。バカチョンで使う電力はわずかなので再使用はいいことだ。

ところが電圧の下がった乾電池は再充電をしてるという。パルスで入れてるのかと聞くとそうでもなさそうだ。これこそ不可逆反応だ。危ない。

よく考えてからやらないと、ひいきの引き倒しになる。販売していた。

しかし僕は考えた。ここで電池を買えば、あたかも電池を買いに行ったような顔をして店を出ることができるな、と。でも手にはDVDが。道の向こう側には学校の女子がいた。覆水盆に返らず。不可逆反応だ。








「静」を詠む歌会始 天皇陛下、水俣の海に思い

2014年02月03日 | 和歌

新年恒例の「歌会始の儀」が15日午前、皇居・宮殿「松の間」で開かれた。今年の題は「静」。天皇、皇后両陛下や皇族方のほか、入選者10人、選者らの歌が厳かな空気の中で披露された。
2014年1月15日13時27分 朝日
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もっと早く書けばよかったが、書こう書こうと思いつつ事件が多くて後回しになっていた記事を書く。


〈天皇陛下〉

 慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり

「ぶり」という言葉がある。「ぶり」(らしさ)が役割を果たす時代は過ぎた。とうの昔に過ぎたことだ。だが、うけ継がれたDNAは刻々と書きかえられている。母を殴る父親からは乱暴な遺伝子と母の恐怖におののく不幸な遺伝子がその場で作られていく。証明されている。

だから、家老ぶり。大名ぶり。貴族ぶり。これらはそう一朝一夕にはできない。「広がる」「静か」とは終了を意味しない。殺人企業の罪状は、司法だけが決着すれば終わるものではない。しかし静かなのだ。それは悲しいから静かなのだ。人生の悲哀を味わってこなければ、なかなか言えるものではない。深い理解を表に出さない、心を打つ天皇ぶりだ。

皇族は宮内庁の添削が入るからよくできると思うものがいる。それは天皇に失礼だ。宮内庁は歌の内容には全く関与しない。皇族は教養が仕事なのだ。

以下僕がよかったなと思うもの。

〈永田和宏さん〉

 歳月はその輪郭をあはくする静かに人は笑みてゐるとも

〈群馬県 山口啓子さん(60)〉

 ひとり住む母の暮しの静かなり父のセーター今日も着てをり

〈東京都 中島梨那さん(20)〉

 二人分焼いてしまつた食パンと静かな朝の濃いコロンビア

 
 
 
 
 
 
 

ウソはしきりと絶叫する   9

2014年02月01日 | 東洋歴史

1903seoul_seodang_byherbertpontingこのシリーズもかれこれ一年になる。まるで公務員の仕事のようだ。遅い。いかん。急ぎます。

韓国のインテリ層には、冷静にものを見ることができる人がわずかながらいる。低能になるに従い盲目的な愛国者が増えるのは、両国同様だ。マインドコントロールの言葉は、常に分かりやすく疑いをはさみにくい。

日本ほどではないが、韓国にも良心的、科学的思想の持ち主はいる。今や実体験に基づいて政府のプロパガンダを否定できる人は死に絶えた。だからこそ社会科学の力が必要なのだが、韓国にその伝統はない。4千万人の政府の犬がいる。

これは一概に不幸なこととは言えない。犬は号令さえ変えれば何のためらいもなく右だ左だと向きを変える。

10年前、韓国は空前の日本語ブームだった。口々に、日本語は国際語ですから、と言った。聞いてもないのに言った。今や見る影もない。あっという間に大学の日本語学科の希望者は、10分の1に激減した。

クネの狂乱が収まればまた政府は号令をかける。日本語は国際語です、と。とたんに低脳は、日本にしっぽを振って日本語のテキストを開く。

韓国では今の時代は、信念を通そうと思うと命がけだ。交通事故とか、自殺とか、虫刺されとか、迷宮入りの他殺で死ぬことになる。そんななか、この本に出てくるソウル大の先生達に敬意を表する。僕の延世大は政府の犬ばかりだった。まともな人は海外逃亡した。

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「日帝強占期(日韓併合から日本の敗戦まで)の土地収奪」「慰安婦の強制動員」 

                                       アンビョンジク ソウル大名誉教授
                                                                                                              

日帝強占期には、あからさまな土地収奪はなかった。結論から申し上げますと、あからさまな土地収奪はなかった。それは、私達が全国各地に残っている「土地調査簿」とか「紛争地資料」とか「地籍図」とかを10年にわたり検討をした(結果分かったことである)。

当時の朝鮮人達の土地所有意識は、大変に高いものがある。そこで「お前の土地か、俺の土地か」に付いて、いい加減にしたはずはないのである。であるから最終的に民事裁判の土地所有関係の争いにまで発展した例は全国で2件しかない。

この点は研究途中のものもあり、公開したものではないが、なぜ韓国人は簡単に、(土地を取り上げられるような)紛争地について裁判を2件しか起こさなかったのか。確かめてみるべきだ。(あからさまな土地収奪があったならもっと紛争が起こったはずだ)

慰安婦の強制動員については証拠が一つもない。慰安婦問題のポイントは、どこにあるのか。慰安婦がいたということは言うまでもないことだ。それを否定できる人はいない。「慰安婦を強制動員したのかそうでなかったのか」がポイントだ。慰安婦を強制動員したという一部慰安婦経験者の証言がある。

しかし、韓国であれ日本であれ客観的な資料は一つもない。まさにここが問題だ。慰安婦の強制動員については証拠がない。日帝強占期に、裕福な人は娘を慰安婦に出さなかったし貧乏人は娘を慰安婦にした。つまりこのことは一定の自発性があったともいえる。(少なくともだれからも強制されてない)自発的慰安婦。それは客観的歴史的事実である。

                                 (からけん訳、カッコ内は訳者が付記しました)




鉄馬を駆れ。

2014年02月01日 | 思想

男は、鉄馬を駆れ。野を駆け山をめぐり獲物をねらえ。男はそうするようにできている。前も見ずにひたすらプラスチック板をこすり続けるのは人前でマスをかいているに等しい。

西鉄電車に3年ぶりに乗った。僕以外の全員が、スマホとやらをしていた。否定しない。どんどんすればいい。だが、おまいらの気になる一言を言う。いい女は来んぞ。スマホを持った歩く性欲のメス豚が股を開く。日本の邪魔、世界の邪魔、人類の邪魔よ。立って歩く豚がそんなにいいか。

以上は、つながりすぎ社会、というタイトルで感情を抑え上品に書いた。

僕たちは、星を見て、風を聞いて、日の光から自分の位置を割り出してきた。ヤップ人は、何千キロも島一つない海原を正確に旅をして目的の島に着く。頭の中にジャイロを置く。これは男の特性だ。

このジャイロのない男が増えた。それを恥としない男が増えた。

自然は、無駄なことはしないという大原則がある。何日も何カ月も、平原を、海原を旅することは、もはやない。

Y染色体が消えている。日本人の精子がうすくなっている。方向感覚がない男、馬に乗っても嬉しくない男が増えているのだから当たり前だ。自然は無駄なことはしない。

それでいいのか。男は男を、女は女を磨け。馬はクルマという鉄馬に変わった。だからなんだ。僕は、高校のときからバイクに関心のない男は、ホモかオカマだと信じてきた。後ろに可愛いのを乗せたときの気持ちを忘れない。僕は、世界の王者だった。とくにブレーキをかけたときの乳の感触は忘れない。

クルマだろうがバイクだろうがどっちでもいい。「おまえはいい女だから俺と来るべきだ」と言ってさらってくる自信があった。少なくとも立って歩く豚を乗せたことはない。いい男は、敵のいい女をさらってくるようにできている。そうして良いDNAはさらに良くなる。

ところがそのクルマに異変が起きている。ナビだ、スマホだと面倒な仕組みがついた。

右だ左だと指図するそうじゃないか。よく平気で乗れるな。週末料金は高いのに、例によって時間がないだろ。あわててナビでモーテルへ。安い部屋はふさがって、「ボタンを押してください」に従って汚い部屋に行く。湿ったシーツ。見たこともない怪しげなビール。不当に高いコンドーム。

まだまだナビが続く社会になる。「ボタンをはずして下さい、脱がせて下さい、押してください、引いてください。」