か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

人の目をかさで突いて、2年半の国

2021年03月16日 | 事件事故
物事を抽象し敷衍し判断する力を知性という。これはおおよその人間が共有するもので、これによってコミニュケーションが可能となり社会が形成されてきた。

自分に起こったことでなくとも、わが身のことと考える=sympathyの能力は現代人には必須の能力だ。

したがって、わが身に降りかかってからしかわからない人は、知性とか教養とは無縁の人だといえる。



わかりやすくいうと、されてみないと痛みがわからない人は教養を積んでいるとは言えないということ。存在が迷惑な人たちだ。


遠くシリアやビルマの騒乱が全くの他人事としてしか響かない人は、本来近代社会を構成してはならないのだ。 

共感する、本質を求める、対策を考える、…総合してしっかりとした見識を確立する。

社会がそういう人間の集合体であることが近代の様々なルール―の土台となっている。



ところが実態は能天気な人であふれている。

「何か面白いことはないか」「いやなことは考えない」「わからないことはなかったことにする」「自分さえ楽しければそれでよい」

苦を避け楽を求めるのは地を這う虫たちの特性である。虫にとっては隣の虫が生きようが死のうがどうでもいいことである。


ハエが隣の死んだハエを見て同情するか。対策を練るか、原因を探るか、不条理を嘆くか。


感情に任せ行動しても、その行動の結果が相手を盲目にしても2年半、
たいてい2年で仮釈放、コロナから隔離してもらって、健康な食事で糖尿も治り、ほとぼりも冷め、ほとんどタダで歯科治療、・・・

日本では裁判で「反省しています」と言えば何をしてもよい。

目が見えなくなった被害者の絶望感をなんと心得ているのか。目は二つあるからよいのか。もみ合った偶発的な事故だという。そんなら無罪にするべきだろ。

被害者は片目にされた。加害者には2年半の休憩時間が与えられる。図書館も風呂もテレビもコンサートもある。

わざと刺しましたと誰が言うか。反省してませんと誰が言うか。

ぼくも嫌なやつとは、もみ合って傘で目をつくことにした。とくに品川区で。


事件概要

東京・品川区のJR目黒駅前で男性(当時53)の目を傘で突いて失明させた罪に問われた男に対し、東京地裁は懲役2年6カ月の実刑判決を言い渡しました。


 会社員の荒川拓雄被告(49)は2019年、JR目黒駅前の路上で男性の右目を傘で突き、眼球破裂などのけがをさせたとして起訴されました。


 今月16日の判決で東京地裁は「被告は酒に酔った状態で、立ち止まっていた被害者に自分からぶつかって転倒し、腹いせに被害者に暴行して転倒させようとした」と認め、「動機は短絡的」と指摘しました。


 一方で、「手に持った傘を突き出したとは認められない」「目に突き刺さったことは偶然の要素が大きい」などとして荒川被告に懲役2年6カ月の実刑判決を言い渡しました。


3/16(火) 13:16
テレビ朝日系(ANN)




ね、   自分からぶつかって目を刺してもよいのです。

重症者が減るのはいいことか。

2020年12月27日 | 事件事故

重症者に出口は二つしかない。

回復し退院するか、火葬場の煙になるか。この二者択一のほかない。

 

そこで重症者が増えるということを算数的に考えてみる。もとより僕は重症者を新規感染者と同列に扱うことに不信を抱いてきた。

というのは、

例えば、

A

重症者が100人いて10人が死に新たに重症化した人が9人出たとすると重症者数は100-10+9=99人になり減少する。

 

 

 

ところが、同じ一人減の場合でも、

 

B

死者が出なくて一人回復したという場合も100-0-1=99人になる。

 

だから、同じ99人という数でもAとBとではその数字の意味が異なるのだ。数字だけみてもわからない。

 

 

ところが

印象として、重症者が火葬場行きになって減少する数と新規の重症者数が相殺されて日々重症者数が更新されているのを忘れている気がする。

新たに運び込まれる重症者の数のみに注目するようにわれらは誘導されていないか。

 

新たな重症者が100人出ても100人死ねば重症者数に変化はないということで安心している。

 

 

つまり申し訳ないが頭が悪いのだ。

 

 

こんな数のトリックは簡単にできるが、賢く本質を見る姿勢が大事だと思う。

 

その本質とは何か。

 

 

死者数だ。

 

9月に死者数が一日に二桁に移行した。この時死者数を重症者数に比して強調しないのは誤りだと僕はブログで言った。

小池は感染者数は増えたが重症者数はそれほど増えてないとして危機から目をそらした。まさに9月に。

 

重症というのは通過点であり問題は死者数である。さらには重症患者になる前に軽症から一気に危篤状態になる場合が死者の4分の1である。この場合は重症者数に何の影響も与えていない。

この流行病は死ぬから問題なのである。

 

これを覆い隠すように、一波二波と波を乗り越えて知見が高まったとか、流行の拡大とともに弱毒化するとかいうがそれはまやかしである。

 

我らは事実であることと真実であることを区別する科学性を持たなければならない。

「嘘」は事実によって構成されるのである。知見が高まったのも事実であり弱毒化もそのスパンを無視すれば事実である。100年スパンではコロナも弱毒化するだろう。スペイン風邪を見ても100年後の今日当該ウイルスは新型インフルエンザの出現で駆逐された。

 

ところが、問題は100年スパンではないということ。今そこにある危機がポイントだ。能天気な菅とその取り巻きは御用学者の集団ですら危機を訴えているのに経済との両立に固執する。

コロナを駆逐すること以外に経済回復は絶対にない。

 

今死者数は一日40人になった。3か月で4倍に増えたので来年はコロナゆえんの死者は2万人を超す。数式は省略するがこれは数学上の必然なのだ。

政治的には誤判断、無策、責任回避の連続なので、数値モデルのようにきれいな波の増加関数をたどっている。変曲点が一つもない。

 

「医療ひっ迫」も世論喚起に利用されている。

なぜなら、どうしてイギリスは日本の20倍の重症者を出していながら医療ひっ迫や崩壊を起こさないのか。

普段は世界に冠たる医療制度を誇りつつ、英国の20分の一の波で崩壊する。これは設備の問題ではない。システムの問題だ。

症状の重い順ではなく、どんなに軽症でも無症状でも入院順をルールにする以上急変患者には対応できなくなる。

 

 

仕事しろよ、菅。


mijica(ミヂカ)は、まじか!

2020年10月03日 | 事件事故

事件事故をについて書く場合は、最初に事件の概要を述べてそののちにぼくの意見を書くようにしていた。

だが今回は事件の概要を書く必要はない。そんなこと書いたら読者に失礼になる。

 

なぜなら、

ことがあまりにも単純だから。

 

郵貯から預金が不正に引き出された。

 

それだけ。

ぼくも郵貯に勤めればよかった。ジジババをだまして保険に入れた簡保不正勧誘事件もまだ尾を引いているのに、今度は郵貯からの不正送金。

不正送金とは不正確な用語だ。なんだか、預金者本人が何らかの不正をはたらいたような言い方だ。

 

正しくは、「預金が消えた事件」だ。

朝鮮には、

「猫に魚屋の番をさせる」ということわざがある。このときぬけぬけと魚屋は、取ったのは猫ですからという言い訳をしている。それが今回の事件だ。

 

魚の管理もできない間抜けな奴が魚屋をしてはいけない。

同様に、

カネの管理もできないヤツが銀行をしてはならない。

 

今回も保険詐欺勧誘事件同様、ジジババをバカにしている。

 

なぜなら、

社長は、「不正に引き出されたら補償します。」といったから。

それは、「預金者が不正を証明できたら補償します。」というむごい言い方だ。

 

 

今問題は、不正を知りつつ3年たってから初めて、補償しますといったこと。

読者はボーッと読んだらいかんよ。

 

「郵貯」には、1億口座ある。ということはジジババの口座が5千万口座あるということ。つまりジジババを中心にほぼ国民全員のカネを預かっているということ。

 

自ら調べようという気はなく、10月になってからも不正アクセスは続いた。

 

恐ろしいことじゃないか。「ゆうちょ」はほんの数件、3年前の被害の補償をしたことを強調して、なんだか、私どもは悪くありません、と言いたげだ。

それは黙っていればずっと補償しなかったということじゃないか。

 

しかも3年前の入金出金をジジババが記憶しているはずはない。

「申し出たら補償する」とはなんと残虐な言葉か。現役世代でもカードの入金出金をたとえ一年前でもたどれる人はパラノイアに近い人だけだ。

 

就職したかったな。こんないい会社はない。自分がミスをしておいて、相手はたいていジジババであることを見透かし、ちゃんと調べてね、おかしいところがあったら言ってごらん、… 

これで年収1億なんだから。

 

ぼくも馬鹿をだまして生きていこう。

 

滋賀県大津市のいじめ自殺事件を思い出した。いじめを隠蔽し被害者に責任を押し付けた。

「私(教育委員会)も被害者です。」

「本人が死んでいるから調べようがありません。」

人を死に追いやって楽しい人は滋賀県大津市に行こう。教育委員会もかばってくれる。

 

つまり両者とも当事者能力がないということ。


キャバクラ暴行死

2018年12月01日 | 事件事故

引用

 東京都港区新橋のキャバクラ店で昨年7月、従業員の与島稜菜(りょうな)さん(当時19歳)が顔を踏みつけられるなどの暴行を受け死亡した事件の裁判員裁判で、傷害致死罪に問われた店の経営者、伊藤英治郎被告(32)に、東京地裁(家令=かれい=和典裁判長)は30日、懲役11年6月(求刑・同12年)を言い渡した。

 判決によると伊藤被告は昨年7月4日夜、店で与島さんを殴り、顔を靴で複数回踏みつけるなどの暴行を加え、同10日に脳挫傷などで死亡させた。 毎日新聞2018年11月30日 20時01分(最終更新 11月30日 20時07分)

① こいつは気違いだ。100キロ以上の男が馬乗りになって執拗に一時間以上なぐり続けた。脳は一部飛び出し肋骨も多数折れた。残虐なのは殴り疲れると介抱するふりをしてやさしい言葉をかけ、ほかの従業員がいなくなるとまたリンチにかけた。それを死ぬまで続けた。

僕が納得いかないのは、すぐ死ななかったから暴行致死になっていることだ。つまり暴行や傷害によって結果的に死んだときに成立する傷害致死罪が適用された。

今日の救急医療の進歩は明治にできた法律を非常に古臭いものにしている。集中治療室に入れば24時間ぐらいは体がバラバラになっていない限り生命を維持できる。24時間持てば殺人ではなくなるのだ。

 

② 傷害致死の最高刑は12年だからなかなか最高刑は出しにくい。以後、これ以上の傷害致死がありうるからだ。そこで裁判官は半年残し11年6月にした。起算(懲役刑のカウント開始の時期)は逮捕の時刻からになることが多く大抵未決勾留の時期も含む。

事件は昨年7月に起きているから、残り10年勤めればいいようだが、その間に平成は終わる。(令和の大恩赦)  オリンピックがある。(オリンピック恩赦、未定) 大阪万博がある。(恩赦未定)どれかには引っかかるだろうから、あと7,8年で出てくる。

すぐだ。100%仕返しする。人殺しなのだから殺人罪にしないと、国民は危なくて外出できない。

 

③ 立法府の怠慢。裁判官は多くの場合、法と良心によって判決を出す。現実には多くの判例に支配され判例変更はよほどのことがない限りない。

明治時代に刑法ができたときは世界に冠たるものであり、量刑以外の点についてはその整合性に美しささえ感じる。ところがそのころは寿命が40年のころである。30歳で傷害致死を食らっても10年ぶち込まれたら終身刑を意味した。

今寿命は2倍に伸びた。今30歳の男に10年は何ともないばかりか恩赦恩赦で甘やかすから反省など一度もしない。絶対しない。

 

④ 僕は日本人の残酷さをこの点に一番感じた。ま、ここまで根気よく読む人は何らかの上げ足を取ろうと血眼になってからけん批判をしたい人だろうが、恥をさらすだけだから無謀なことはするな。

残酷。というのも被害者がシングルマザーであることを、ふしだらであることと結びつけ被害者を非難する論調がある。かなり強い。

「赤とんぼ」を歌ってみろ。十五で姉やあは嫁にゆきーー、だろ。誰がいくつで子供を産もうと他人がとやかく言うな。それを殺害される理由にするとはなんとむごいことを言っているのかわからんか。

キャバクラもしかり。パソコンオタクどもはちゃんとしたキャバクラに入ったことないだろ。大学生の合コンの方がよっぽど乱交だぞ。

僕は人の話をちゃんと聞ける人たちの世界とは、れっきとしたプロの世界であると言いたい。僕にとっては息をすることと同じくらい大事なところだ。

 

みんな他人事と思っている。発言例。私の子供はキャバ嬢じゃないから。キャバ嬢なんかするからそんな目にあう。…そうかそうか。人殺しはDENTSUにもいたが意味が違うぞ。こいつらは見境がない。裁判所も法律も検察も、そして国民も責任逃れをして知らんふりをする。そしてまた誰かが殺される。

 

 


男と連れ子は常に仲が悪い

2018年11月27日 | 事件事故

妾の子と妻の子も仲が悪い。妾の子と本妻の子が子仲良しなんてありうるのだろうか。明治時代は一定の社会的地位のある人は必ず妾を持った。金持ちほど制度を無視していいのは今と同じだ。

きちんとした教育を受け判断力を十分に涵養した家柄のいい男にそこらの学のない青二才が太刀打ちできぬ。できようものか。だから場合によっては女はバカな男の妻になると悲劇だが、そんなことならいっそ妾になった方がよかった。

 

翻って現代。そんな時代でないのは当たり前で、問題は、学も、人間性も、優しさも、すべてかけらも持ち合わせず勝手に母子家庭に転がり込む野郎だ。そして、そこの母子家庭の腐れたアパートにいる連れ子とは仲が悪くなる。必然的に。

70歳にもなれば社会がどんなものか見えてなければそれ自体で犯罪である。無能犯。

内縁関係は素晴らしいものだ。いつでも切れる。飽き飽きするほど繰り返される日常だがだ義務はない…ちょうど素敵な彼女と無限の金をもって世界旅行をするようだ。

しかし安易に悪人や貧乏人や低能がそれをすると悲劇が起こる。何人妾がいようと、十分な財産を残し、、生きているときは十分な教養を仕込み、一流の女に仕立て上げることができたらよかろうが、バカにそれはできない。

カネ持ちは、5憶10億をごまかしてもそれを取り上げられるわけでもなく、国籍問題で蓮舫議員を責めていた右翼は妙におとなしい。ゴーンは3重国籍だ。金持ちはすべてが許される。なりたいものに努力なしでなれる。貧乏人のなけなしの金は吸い上げられる。

自業自得とはいえひどすぎる。たとえ時給1000円でも16万/月*12=200万  ゴーンの一年に追い付くには税金など引くと400年かかる。ひと月を5万で暮らしたとしてだ。ゴーンが30年働くと1200年分だ

いくらバカでもそんなに差はないだろ。その低賃金に吸い寄せられてくるのは貧乏絶望不運孤独一番肝心なのは無教養。

女の連れ子と新しい男が殺しあって連れ子は死んだ。貧乏の周りはそんな話であふれている。争った金額が50万だったりする。

大した違いだ。

今後日産には南方の方が大勢来られるだろう。どうでもいい人たちだ。技術者は日産を去る。バカらしくてやってられるか。上は上で大変だろうが下は人が死ぬ。

 

引用

埼玉県新座市の路上で2月、男性会社員=当時(58)=を刃物で殺害したとして殺人と銃刀法違反の罪に問われた、茨城県稲敷市、無職高橋秋男被告(69)の裁判員裁判の判決公判が26日、さいたま地裁で開かれ、高山光明裁判長は懲役15年(求刑・懲役18年)を言い渡した。今後の生活に不安を抱えて、被害者を道連れにして自殺しようと考えたと指摘。凶器を準備して、なたで何度も切り付けるなどしたことから「強固な犯意に基づく計画的かつ危険なもので悪質。動機は身勝手で強い非難に値する」と述べた。

                            さいたま新聞 11/26(月) 22:31配信

 さいたま地裁

 

 


寝屋川 事件

2018年11月21日 | 事件事故

被告人に対し死刑判決が出たのは喜ばしい。(2018.12.19 大阪地裁 大阪高裁に控訴→取り下げ→死刑確定)

だが間違えてはいけないのは殺人罪に対する構成要件(犯罪成立に十分条件)を満たしたから死刑なのである。悪いこと、ひどいことをしたから死刑だったら今日の社会はブームに流される近代以前に逆戻りする。

どんな小さなグループでも、会社とか、組合とか、サークルとか、とにかくどんな集団であれ、一定の集団には本来、民主主義を否定する少数の構成員の存在を、その構成員自身が認めてしまう傾向がある。ワイマール共和国は民主的であったがゆえに独裁を許した。

日本人は、とくにそれに懲りているはずだ。(戦前のファシズム) なのに学校では、民主主義の本質とはなんであるかを学ばせないようにしている。どうでもいい学級委員の選挙はあっても校長を選ぶ選挙はない。西欧では校長は児童生徒や守衛まで含めて選挙で選ぶ。ほとんど輪番制といってよく権力を持つことはない。校長と教員の給与にほとんど差はなく、校長は授業も担当している。

日本のように戦前のファシズムさながらに、お気に入りをあるいは広島大出身を理由に校長を任命するところはない。法外な給与を与えている国も日本以外にはない。到底、民主主義のシステムが機能するはずはない。

流れに逆らうことのできる一人一人の正義感と倫理観とその強さがないと民主主義は成立しない。

 

今回の判決が不満なのではない。もっと早く殺しておくべきだった。なぜ前科10犯近く罪を犯した異常性欲を野放しにしたか。今更得意げに裁判所も警察も何を言うか。

 

ただ流れに合わせて流れていき、自分の子供さえ助かればいいと考える大多数の国民は、民主主義の危機を感じない。

その状況は不良の子供が一人二人死ぬことより恐ろしい思想をまき散らす。関東大震災の時、デマに酔い、自分を見失った、普段は善良で気弱なお父さんが、こん棒で人殺しをした。規模には諸説あるがとにかく殺したのは二人どころではない。

一方で、イスラエルでは全会一致の議決は無効である。異なる意見が存在しない社会は、ありえないと考える。不当な圧力が確実にあるような全会一致は無効なのだ。ところがおめでたい日本はどうだろう。全会一致は一番いいことだ。イスラエルでは、無理にでも反対意見を残し将来の改善の機会を保障する。

 

僕はそういう意味で裁判員制度には反対だ。すでに弊害が大きくなった。司法への住民参加は「12人の怒れる男たち」を現実化する。とくに高度の良心の素養と正義感と勇気がない日本人は、決定的誤りを犯す。流されるという誤りだ。

さあ、まともな中一のよい子が夜の九時半に女の子と一緒に人気のない商店街をうろつくだろうか。僕の娘はしない。させない。考えもしない。友達のうちに行く?嘘に決まってるだろ。その一言で夜9時に子供を外出させる家庭は非常識だ。

相手の家もそれを許す家か。夜の10時に泊まりますと友達が来る環境はまともな日本人の住む環境ではない。そして朝まで変態といて殺された。

こんな意見が出そうなものだが流れがそれをさせない。バカが勘違いしてよく文を読めずにコメントなんかでわめいてくるがもっと早く切るべきだった。

 

裁判員の評決は判決を正当化するのに役立った。それだけのことだ。不必要だ。住民の司法参加は、国会のみならず司法も衆愚司法をもたらした。

国民は裁判に参加してもしなくても、求められるのは高い知性だ。自分さえよければいいという考えを捨て、ほんの数年前に監禁罪を犯した男が街をうろつき不良アサリをする社会の存在を許さない国民であるべきなのだ。

 


やっぱり新潟県

2018年10月11日 | 事件事故

10/11(木) 16:31配信

産経新聞

 新潟県新発田市の市立中2年の男子生徒=当時(13)=がいじめを苦に自殺した問題で、同市の山田亮一教育長が11日、遺族に不適切な発言をしたとして二階堂馨市長に辞職願を提出した。二階堂市長は受理し、17日付で辞職を認める見通しだ。

 この問題では、山田教育長が5日、父親の自宅に謝罪に訪れた際、「(保護者説明会に)お前も来るか」などと話したとして、父親が不快感を示していた。

 山田教育長と父親は小学校時代の担任と教え子だったが、父親は「この場ではあり得ないと思った。(自殺のことを)軽く見ているのかなと思う」と指摘。

 

常識がない人はどこにでもいる。とくに小学校にいる。さらに、とくにその中で任命されて長の付く位置にいる人は常識のある人を探すのが困難だ。

僕も田舎の「長」達にはほとほと手を焼いてきた。基礎的学習をしたことがなく、あるとすれば研修という飲み会もしくは物見遊山。

こいつらは、人をしかも遺族を、つまり、子供の死に大きく関係ある当事者たる被害者に向かって「お前」といえるそうだ。

背筋が寒くなる道徳観念だ。

知事は女子大生売春婦を買い「いいお客さんだった」と言われている。この知事にしてこの教育長ありだ。(前知事)

地方分権は弊害を生む。自殺問題、いじめ殺人などの緊急事態に適切な手を打つには行政にたけた中央を知るものが残念ながら必要だ。

 

「わたくしの指導がいたらずこのような事態が招来しましたこと、その責任を痛感しております。今後は再発防止に全身全霊をかけることをお誓い申し上げます」。これぐらい言えよ。バカはどこで迷うかというと、責任を認めると任命権者である市長の立場がなくなるが、責任を認めたものかどうか、子供同士のいざこざなんだから「長」は第三者と考えてよいか。

などと小学校の頭は混乱する。どうしていいかわからず人と人との位置関係が分からなくなるバカの一般的な傾向で、申し訳ないが、というか当たり前だが、小学校の先生のすることといったら子供をなくした親に「おまえ」よばわりすること。遺族すなはち親に対する犯罪性が分かろうものか。

勉強なんてしたことないだろ。何ができる?おい山田。おい山田。おいお前。

また新潟は笑いものになった。責任をとれ。辞職じゃ済まんぞ。


のぼせ上がる老人  2

2018年09月07日 | 事件事故
<引用開始
 

村井俊治 @sh1939murai
 
 

今朝未明に北海道の胆振地方中東部でM6.7、震度6強の地震が起きました。要注意エリアでした。苫小牧から札幌にかけての1帯が最近大きく沈降をしていました。沈降帯のすぐ東側が震源でした。震源は東西変動成分で互いに押し合っている境界に位置していました。境界周辺にはひずみが貯まっていました。


目達原のヘリが目的地外着陸をした

2018年05月18日 | 事件事故

引用

防衛省に入った連絡によると、5日午後4時43分ごろ、陸上自衛隊目達原(めたばる)駐屯地佐賀県吉野ケ里町)の南約4キロの住宅街に、陸自のAH64D戦闘ヘリコプターが墜落した     2018年2月5日21時03分 朝日新聞

もう3か月になるのか。人間の習性として一刻も早く真実を知りたがる。それは通常のことで、問題は、時間が過ぎたことが、最初っからなかったことになっていくことだ。

とくにこの頃は、スマホ見たらね・・・とか、~だってみんな言いよるよ(言ってるよ)、と情報が僕らを支配する。判断を迫る情報はない。事実の羅列だ。しかも操作された情報は上手な嘘を言う。墜落だろ。死体が焼けて犬ぐらいの大きさになっても、「着陸」か。

新潟でロリコンが女児を電車にひかせた、といえばぼくらはもう判断の余地を取り上げられている。判断しないまま詳細を知りたがる。詳細を知って何になるかは考えない。ひどいことに詳細は真実とは関係ないのに、詳しいということが得意の情報通は、真実にも近いと評価される。よいマスコミとは早く詳しいマスコミなのか。

とんでもない。遅くともいい。正しい解釈を示そうと努力するところだ。日本にはBBCやルモンドやNYtimes、アルジャジーラはない。

周囲と一緒に憤らなければ犯人の側に立たされる。だから不必要に、過度に、憤る。いい例が新潟県知事の場合だ。職務に影響はない。

 

というと、新潟の顔なんだからスケベ知事は恥ずかしい。こんな意見が主流だが、代表というのは県民の政治的意思の総和を実現しようとする代表であり、、このばあい公務に影響してない。

僕は必死に新潟県知事が筋を通したいい男だといったが、県民からは誤解された。悪いことはしてないから逃げ回らない。顔をそむけず恥を語った。言っとくがエンコーが悪いならきちんと立法化しろ。法治国家だろ。それはエロ業者の圧力で罰則なしのあほな法律になる。悪い、と、違法は全く異なる。

同じ新潟県出身の総理は妾を国有地に住まわせていた。さあ、批判してもらおうか。新幹線を持ってきたら帳消しか。無節操な県民だな。

 

 スポーツと暴力の区別ができない日大のアメフト監督。理事じゃないか。流石日大だ。逃げ回っている。これこそ男らしくない。

情報は精査すべきだとバカが簡単に言う。しかしその当事者である場合、何が本質か、何が今後の課題か、その優先順位はどうつけるか・・・、当事者でなくとも事件に対し常識的な判断とは何だろうと考え自分の常識力を保つため社会事象に関心を持つべきだ。

簡単ではない。僕はよく間違える。しかし、ミーハー低能その日ぐらしに対し、自信を持って言えることは、僕はまじめに考えている。

エンコー悪いよ、子供殺し悪いよ・・・バカでもわかることにしか馬鹿は反応しない。後になって考えると、とんでもない間違いをしていたり、権力がとんでもない隠し事をしていたりする。

もちろん馬鹿に期待するものか。逆恨みされたので懲りた。しかし判断力を持つ人は義務を負う。必ず真実を求めねばならない。

ノブレスオブリージュ


人を殺すなら神奈川県におびき出せ

2017年12月27日 | 事件事故

前回書いた事件とは別の事件であることをあえて述べてまずは引用から、

川崎市の多摩川河川敷で中学1年上村遼太さん=当時(13)=が殺害された事件で、殺人罪などに問われたリーダー格の少年(19)を懲役9~13年の不定期刑とした横浜地裁判決が25日、確定した。

出典:懲役9~13年が確定=リーダー格の少年―川崎中1殺害 時事通信 2月25日

朝鮮、中国には「衡平」という言葉がある。「こうへい」と読み「公平」のようなことだが、とくに二者のそれぞれに行われた褒賞や罰が、誰の目にももっともであることを言う。電気に詳しい方は平衡フィーダーとしてこの漢字に出会われたことと思う。つりあい。

そこで上記の事件の判決と下に引用する事件の判決がはたして「衡平」性があるのかということを問う。一昨日の刑事判決についてである。

引用

12/26(火) 17:46配信

毎日新聞

 神奈川県平塚市の認可外保育所で生後4カ月の男児が死亡した事件に絡み、保育所にいた別の女児らにわいせつ行為をしたなどとして強制わいせつと児童ポルノ禁止法違反(製造)の罪に問われた元保育士の角田悠輔被告(36)に対し、横浜地裁は26日、懲役15年(求刑・懲役18年)の判決を言い渡した。  引用ここまで

単なる変態保育士による殺人事件のようだが、男児死亡事件と女児わいせつ事件は同一の角田被告の犯行であることが極めて濃厚であるにも関わらず、判事、検事、弁護士は公判前整理手続において分離審理に同意した。(別の裁判にした。)

この同一犯による、ほぼ同時進行された事件を裁判の迅速化だけのために分離審理した。このことが他の事件と大きく公平性を欠く判決に行きつく

公判前整理手続き(こうはんまえせいりてつづき)とは裁判が始まる前にこの3者が裁判の進め方や証拠を任意に出し合い能率的に公判の迅速化を図ろうというもの。

で、被告には前科累犯がある。服役もした。神奈川県はそれでも保育士の免許は取り上げてない。プラス嬰児(生後4か月)殺しプラス当該保育園女児に50回のわいせつ行為。客観的に見て被告が死刑にならなかったら日本は死刑を廃止したことになる。

ここで言いたいのは全体の罪の軽重ではない。罪刑法定主義。罪の軽重の大枠を決めるのは立法府の役目だ。今回は論点ではない。

とにかく裁判のスピードアップのために嬰児殺しと50回におよぶ女児に対するわいせつ行為は分離して裁判することになった。そして一方の事件、50回におよぶ女児に対するわいせつ行為について15年の判決が下りたのだ。

わいせつ事件として懲役15年なら、殺しは25年だろう。だんだん英米法の世界になってきた。罪状の積み上げ方式。足し算をすると懲役40年だ。

それぐらい食らって当たり前だ、この変態野郎、人殺し。この国は人殺しが死刑にならない国か、…という声が聞こえる。

おまいら、みそもくそも一緒にするな。

死刑にしようにもできないのは分離審理を決めたからだ。合わせ技一本で罰は決まるべきだ。ところが一部の犯行に対し判決が出た以上、二度とそのことをほかの起訴内容に加重してはならない。(二重処罰の禁止)

元保育士の角田悠輔被告(36)は、15年食らったわいせつ事件はどうでもよく、殺しがどう裁かれるかが関心事だろう。

裁判所は、変態雑魚はさっさと始末したいのだ。分離してそれぞれさっさと結審する。どっちみち死ぬまで娑婆には出てこない。こうして分離できない、あるいはしてはいけないものまで細切れに判断する。これでは大枠としてのバランスが狂ってくる。一つの事件はそれでよかろうが他の事件との「衡平」性(=つりあい)が狂う。

一事不再理は何のための原則か。公判前整理手続きには異常に熱心で能率ばかりを優先する。裁判に素人を混ぜ裁判員制度を強行したの負の側面だ。

公判の迅速化は結構なことだ。だが、してはならぬことをしてまで行うほど裁判員制度は伝家の宝刀ではない。

結論

それぞれ上村君事件も嬰児殺しも、似た状況の下での事件だ。抵抗できないものをうっぷん晴らしのために殺す。とくに嬰児ごろしの角田被告は残忍だ。だがそこらの人殺し不良が懲役10年なのに、わいせつ写真を50回とって懲役15年は「衡平」性を著しく欠く。

 

 

 


人を溺れ死にさせても見逃す国が、どうして国民をミサイルから守れるか

2017年12月23日 | 事件事故

<引用  毎日新聞2017年12月19日 18時30分

川崎市多摩区の多摩川で昨年12月、横浜市瀬谷区の少年(当時18歳)が死亡しているのが見つかった事件で、横浜地検は19日、殺人容疑で逮捕された東京都調布市の無職の男(22)▽同世田谷区の指定暴力団・住吉会系組員の男(21)▽同区の無職の男(22)▽埼玉県三郷市の無職の男(21)--の計4人を不起訴とした。

 

またまた痛ましい事件だ。犯人のうちだれか一人が主犯であるのか、あるいは、共同正犯であるのか、これを特定しなければ日本の裁判では公判が維持できない。

したがって、だれかがやったことには間違いないが、誰がやったかわからないときには検察は事件をなかったことにする。検察の主たる仕事は治安維持だから。

給料も安い。うまく昇進しても年1500万程度だ。試験の困難さからすると見合った額ではない。

僕らみたいな小さなゴミみたいなバイク泥棒に関しても、警察の関心事は事実確認だけで説諭を受けたことはない。

警察は少年からけんにこう言った。誰が言い出したか、誰が最初にバイクに触ったか、一番積極的だったのは誰か…もし捕まると事実を厳しく追及される。だが起訴はない。

人間は学習する生き物だ。起訴がなかったら罰もない。罰がなかったらまたやる。今回の人殺しも同じだ。

福岡県ではバイクは盗られた人が悪い。しかし家の中に置いている現金150万円を泥棒するのと同じことをしている。中学生に蔓延するバイク泥棒はしていいものだという道徳は警察が作った。神奈川のように人殺しをしていい県ではないが、泥棒はしていい。正される日は来るか。

ま、無理だな。治安維持とは関係ない事件だ。全員がバイク泥棒になって騒乱状態になりそうなときはバイク泥棒を捕まえる。

今回の事件もそうだ。街のチンピラの勢力争い、金銭問題なんかに検察がやってられるかという気持ちがある。違うと言い切るならこの住吉会系が犯人でなくとも真犯人を探す努力を続けろ。

 

流石に冬裸にして川に蹴落とすという残虐な殺しとなると世間の目もあるので捜査をしたが、検察は不起訴にしやがった。住吉会からは感謝状がいくべきだ。

現場の警官の悔しさを察するとまさに怒髪天を突く心情だろう。何のために口の堅い証言者から苦労して証言を得たんだ。非番の日も働いた人もいるではないか。証言者も何のために勇気を振り絞ったんだ。チクリの復讐は死だ。

人間の怒りとして当然だ。よくわからないバカな人は冬の川で全裸で泳ぎなさいよ。あがってきたら僕が沈めるから。悔しかったろう、寒かったろう、無念は晴らすぞという警察の思いに検察は答えていない。

不起訴とは、次のような場合だ。人違いでした、まったく犯人と関係ありません、勝手に18歳の少年は全裸で寒中水泳をしてました、この少年こそわいせつ物陳列で逮捕すべきでした。そばにいて止めたけど聞き入れてもらえませんでした。こういうときが不起訴なのだ。あ、よく考えると30年前の事件でしたとかいうときも(時効)。

ほかに嫌疑不十分で公判の維持が確実でないときは、せめて起訴猶予という手もある。検察自身が捜査する権能がある。こうするのが順当だ。警察は証拠と熟慮の果てに送検するから、今度は検察の番だ。黙って合理的な理由も示さず不起訴にするのは反逆だ。

本当に人違いだったとしよう。そしたら警察を指揮し、情報を共有し、捜査を継続するのが当然だ。

自己保身のためあるいは自己の虚栄心のためならどんなにむごいことをする。それが検察か。事件処理において人権を中心におく検察のすることか。無罪判決が出たらカッコ悪いもん。ぐらいの事だろ。

80年代の正義感に燃えた侍はどこに行った。

事件発生は、ちょうど今頃だろ。神奈川県では人を殺してもいいのだ。じゃあ俺が殺すから警察と検察は川で泳げよ。

約束だ。


熊本ツーリング Ⅵ  熊本を助けるな

2017年06月05日 | 事件事故

人の不幸を覗きに行こうなんて余りほめられたことではない。益城町。遠くから見た限りでは、古い家の被害があきらかに大きい。ぺしゃんこの家も残っていて、まだ片付いていないところも多い。一方で、隣り合わせに何ともない家もあった。

僕は災害というのはごく直後の緊急事態を除いては、自力更生が本筋ではないかと思う。自己救済ともいう。

なぜなら人は他人を助けないからだ。身内であっても助けない。したがって身内という概念はもはや消滅している。

いやいや、人は助け合って生きているのだという人がいる。こういうのは、耄碌した公民館長の訓示によくあるじゃないか。

「人」という文字をよく見なさい、一つをどけるともう一つも倒れてしまうのです、だから助け合いは大事ですと、日本の津々浦々で何万回も繰り返されカビの生えた言い草だ。

ごまかすでない。じゃあ、僕は不幸だから助けてもらおうじゃないか。障害者がいるからボランティアに来てくれないか。

3年、5年じゃかえって迷惑だ。へんにそのボランティアを含めた形で生活のリズムが出来あがると、そのあとがどうしようもなくなる。

人を助けるとは一生死ぬまで助けることだ。僕は言う。それができないなら何もしないほうがよっぽど人助けだ。他人の人生に土足で入ってきて飯を配り掃除洗濯をして、飽きたらさっと帰る。こんなむごい話があるか。

益城のものは死ぬまで益城に住むんだぞ。ちょろちょろ1,2週間善人面しに来て、いったい誰のためになると思うのか。

第一、ずっと熊本に生きてきた者は、自分こそが自立してない坊ちゃんジョーちゃんとは違うぞ。そんな都会の、火も起こせない、飯も炊けない良い子たちに同情されたくない。

僕の知り合いも死んだ。僕は眺めて通り過ぎる。助けない。僕の知り合いは言っている。死んでも人のお恵みは受けない。それが「肥後もっこす」(プライド、正義感、あふれるやさしさを外に出さない、やせ我慢でもいいから男は威張って生きるのだ、という人たち)だ。

おまいらへなちょこ、熊本頑張れなんて絶対言うな。

 

 

 


諫早大洪水  締め切り堤防 3

2017年04月19日 | 事件事故

画像の左が湾の奥、右が有明海側。

僕の家はこの位置から70キロほど離れた有明海の一番奥にあった。海岸からは10キロぐらい離れていた。気候風土は日本的ではない。中国江南の雰囲気だ。非常によろしい。

そんな田舎には気が遠くなるほどの金持ちがいる。都会の金持ちなんていくら稼ごうと自転車に上手に乗れただけだ。止まれば倒れる。

100年前は名字(みょうじ)もなかった人が名前を奪われたと朝鮮では騒いでいるが、日本のいなかの庶民という貧乏人も同様だ。

そんな中にいる金持ちはすさまじい。家の庭の池を有明海に形にし、干満の潮の動きに同調して池の水位が変化し干潟の位置が分かるようにしていた。ある藩の家老の庭であるが、彼はDNAに刻まれているのだろう。いわゆる家老顔をしていて、どんな時もおっとりとその場を丸く収めた。すぐけんか腰になる貧乏人ができることではない。

今風に言うと総合商社の水産担当重役と言ったところか。本人から聞いたかどうかは忘れてしまった。というのは柳川の人はみんな言ってる。海は死んだ。死んだ者は生き返らない。

有明海はゆりかごを失った。極めて遠浅の諫早湾は魚の大きさに応じて近づける岸からの位置が決まった。つまり大型魚は小型魚が産卵するところまではいけなかった。魚はその種類と大きさに応じて干潟を利用して自分たちの安全圏を得ていたのだ。

生まれた稚魚はその大きさに応じてゆっくり沖に出て、やがては有明海の懐に抱かれていく。その諫早の大事なゆりかごを壊したのが農水省である。タイラギ(二枚貝、貝柱を食する)は絶滅した。

僕が小さいころ、親はご飯を節約するためタイラギ飯を作った。実際にはタイラギに少しご飯粒があるだけのもので、それほど大量にとれたということだ。

今後どんなに環境が改善してもこんなに豊かな海は戻らない。タイラギはもういないのだから。

ノリはかえって豊作だというバカがいる。お前はノリを魚と思っているな。

 

世紀の愚行であるということは、建設前からの常識であった。周辺住民は目の前の補償金に飛びつき生活を失った。

今入植農民と漁民が対立している。実に痛ましい。犯人は霞が関で笑っているぞ。

言いたいことのうちわずかしか書けませんでした。飛躍した文章があり読みにくかったと思います。しかし僕の真意は伝わったと思います。先日船で沖に出るときれいな砂が見えました。僕は震えが来ました。砂。砂。有機質の中で蠢(うごめ)く微細な生物の集まる潟ではなく、砂。農水省さえなかったら豊饒(ほうじょう)の海は残ったのに。

 

 


諫早大洪水  締め切り堤防 2

2017年04月18日 | 事件事故

有明海の河口。肥沃な沖積平野が広がる。水田耕作には、完全な平面だとかえって適さない。水が排水できないからだ。水田というくらいだから大量の水もまた必要であり、両者のバランスから1/200の傾斜が適当であるとされる。

人間の目には水平に感じられるが、このわずかな傾斜が農業の先進地域を作り、10俵/ヘクタールを下らない。14俵作る人もいる。平均2ヘクタールだが5ヘクタール以上の農家数は毎年増加している。

この平野は、ほとんどが人工の平野である。1000年以上を要して少しづつ干拓を進め現在の地形になった。干潟こそがその1/200を提供してくれた。

有名な吉野ケ里遺跡は海岸から40キロも離れるが、付近には「潟」とか「浜」のつく地名が多い。

つまり少しづつ干拓していったことの何よりの証拠だ。

これは重要なことで、数十年スパンで、わずかに数十メートル。この規模で海岸線を伸ばすと、干潟は堤防の向こう側に年月をかけ形成される。1000年干拓を繰り返しても干潟が無くなることはない。

では、なぜ干潟が重要か。この有機質の宝庫は、カニ、貝、ムツゴロウ、鳥たちの食物連鎖を形成しているのだ。この海に住む固有種は20種類に達する。三角貝はカンブリア紀からこの海にいる生きた示準化石だ。

アサリは一搔きすると5~6個採れた。鳥は海と陸地を往来し共生の橋渡しをしてきた。浅い海は温暖な気候をもたらし植物(稲)の生育を助けた。

桜の開花、梅の開花、霜日数、様々なグラフが有明海沿岸部がいかに干潟の恩恵を受けているか示している。

その千年にわたる共生しながらの農耕地拡大と、数秒で海を遮断したことを同列に論じてはならない。有明海の一部であった諫早湾は有明海のゆりかごと呼ばれてきた。(この理由は次回)

その締め切り堤防の外側に、もはや干潟が再生されることはない。黒潮の分流によって有明海には常に右巻きの海流が流れる。だがその流れは諫早湾に流れ込むことなく速度を上げ有明海を回る。諫早湾に蛇行することが無くなったから。

なぜなら、もはや諫早湾はないのだ。遠浅の諫早湾が締め切り堤防で消滅すると当然に有明海は豊饒の海から酸欠の海に代わる。植物プランクトンを遮断しておいて、どこで酸素ができるか。 レイチェル=カーソンの"Silent Spring"は見たくない。

つづく

 

 

 


諫早大洪水  締め切り堤防

2017年04月17日 | 事件事故

国営諫早湾干拓事業(諫干、長崎県)の干拓地の営農者らが国に潮受け堤防の開門差し止めを求めた訴訟で、長崎地裁は17日、差し止めを命じる判決を言い渡した。諫干を巡る訴訟で開門差し止めを認める判決は初めて。

2010年に国に5年間の開門調査を命じた福岡高裁判決が確定しており、確定判決とは逆の請求を認める判決は極めて異例。     毎日新聞から引用

 

 

 

 

僕が社会問題についてくどく言うのは、本質の追求に際し詳細であることにこだわる人が多いのを批判するためだ。

つまるところ物事を判断するときの時間軸の必要性についてだ。

より広くとか、偏らないでとか、相手の立場を理解してというようなことは日本人が好きな言葉だ。が、本質的なことではない。

とくに偏らないということに異常に神経を使うのがこの民族だ。すると自動的に最善の道とは中立であることになる。何も考えなくてよい。思考停止のアホにも一定の立場が与えられる。あの人は偏らない意見を持っている、と。

あるいは、事実であるかどうか。これもさして重要な問題ではない。むしろ、本質ではない事実が都合の良いものであるとき人はこれにしがみつく。そして誤る。

このように事実でうそをつくことは簡単だ。とくに昨今、文字を仲介としない合成映像が哀れな国民をだましていた例は多い。

 

 

冒頭の引用のように、諫早の堤防を閉門したままにせよという判決が今日くだった。もちろん福岡高裁の判決はすでに降りているので抗告は棄却されるので実効性はないが、農水省の意地の堤防建設は地元に不要で根深い対立を残した。

 

断言する。必ず事件が起こる。人はパンのためなら何でもするのだ。堤防の内側の新規就農者VS漁獲が0になった漁業者。

訴状は、積み重ねると1メートル以上になる。堤防の是非については後回しにする。

 

 

まさにその時間軸に沿ってさかのぼる。

将来をを嘱望された神童、からけん少年が冷めた心で小学校に通っていたころ水害が起こった。何十体という死体が膨れて近所の漁港に漂着した。

一日に1000ミリ以上という降水量はいまだに日本の最高記録である。約1000人の人が亡くなった。土石流による圧死だ。

ここに目を付けたのが当時の農林省だ。いつも建設省に土木工事の美味しいところをさらわれ天下り先に不自由していた彼らには、まさに天祐の洪水であった。

締め切り堤防という在ってはいけないものも人命救助、災害調整を理由にすれば素人は騙されると踏んだ。

なぜ在ってはいけないか。造る理由が嘘だからだ。水害が起こりそうな町より上流に洪水調整池があるのは当たり前で、土石流で死んだ人のはるか下流のしかも海に洪水調整池があっても役に立たない。

その証拠に堤防完成後にわずかの雨で諫早市は洪水に見舞われている。

農林省もさすがにこのいいわけには無理があると考えて次の屁理屈をこねた。あ、そうだコメ農家を増やそう。これも間もなく始まる減反政策でウソがばれる。それがだめなら野菜にしよう。これも極度の人口流出長崎県は地方破壊政策で立ち直れなくなっていた。そこで過剰に良い条件で全国から農家を集めた。

つまり何でもよかったのだ。しまいには長崎県はこういった。長崎県には平野が少ない。締め切り堤防で平野を増やすんだ。ばか。じゃあ滋賀県も平野が少ないぞ、長崎どころじゃない。琵琶湖を埋めようじゃないか。

堤防自体より、国民をだます目的でウソをつき、ばれそうになるとまた別のウソをつく。そういう不真面目な姿勢の農林省は農水省と看板を変えても同じ過ちを繰り返していく。

 

長くなりましたのでシリーズ化します。