か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

Rudolphs Sammlung

2017年12月14日 | 西洋歴史

卓上時計

 

ルドルフ2世は、父がプロテスタントに理解を示したため、その影響を嫌うハプスブルグ家はカトリックの牙城スペインに彼を送った。やがてそこでカトリックを信仰した。また、弟との不仲は弟の勝利に終わり神聖ローマ皇帝の帝位をはく奪される。

帝位にいたときプロテスタント弾圧は過酷を極め、ドイツ30年戦争の遠因を作った。

こんな自画像を描かせていた

人間は厳格な人もいれば寛容な人もいる。一人の人間でありながら厳格冷酷と寛容温和をうまく使い分けるのが支配者の必須の条件だ。この使い分けが全くできていなかった人がルドルフ2世だ。

しまいにはうまくいかない世の中が面白くなかったとみえ、現実逃避、空想の世界に浸る。城から出ることもなく、宗教対立、迫りくるトルコ帝国の脅威、没落するハプスブルク家…まさに内憂外患だった。

彼のコレクションは狂気を帯びている。王であったころ庇護した科学者のような、占星術師のような、錬金術師のような、わけのわからないものの中からすさまじい人物が出た。わけわからない人物を自由に活動させる度量だけはあった。

彼が権力を失うと同時に、研究成果、絵画、工芸、その他収集品は散逸、盗難、破壊される。

泥棒達には何の魅力もなかったケプラーの著作は、良く残っていた。「ケプラーの法則」自体を述べた本はなかったが、その他の本でも十分力作であることが分かった。

ルドルフはケプラーをことのほか庇護した。

このころは、あのコペルニクスでさえ天体は円運動をしていると信じていた。望遠鏡というものがなかったこの時代、天体観測は肉眼で行われた。弱視の彼は助手を置くが、計算は一人でするしかない。

ぼんやり読んではいかんぞ。空を肉眼で見ているだけで惑星の軌道が楕円であると分かるか。しかもほとんど円に近い楕円。ケプラーはそれをやり遂げた。

惑星や一部のすい星は2個の焦点を持つ楕円軌道を進む。2個の焦点からの距離の和が一定になるように進むのである。そのころわが国は関ケ原の合戦をしていた。

どうせラテン語で書かれてはいるが大体似ている単語もあるのでケプラー予測のところを見たかったがケースの中に入っていたので残念だった。1998年に解決されたとされたが、僕は反論がある。

2008年にも計算をやり直して真実性を高めているが、そんなことをしても数学ではない。ただの計算だ。法則は証明を求めている。

本物に接するということがいかに大事なことであるか。これがバカには一生分からない。それをわからせるのが学校教育の務めだ。暗記ごっこでお茶を濁すバカの集会所になった日本の高校に将来はない。

別の機会だったが、「プリンピキア」に素手で触らせていただいたとき体が震えた。理論のすごさを通じて先達の努力や誠実さを学ぶ。そして、最終的にはScienceに対する畏敬の念を抱く。それが自分の人生に誠実に向き合うことになる。学校はそのためにある。

理解しないバカほど頭(ず)が高い。


マドリード発 緊急電!

2012年12月19日 | 西洋歴史

旧制秋田中学、現秋田県立秋田高校。文武両道、質実剛健の素晴らしい高校だ。生徒の自主性を尊重する学校だ。将来必ずもっと伸びる。

はるか戦前、須磨弥吉郎はそこを出た。教師の道をめざしていた彼は広島高等師範に進む。しかし、急を告げる時局は彼をそのまま教師にすることを許さなかった。自分が国のお役に立つには、と考えた彼は外交官の道を選ぶ。中央大学時代から彼の才能は抜きんでていた。5ヶ国語を自由に操れるよう努力した。

彼は赴任国にスペインを希望した。これには彼なりの深い読みがある。

ファランフェ党の党首であり国家主席のフランコは国内の人民戦線の抵抗に手を焼いていた。すかさず恩を売ろうとルフトバッフェ(ドイツ空軍)は人民戦線の根拠地を叩き壊滅させる。フランコは状況を見るのにヒトラーより冷静だった。

恩着せがましく枢軸国としての参戦を要請するヒットラーに対しフランコは言を左右にして中立をつらぬく。

銃殺で国民を恐怖に陥れる軍と資本家とゴロツキと密告屋の巣窟ファランフェ党は、親日的であった。

そこの公使として赴任する須磨弥吉郎はさっそく東(TO)情報機関というのを作り米国にスパイを放った。この情報機関に協力するのがファランフェ党の創立にもかかわったベラスコだ。

アメリカも必死になってこの実態を暴こうとアメリカ国内の敵を追跡する。一部は射殺することができるが情報は須磨のもとに流れる。

ベラスコはプロのスパイだ。本来カネにならぬことはしない。しかし須磨に接するうち日本の外交官の清廉潔白さに共感するようになる。友情が芽生えるのだ。

二人の粉骨砕身の努力はマンハッタン計画の存在とその進捗状況を把握する。千度の高温で人を焼く。人はここまで残忍になれるのか。一刻も早くこの戦争をやめなければ大変なことになる。

二人はダミーの家を建てその中にアンテナを置き外務省に打電した。外務省にはその電報が残っている。きちんと日本で受信されたのだ。ところがそのあとがうやむやだ。

ベラスコは死ぬ前に泣いた。須磨と私はなんのために頑張ったのか。大好きな日本が燃えることはなかったのに。

今回の北朝鮮の人工衛星に対して、お粗末な政府の対応を見ると敗戦直前の無能政府と重なる。

Posted at 2012/04/14

Schlacht von Austerlitz

2012年11月15日 | 西洋歴史

アウステルリッツ三帝会戦。ここら辺になると混乱して何が何だか分からなくなっている受験生も多いだろう。まだまだ間に合う。ブルボンのアンシャンレジームが倒れたところから。

栄華を極めたブルボン王朝(Maison de Bourbon)も怒る国民のスローガン(Ancien régime)の下にあっけなく倒れた。文化的にはMaison de Bourbonが残したものは多い。いわゆるフランス刺繍。マリーの衣装だけのために年間30億円が投じられた。僕はブレゲ以上の上品な時計を知らない。しかしパリの貧民にとってはそれらすべてがベルサイユのあだ花に見えたのだ。

揺れるフランスに恐怖感を持った周辺国がいた。周辺国は革命の輸出に怯えたのだ。貴族は既得権喪失の恐怖におびえ貧乏人は愛国心に燃えた。オーストリア 南ネーデルラント(オーストリア領ネーデルラント) グレートブリテン王国(イギリス) ナポリ王国 プロイセン王国 サルデーニャ王国 スペイン王国 は団結し対仏大同盟を結んだ。

しかしナポレオンの登場によりフランス国民の士気は大いに上がりやがてこの大同盟は崩れる。(第一次対仏大同盟)

ナポレオンがエジプトでネルソンの艦隊に敗北するとこの時とばかり再び周辺国は対仏同盟を結んだ。
オーストリア グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス) ロシア帝国 オスマン帝国の4カ国である。

しかしナポレオンの進軍はとどまるところを知らずリュネビルの和約によりラインラントを獲得した。イタリア付近にはフランスの傀儡国がいくつもできた。

そしてついに第三次対仏大同盟である。 (Third Coalition)エジプトから逃げ帰ったナポレオンは得意の弁舌で皇帝の地位につく。周辺国はあわてて対仏同盟をつくって対抗する。グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(イギリス) オーストリア帝国(神聖ローマ帝国) ロシア帝国 ナポリ王国 スウェーデン王国。

ここで面白いのはプロイセンが中立を宣言することである。強力な陸軍を持ちながらもナポレオンには対抗できないと見た。ナポレオンもプロイセンを敵に回しては勝利は危うくなる。ナポレオンは気前よくハノーバー領をさしだして中立を維持させた。

三帝会戦と言っても3人が同時にケンカしたわけではない。問題となる戦力はロシア、オーストリアの連合軍対ナポレオンの軍隊であった。

同年すでにトラファルガー沖の海戦でネルソンに敗北していた彼は陸戦にかけた。

わざと弱点を見せ戦いにおいて有為な高地に敵を誘い込み主力で背後を突き一気に殲滅した。

その高地にたった彼は下の湖に滑り落ちる敵兵を救うことはなかった。湖は凍っていた。大砲で湖の氷を割ると敵兵を溺死させた。

自分がエジプトを脱出する時は恥も外聞もなくほうほうの体で脱出する。厚顔無恥にも勝ったことにして皇帝の地位を略取する。あぶないと見るや将兵の血であがなった土地も平気で献上する。勝てるときは残虐この上ない。

対仏大同盟は7次まで結成される。当分はヨーロッパの歴史はナポレオンの歴史になる。

Posted at 2012/01/11

Alea jacta est(賽は投げられた)

2012年11月15日 | 西洋歴史

どのクルマを選ぼうか悩むなんて楽しいかぎりだ。むしろ迷っていた時が一番楽しかったりする。たかが車だが岐路に立っていると言える。同じ悩みでも自身の進退をかけた悩みはそう簡単ではない。

たとえ自らの進むべき道はすでに決まっているときですら、スムーズに決心がつくとは限らない。後ろ髪をひく要件は多い。進むかとどまるか。ときには心臓を絞るような苦しさがむしろ一本道の上でこそ起こる。

カエサルも悩まなかったわけではない。自分の兵は疲れている。ガリアは寒く病も多く攻め込むとゲルマンが森から進出した。その地獄からやっと抜け出てきたのだ。(ガリア戦記)ところがローマで待ち受けるポンペイウスは元老院を抱きこんでいた。元老院は庶民派のカエサルに対抗して十分な戦費をポンペイウスに与えている。まさに虎視眈々だ。多くのファクターが彼を悩ました。

彼は兵の前ではいつも勇ましいが戦略は冷徹だ。熱情に浮かれた戦をしたことはない。

まるで共和制の末路を見るようにルビコンの前で兵は混乱した。烏合の衆はいくら衆議を重ねても結論が出ない。そんな低能の衆愚に我慢ならんのだ。俺が元老院のアホどもに決別を宣言したとき民衆は歓喜した。俺はこのような烏合の衆から断絶していなければならない。なぜなら俺はカエサルだからだ。

そう考えるとカエサルは踏ん切りがついた。微動だにしない表情を見せることは兵に対する責任だ。そのためには微動だにしない信念が必要だ。

兵はたじろいだ。武装してこの川を越えることはローマへの反逆になる。そこに羊飼いの少年が現れた。少年は笛を吹きながら川を渡った。カエサルは兵を鼓舞する。この少年にできることをお前たちはできないというのか。

兵はローマへと進軍した。兵やカエサルが咎めをうけたことはない。カエサルは元老院側の軍を壊滅させる。処罰をしようとするものを滅ぼしたのだ。

それどころか元老院派のポンペイウスをエジプトまで追いつめて殺している。

羊飼いの少年はカエサルの演出だった。

サイコロはもうすでに投げられているのだ。スキージャンプはもう斜面を滑りだしているのだ。僕たちは過ぎたことに悔やみごとを言い、ああでもないこうでもないと言いがちだ。

ルビコンを渡ったらもう何も言ってはならない。

写真は現在のルビコン川、と言っても溝だな。

Posted at 2012/01/05

Fashoda incident

2012年11月01日 | 西洋歴史

この事件は1898年におこる。ひとまず内容はおいて、周辺の状況から見る。1914年には第一次世界大戦がはじまるわけだから戦争を予見した各国は原料資材の供給地域としてこぞってアフリカを侵略した。その中で一歩抜きんでていたのは大英帝国である。200年以上も早く産業革命を成し遂げていたイギリスはもはやアフリカを奴隷供給地と見る必要はなく、アフリカは産業革命のための原料を供給するために存在した。

このファショダ事件が起こる前からもアフリカ中央部の奴隷貿易という経済的価値の高さに列強の利害は対立した。ベルギーのレオポルド2世がコンゴの領有を宣言すると英、葡はそれを妨害した。その混乱に乗じて口を出してきたのがビスマルクである。ビスマルクは実効支配力を持てない国は新たな領地を領有することができないとする原則を認めさせた。(ベルリン会議)

これは遅れて出てきたドイツにとって通行権と商業圏を確保しようという裏があったが、いざ蓋をあけると確実な領有が求められたベルリン会議の精神にのっとりアフリカは確実に分割されていった。つまりドイツにとっては経済価値の低い土地にしか入り込む余地は残っていなかった。

アフリカの西の端に橋頭堡を築いたフランスは広大な地域に仏領という冠をかぶせつつ東進した。仏領西アフリカの面積はアフリカの4分の1におよんだ。

すでに南アフリカを植民地にしていたイギリスは北方へボツワナ、ジンバブエと進んでいた。すでにエジプトを保護領にしていたイギリスにとってはアフリカ縦断は目前だった。鉄道を敷いて効率のよい富の収奪を夢見ていた。奴隷は必要ない。イギリスにとっては各国が狙っているような奴隷の拉致はとっくに終わっていた。奴隷たちを販売したカネですでに産業革命は完成していた。今度は物資だ。

イギリスはいったん北に回るとエジプト、スーダンを経由して喜望峰にいたろうとするアフリカというケーキを縦に南下してナイフカットしようとした。ここでイギリスは思いもよらぬ障害にぶつかり10年のロスをする。南スーダンにおいてマフディー一派が頑強に抵抗した。一時マフディーは全スーダンを支配下に置いた。

この10年間のロスが英仏両軍の歩調を合わせる役割をして互いに気づかぬままファショダで出くわすこととなる。

現地軍は一触即発だった。

この危機を救ったのは皮肉にもドイツだった。海外進出を狙うドイツは両軍にとって脅威だった。ドイツに怯える両国は1904年英仏協商を結んだ。これにより相互にお互いの既得権を認め長年の英仏の対立に終止符がうたれた。

両国はドイツの国力増強の前にかろうじて利害共同体としてスクラムを組むことができた。わずか第一次大戦開戦10年前のことである。

ベルリン会議でドイツが得た土地は役に立たない土地で、このことも第一次大戦の遠因になった。

妥協すべき時期と内容を心得た英仏の勝利を象徴する事件であった。

Posted at 2011/12/12

zbrodnia katyn

2012年02月02日 | 西洋歴史

1939年8月独ソ不可侵条約が結ばれるとヒットラーは待ってましたとばかりにその8日後ポーランドに攻め込む。ポーランドの西半分はドイツ第三帝国の一部になった。一方スターリンもヒットラーから攻め込まれる心配なく安心してポーランドの東半分をとる。

こうしていわゆるポーランド分割が完成する。この時点においては、ファシストとコミュニストの利害は一致していた。

スモレンスク郊外のカチンの森はソ連領になった。

さあお食べと一個のポーランドパイを二人の駄々っ子の前に差し出したらどうなるか。最初は仲良く食べている。しかしお互いに相手より自分が強いと信じているから、その仲良しがいつまでも続くはずがない。

最終的には利害が反してくるという正確な見通しをもっていたのはヒットラーの方だった。安心しきっていたスターリンはソビエト連邦の周りに寄り添う社会主義衛星諸国どもを夢想していた。青二才のくせに兄貴より喧嘩が強くなっては困るのだ。子分のくせに強いポーランドはありえない。

スターリンは得意の手を使う。粛清。粛清。2500万人!しかも自分で殺しておいてこの2500万人は名誉の大祖国戦争の犠牲者に参入した。つまりナチスのせいにした。スターリンの猜疑心には限度がない。

スターリンの行った粛清の総数からすれば微々たる数だが、このとき邪魔になったのが捕虜となったポーランド将校だ。彼らはおそらく戦後ポーランド復興に際して重要な人物になる人たちだ。ポーランドを再起不能にしておかなければならない。

彼らは冬のカチンの森に消えた。

人殺しスターリンはナチスがポーランド分割線を破って侵攻を始めても、しばらくは反撃をためらったほど仲良くパイを食べたがった。なのにナチスの侵攻はとどまるどころか自国ソビエト領に深く入り込んできた。こうなるとスターリンの怒りは尋常ではなくなる。ふられた女の逆恨みだ。ナチスとしては当時の国際政治の常道をより巧妙に実現していただけだ。

スモレンスクを占領したナチスドイツはカチンの森に4000人のポーランド人将校の虐殺死体を発見する。
ゲッペルスは映画まで作ってコミュニストの残虐性を弾劾する。大佐級の米軍捕虜、ロシア人捕虜、各国の赤十字が証人となった。そして多くの動かぬ物的証拠をあげた。しかし、信じたものはナチス自身以外いなかった。

戦後ニュールンベルク裁判でアウシュビッツと並んでカチンの森の虐殺事件をソ連から批判されたナチスは一言言い放つ、「恥知らず」

ソ連の破廉恥ぶりにはあきれる。ただ僕は言いたい。ただ一人でもいい。東京裁判では連合国に恥知らずと言えた戦犯がいたか。無能な戦争指導ぶりだけでも十分に戦犯だが、負けて裁判に立たされると途端に言いなり小僧になりやがる。残虐非道さにおいて連合国は日本軍の比ではなかった。

ナチスドイツの将軍はニュールンベルクで言った。たしかに残酷な人殺しはした。しかし、お前に言われたくはないぞ。

東京ではついぞ聞けぬ発言だった。

 
 
 
 
 
 

Cleopatra VII Philopator

2012年02月01日 | 西洋歴史
パンとサーカスでローマ市民を愚弄しごまかし続けていた為政者たちもついに自らの足元に火がつくこととなった。元老院を中心とする閥族派と護民官をよりどころにする平民派の対立が激化したのだ。それまで軍事力の基礎をなしてきた大土地所有農民は政争からはつまはじきされる状態になった。

グラックス兄弟(Gracchus )の兄の方は落ちぶれたローマの軍事力を再建しようと無産市民への土地配分をしようとした。元老院は激しく反対し兄を殺す。弟は兄の失敗を繰り返さないため騎士階級も味方に引き入れ彼らにアジア属州の徴税権を与えた。ところが貧民に安価に穀物を配給する法を作ったためまたも元老院は反発し弟も殺す。

こうして改革者は出ては消えた。ローマは血を血で洗うすさまじい格差社会になった。(内乱の一世紀)

ここで剣闘士(奴隷)の反乱や小アジアの反乱をおさえた男がいる。ポンペイウスだ。クレオパトラはポンペイウスの子供、小ポンペイウスに色仕掛けで近づく。こうして父親、大ポンペイウスによってエジプトがローマの属州にされるのを防いだ。

ポンペイウスとクラッススとカエサルは第一次三頭政治を組んでいたのだが。クラッススは戦死する。このとき微妙に成立していた三角形は瓦解する。急遽ガリア(フランス)から戻ったカエサルはギリシャにポンペイウスを打つ。エジプトの内乱はローマにとって利益ではないと判断したカエサルはエジプト王家の内紛の仲裁を試みる。

弟と結婚していたクレオパトラはふたたびカエサルに迫る。弟はまだ子供だった。寝具に18歳の全裸の自分を包ませて54歳のカエサルの前の転がった。

彼女の豊富な語学力、7~8ヶ国語を自由に扱い、その実力は通訳を必要としないほどだったという。絶妙なユーモア。これも国際交渉には必要なことだ。ばかはジョークも分からず真に受けてすぐ怒る。そしてこれが一番大切なことだが、相手の話をよく聞くこと。カエサル(シーザー)でなくとも自分の話をよく聞いてくれる女には惚れてしまう。

二人はカエサリオンという子供をもうける。クレオパトラは弟を殺しさらに下の弟と結婚する。プトレマイオス14世である。その時5歳だった。

エジプトのためにはほかに方法がなかった。全身全霊をかけてエジプトを守っている。カエサルに忠誠を誓うことがこういう結婚をすることだった。巷に低能どもが美人だどうだと騒ぐのがいかに愚劣であるか分かるはずだ。大国ローマを前にしてほかにどういう方法があったというのか。

事実上の夫であるカエサルに従ってローマも訪れている。クレオパトラの絶頂期である。

カエサルは元老院の権限をはく奪するとついには終身の独裁官をめざすようになる。ローマ市民にとってはパンとサーカスの再来であった。しかし、これには条件が付いていたことをカエサルは忘れていた。無限にローマに向かって奴隷が供給されなければローマは崩壊する。そしてそのような奴隷はどこにもいなかった。
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Posted at 2012/01/05 19:44:30

Affaire Boulanger

2012年02月01日 | 西洋歴史
民意をよく反映するのが民主主義であるが、ただそれだけのことにすぎず、それに正義とか真理の実現を期待してはならない。ところが、民意とは多数でありこの多数に逆らうときは独裁専制の汚名を覚悟しなければならない。

少数のくせに実権を握って、とか不正で多数をねつ造したなとか。

しかし、それほど多数は価値あるものでありえてきたか。熱狂する多数は真理に見える。多数の行進は正義の行進だ。

ブーランジェ。生粋の軍人だ。立派な軍歴を持ち最後は普仏戦争で活躍する。その後国防大臣となり憲法改正を主張する。軍人がすべてそうであるように彼もまた反議会主義的であった。その後プロシアとの危機が高まるたびに彼の軍事的側面からのみの発言は民衆に熱狂的に支持された。

であるなら多数から支持されているのだから何もめんどくさい議会など必要ない。プロシアへの復讐心は党派を超えて燃え上がった。

ブーランジェの名前を出しさえすれば急進派からナポレオンの残党、ブルボン王党派、亜流のルイフィリップ派までフランス各地の地方議会で当選した。ところが彼は中央議会では少数派であったため直接民衆に訴える方法をとった。きわめてわかりやすく単純に煽情的に。反共和制各派を大同団結せしめた。それが可能であったのも間違いなく「民意」によるものであった。さあ、怨念のプロシアへの反撃だと思った瞬間。事件は起きた。

彼のカリスマが急速に終息する時が来た。クーデターで政権を奪取せよと迫る群衆の前に彼は本性を現す。愛人マルグリット夫人の故郷に逃亡する。マルグリット夫人が死ぬと墓前で自分も自殺する。

こんな男にフランスの将来を託してはならなかったのだ。だが、だれが責める資格があろう。ブーランジェは多数だった。

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Posted at 2011/12/13 15:21:48

Affaire Dreyfus

2012年02月01日 | 西洋歴史
" Ma protestation enflammee n'est que le cri de mon âme. Qu'on ose donc me traduire en cour d'assises et que l'enquête ait lieu au grand jour! J'attends. 私の抗議に熱が入りすぎているとしたら、それは私の魂の叫びだからです。私を重罪院で裁く勇気をもたれ、証人尋問が白日の下で行われますように! 私は待っています。 "(下記に引用もとを記す)

 L'Aurore 紙の一面に「J'Accuse...! 私は弾劾する!」という大見出しで掲載されたエミールゾラの一文である。当時作家として不動の地位を築いていたゾラは何故、見ず知らずの一介の大尉のために作家生命をかけたのか。

右に左に熱く揺れたフランスがもっともぶざまで醜態をさらしたのはこの事件である。フランス国民は懲りていなかった。ナポレオン気取りのへぼ軍人を対独の急先鋒にまつりあげたのは右翼だった。なんのことはないブーランジエ本人は不倫の果てに自殺するという醜態をさらした。すると国民の矛先はドイツからユダヤ人に変わった。

アフリカでもイギリスと衝突寸前である。(ファショダ事件)ドイツには工業地帯をとられ国内は極度のインフレにあえいでいた。金融資本は人の弱みに付け込んで私腹をこやしている。それはユダヤ人だ。分かりやすい短落だ。

熱狂する世論には最高のいけにえが用意された。ユダヤ人でドイツのスパイ。ドレフュス参謀本部付砲兵大尉。フランス陸軍情報部は状況証拠から彼を逮捕する。証拠とされた書類の筆跡は彼のものとはほど遠かった。

彼にまったく問題がなかったわけではない。周囲とうちとけない彼の性格は疑念を持たれる可能性があった。高潔で誠実な人柄が彼の無罪を確信させた、と書くこともできるが両者が混在しているのが人間だろう。

裁判は南米の悪魔島での無期懲役を命ずる。映画「パピヨン」の舞台となる孤島だ。ここで絶望しない彼の勇気をたたえたい。周囲の人たちの緻密で懸命な証拠収集によって彼の冤罪が明白となる日が来た。

低質な権力というのはいつもメンツしか頭にない。あきらかに別人が犯人だと分かっても彼の刑は10年に減刑されただけだった。苦労の末真犯人が別にいるという証拠を見つけ出したフランス情報部の将校は左遷される。また犯人にはわざわざ無罪であるという宣言まで出された。

フランスの世論は二分され左右は激突した。冒頭のゾラの叫びに対し重罪院はゾラに有罪判決を下す。しかしこのような猿芝居をいくらつづけても、権力があがけばあがくほど偏狭な愛国者に有利な材料は出なかった。

後日ゾラとドレフュスは会う。不幸なことにその会合でドレフュスは狙撃され負傷する。僕がすごい軍人魂だと思うのは、ドレフュスはその後軍に戻り第一次大戦を戦うことだ。

http://minkara.carview.co.jp/userid/849485/blog/24814592/
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Posted at 2011/12/22 12:03:53

どこかと似ているパンとサーカス

2011年12月29日 | 西洋歴史
Pax Romana (ローマの平和)としてローマが空前の安定と平和と支配力を備えるに至るまでには共和政ローマの崩壊した後の一世紀にわたる内乱の時期を経なければならなかった。キリストも生まれていない時期のことである。日本では吉野ヶ里で弥生人が稲作を始める数百年前だ。

今回はPax Romana の成立以前のローマ社会について述べる。紀元前のローマは共和制を敷いている。そこでの最高意思決定機関は元老院である。彼らは政治とともに軍事に深くかかわり戦争による略奪によってとてつもない富を築いていた。さらにはその富にものを言わせて没落した農民から土地を収奪した。その土地での労働は戦争捕虜たちに奴隷労働をさせることにより一時的にしのいだ。というのは奴隷はそのままでは増えないため奴隷の獲得が常に必要となり慢性的に奴隷不足を招いた。(latifundia)

土地をなくした農民はローマに流れ込んだ。この中でも比較的裕福なものは騎士(equites)の身分が与えられ上層市民となった。彼らは自由に地中海貿易に乗り出すこともでき属州の徴税、公共事業の監督などをしてイタリアに大所領を所有した。

一方、中小土地所有農民は没落した。彼らは兵士でもあったが武装が自前であったことや戦死、長い時期従軍することで家を開けることなどにより没落し無産市民になった。

格差社会の成立だ。

いくら無産市民とはいえ民会(このころは政治の実権は民会に移っていたが選挙で選出されることには変わりない)の投票権は持っていたから政治家たちは彼らに金品を与えたり競技、ショーを催して自分の支持者に取り込もうとした。

コロッセウムに入るとひとの胴体ほどもあるパンが観客席に投げ込まれた。下では剣闘士がライオンと戦っていた。図書館、風呂ほとんどの施設が無料化され政治家は票欲しさに財政を無視した。(パンとサーカス)

無産市民はこのことに味をしめ投票権を盾に過大な要求をするものがあらわれた。

当然に政治は派閥対立を招き閥族派(optimates)と平民派(populares)に分かれて対立した。閥族派は元老院を中心に伝統的権威を重んじる考え方で、平民派は平民の権利の拡大をめざそうとした。

今の政治とどこが違います。できもしないことを、票を獲得するためにカラ約束する平民派。パンとサーカスではいずれ財政赤字に陥ります。閥族派も大きなこと言っちゃあだめでしょ。貧乏人の弱みをよく知って、彼らのコンプレックスを利用し票をまきあげるのがお上手なこと。

ローマはこの時期1世紀ほど混乱したあと三頭政治を迎えます。共和制ローマは終わったのです。三頭の中からまず抜け出したのはユリウス=カエサル(Julius Caesar)でした。シーザーその人です。帝政ローマの時代が続きます。民衆は熱狂しましたが、それでいいですか、何が残りましたか。

宥和政策

2011年12月29日 | 西洋歴史

1935年アドルフ=ヒットラーは怯えと怒りと野望の中にいた。断じて行えば鬼神もこれを避くという心境か、ベルサイユ条約をほごにして再軍備を宣言した。英仏はヒットラードイツよりも何よりも戦争そのものに怯えていた。

ところがドイツにとってはベルサイユ条約下では絶望という戦争がまだ続いていたのだ。200億倍ものインフレ。すさむ人心。割譲された領土。ドイツにとって起死回生のチャンスは全くない。と、思われた。

ヒットラーは自信家ぶっているだけでこのときの気持ちを薄氷を踏む思いだったと回想している。ドイツを永久に奴隷に貶めるベルサイユ条約を拒否した。ドイツ国民がこれ以上絶望という屈辱に耐えねばならぬ理由はない。

しかし、英仏が恐怖と考えていたのはドイツの再来ではなく戦争の再来だ。英仏には2500万人が死んだ戦争はもうたくさんだという厭戦気分がしっかりと根付いていた。

ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain、英首相 )は独伊との開戦を何とか回避しようとミュンヘン会談に乗り込み悪魔の取り引きをする。

1938年、その会談でヒトラーがズデーテン地方(チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。

つまり、ファシズム諸国の領土的要求に譲歩することによって戦争を回避したのである。弱小国が割譲されて消滅するよりも戦争の被害が少ない方がましだったのだ。

会議はどうしても戦争を避けようという空気が強かったため、アジアでいえば日本の満州侵略に目をつむった。ドイツの小都市で開かれたヨーロッパ列強の虚々実々の駆け引きは国際世界を見渡していた。

彼自身、ナポレオンの後始末をしたウィーン会議のように列強間の協議によって紛争を解決しようという意識しか持ちあわせていなかった。

その結果何が待っていたか。たしかにチェンバレンは戦争を回避した政治家として全国民的英雄になった。一方でヒットラーは常にイギリスに対して開戦するぞと脅しをかけ、脅しが有効であることを実感していた。ヒットラーの手中にはまったチェンバレンはヒットラーが無傷でズデーテン地方を第三帝国内に収める事ができるように保証を与えたのと引き換えに、イギリスの安泰を図ったのだ。(ヒットラーのチェコ侵攻を黙認する代わりにヒットラーはイギリスを攻めない)

しかし、はなしはここでおわらない。ヒットラーは言った。これ以上の領土的野心はないと。チェンバレンはお人好しにもそれを信じ、第1次大戦の10倍の死者を出す第二次大戦を不可避にしてしまった。なぜならヒットラーの領土的野心は大日本帝国と同様とどまるところを知らなかったからだ。

かつての我が帝国の植民地が傲慢にも空母を作る時代になった。竹島問題みたいに無為無策ではすべてを失う。チェンバレンの宥和政策が如実にそれを示している。

学べ!宥和政策は敗北主義だ。日中友好も日韓友好も口に出した瞬間負けだ。


Acquedotti di Roma

2011年12月29日 | 西洋歴史
ローマの水道橋だ。ギリシャと違い愚にもつかぬものを大理石から掘り出して喜んでいた時代とはことなる。実用的だという言葉で片付けるにはあまりにもそう大過ぎた。

アウグストゥスの時代になると大規模なものがつくられ現在にも残っている。その精密さを想像できますか。イタリア人気質を漫然と見て歌ばかり歌うスケベの集団という印象が定着しているが、じゃあデトマソをみろ、ランボルギーニを見ろ。フェラーリしかり。トリノ、ミラノの工房をのぞいて職人気質と実力の高さに学べ。

とくに水道橋が作られたのは五賢帝の時代だ。五賢帝の一人ネルバは後継者問題に悩みつつも土木工事には精力的に取り組んだ。トラヤヌスはローマ帝国の版図を最大に広げ周辺属国どもの心肝さむからしめた。ハドリアヌスはハドリアヌスの壁で有名である。イギリスの北部まで進出し万里の長城まがいを築いた。

彼らはいずれも水道建設に熱心であった。彼らは危機感をもってこの工事にあたっていた。水が止まればローマは滅びる。彼らの予測は当たった。パックスロマーナは水道によって維持されていた。

建設された水道はイタリアだけで350キロメートルに及んだ。フランスではPont du Gard、50キロメートル。

すべて水の流れ落ちる勢いだけで動いている。1kmあたり34cm。これはなんという精密さだろう。CDにきざむレーザービームの精密さに匹敵する。しかもフランスはその水道橋を19世紀後半まで使った。イタリアにいたっては現在でも使っている。

現代のイタリア人にもその精密さは十分にある。子供のしつけもしないで夜中にファミレスに行く日本人の方が倫理的にはるかに劣る。ちょっと頭を使う問題にぶつかったとき、さっと変わるイタリア人の表情を見たことがあるか。

能天気に紅白や野球の心配ばかりしているあなた方とは違う。

こそこそ改良したエンジンを作ることはしなくても発想を根本から変えた革命を時々起こすからその基礎的素養に感心する。

自動車雑誌を見ていると買うような人のレベルに合わせているのは資本主義だから仕方がない。それにしても本質からそれた話に気分が悪くなる。こんなのは本屋でパラパラすればよい。僕は掃きだめに鶴がいた気がした。

MAZDAでかしたじゃないか。一時景気が悪かったとき、一台買っても二台買っても三台買っても100万と言って売っていたととーちゃんから聞いた。

ロータリーはカビの生えた技術だ。大体いつの発想だと思っている。あとはこそこそ改良していくだけじゃないか。

エンジンの正道をいくレシプロで革命をやるからすごい。 マツダは燃費を従来比で15%も高めることに成功した。同社は「(圧縮比が高く、原理的にガソリンエンジンよりも高効率な)現行のディーゼルエンジン並み」との表現にとどめるが、SKYACTIV-Gの最大熱効率は38~39%程度とみられ、現行の高効率と言われるガソリンエンジンから一気に5~6ポイントも高めたようだ。

圧縮比は14に高められている。ノッキングとの戦いはいかほどであったか。シリンダーヘッドの形状はコンピューターシュミレーションなんかでできるはずない。発想と絶望と再起のカット&トライだったであろう。最大トルクを4000で出しているのにも真面目さを感じる。馬力とトルクを混同しているバカを対象に売る以上高回転高出力のエンジンを作らないわけにはいかなかっただろう。が、よくぞ4000に抑えた。出足のいい運転しやすいねばりのあるエンジンができたはずだ。ロングストロークもよくやった。技術者念願のエンジンができた。日本人はいいクルマに乗ったことがある人が少ない。もう気違いじみたオーバースクエアのエンジンはやめよう。

                                日経ものづくり12月号から一部の数字は引用しました