か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 81

2021年07月20日 | 韓国
<前回のつづき>

[3.1運動と柳寛順]

3.1万歳運動は1919年第一次世界大戦が終わった後、中南米がスペインとポルトガルから独立しアメリカ大統領ウィルソンが民族自決主義を主張するあわただしい雰囲気の中、隙間を縫うように発生した事件だ。この運動は当初の朝鮮独立運動としての意味を持ってはいたが、当時合併(日韓併合)以後10年とたたない状況下で日本からの莫大な投資と近代化の恩恵を受けながらすさまじい発展をしていた朝鮮社会において独立というのは百害あって一利もないことであったし時期尚早でもあった。しかしながら、このような世界情勢と民族の利害関係を無視したまま何人かの名望家を中心に宣言文を朗読し朝鮮人を扇動し始まったのがこの万歳運動(万歳事件)である。次に述べるのはこれと関連して韓国の国定教科書に載った内容である。




『万歳の示威が拡散すると日帝(日本帝国主義、日本のこと)は憲兵、警察はもちろん軍人までも緊急出動させてデモをする群衆を無差別に殺傷した。ジョンジュ、サチョン、メンサン、スアン、ナモン、ハプチョンなどでは日本軍警の銃撃で数十名の死傷者が出たし、華城、堤岩里では全住民を協会に集め監禁し火を放って虐殺した。またデモに参加したという理由で無数の人々が投獄されたし、日本警察に非人道的な刑罰を受け多くの人々が命を落とした。当時万歳運動のデモに参加した人員は200予万名であり、日本軍警によって殺された人は7500余名、逮捕された人は4万7000名であった。放火された民家は720余戸、教会50余箇所、学校が2か所だった。』(国史、p.344)




200余万名といえば当時の人口1700万の中で12%を超える数字だ。この文章を読むとまるで大部分の朝鮮人がデモをして万歳運動に参加し、この人たちに対し日本警察と軍人たちが無差別銃撃を加え殺害したかのように描写されている。教科書でこのような文章を学習した学生たちは1919年に起こったことを脳裏に刻むだろう。我が国(朝鮮)の人々は日本の統治を望まなかったために独立を要求する平和的なデモをし、悪辣な日本軍警は万歳を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち刀で刺し殺したというのである。人々が隠れている建物に向かって機関銃弾を撃ち込み虐殺する場面を(教科書は)描いているのだ。実際にこのような場面だったならおそらく1919年3月の朝鮮半島は文字通り生き地獄を彷彿とする状況であっただろう。このような(教科書)の描写はすさまじい事実の歪曲だ。(被害の)数字も勝手にとってつけた状況が読み取れる。


殺害はおろか体罰すらもなかった3.1運動の非暴力抗戦で3月1日から4月30日までに万歳を叫ん全人口の2.7%である46万名に過ぎなかったし……(申福龍、韓国史の新視点、2001)


権威ある歴史学者がデモに参加した人員を46万名に過ぎなかったというのに(韓国の)国定教科書ではこれを200万名に膨らましているのだからほかの数字や文章がいかに誇張されてものであるか容易に推測できる。当時、すべての朝鮮人は合併条約(日韓併合)によって自動的に日本国籍を持っていたのであり、朝鮮人にも日本のすべての法体系と裁判制度が適用されていた。この当時日本は軍事独裁体制ではなかったしデモや言論、出版などに対しては基本的な自由が保障されている国だった。したがって、当時デモをしたという理由だけで日本警察が朝鮮人たちを捕まえていったはずはなく、ひどい場合は逮捕もありえただろうが主導者とか暴動を起こした首謀者でなかったら訓戒程度で放免された状況であったようだ。事実、日本警察が韓国の教科書で描写されたように残酷な鎮圧に出ていたならば万歳運動が3か月も続くはずはない。当時朝鮮総督府は3か月が過ぎても騒擾が治まらなければ本島(日本)から軍を呼び鎮圧しようとしたがこのようのすれば人命に被害が出るのが不可避であると判断した李完用子爵は新聞を通じ3回にわたって朝鮮民衆を丁寧に説得しそのことによって3.1運動は平和に幕を下ろしたのである。



<次回用メモ> p35の下から