か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

乗りたいから手に入る

2018年09月09日 | クルマ

 

 

外車ショウに行った。今回はマセラティについて書く。1000万から2000万の間らしい。

ものすごい金持ちにとっても価格は関係ないが、ものすごい貧乏人にとっても関係ない。しかも価格は安くなっている。戦前フェートンは2500旧円、約5千万した。バイクですら家にあったインディアンは家より高いと親たちは言っていた。

こう書くと文の内容よりも、ひがみ、妬み、嫉み、が先に立つ極貧層の感情が沸騰するのが見える。たとえ頭は悪くても貧困感情の克服には、教養が必須なのに、できないだろう。だらけた大脳を停止させた生活を判のように繰り返す中ではマセラティは来ない。

歌とお姉ちゃんと酒にうつつを抜かすのがイタリアであるというイメージがある。そんな生き方をするのは、日本の下層貧民たちだ。ルネッサンスは、錬金術は、どこで起こったか。さあフェラーリはどこの車か。

LINEUPにSUVなんかあるので気に入らないと言ったら、係のお姉ちゃんは意味も分からず返事をしていたが、偉い人が出てきて「私も同感です」と喜んでくれた。maseratexiは天下のマセラティですよ。走るかまぼこのバケモンを作っちゃあいかん。そんなこんなを2時間話した。本音で、本気で話さないと車は売れない。軽ならよかろうが。

 

色、皮の縫い目、メーターの位置、エンジンルームのゆとりと絶妙な配置。カネを出せば日本で作れると思うのは浅はかだ。日本が応仁の乱でシリア状態だったときケプラーは天体の運行法則を証明した。コーチはそれ以前からの馬具職人だ。

ケプラーの法則(まともな高校なら文系でもできる積分を使い3つの斜線部の面積は等しいことを発見した)

僕は思うのだ。この手の車を何度か買ったが、乗り出すときのえもいえぬ満足感をぐうたらは知らないで死ぬ。夢の実現は一度に来ることはないが現金で外車を買ったとき、人生の夢の一部がやってきたと感じた。

これは狂って働いて、残業して、上司の皮肉に耐え、客の不当なクレームに耐え続けることからは、やってこない。

だからこんな車は500万になったらいかんのだ。上品な満足感を知る人だけのものだ。500万になったら車高を落とし、ひどいのになると後ろ半分に炎のペイントをし、ガリガリこするタイヤを履き、フロントには100円のクレーンゲームの成果が並ぶ。そしてあおる。皮シートの手入れの時間はない。乗るな。タイヤに泥が。

何の知識もない従業員がいたのは残念だった。

じゃあお前は何に乗っていたんだ、と言いたかろう。家の横の狭い駐車場にいつも苦労して止める自分の車の心配をしろ。

食事の話は書き飽きたので諸兄の行かれない Classic Concertについて。これも奥が深い。下手だが時々僕も演奏する。Vn.

秋は温度が安定し客の服装もいいのでいい音がする。昼の部は音が悪い、小さい。上には上がいる。無教養は、『頭が高い(ずがたかい)』。…なんてことをこの次に。

 

 


熊本ツーリング Ⅲ  僕を守る弁財天

2017年05月31日 | クルマ

Byke touringに行くときは、味はともかくJoyfulで食事をする。大勢で行くときは特にそうだ。Joyful(FamilyRestaurant)の窓は低くたいてい平屋建てなのでBYKEを見ながら食事ができる。

自分のバイクにうっとりしたいナルシストだからではなく、盗難防止である。見ていないとバイクは5分で消える。警察は捜査しない。女かモヤシでない限りチューボーは必ずバイク盗である。

イモビとかはやるが、一番簡単な暗号でありコンピューター少年なら誰でも解ける。チェーンロックもsecurityは同程度。

だからJoyfulの窓から監視するしかない。これは今のところ最高に優れたセキュリティーだ。150万のバイクを盗られても盗られるほうが悪いと言い切る福岡県警には、被害者が仕返しするのを止める権限はない。

一人で行くときはスーパーの玄関に停める。人目が多い。僕の背中に鉄パイプがあるので半殺しにできる。せめて頭をたたかないのは武士の情けだ。そしてこれを食う(上の画像)。お店の1/3の価格だ。

相手が多い時はそのままバイクにサヨナラする。負けるケンカをしないことが勝ち続ける鉄則だ。

それでもバイクは一人のほうがいい。群れない喜びのために乗ったから。夜中の自販なんかは怖い。不良中国人の天下だ。しかももう先制攻撃をしても勝たないと思う。年をとった。

それでもバイクは一人のほうがいい。

蛍の光

 

「光あるうちに光の中を歩め」聖書は言う。数少ない同意点だ。その時できることをやれ、か。それ以外の人格向上のための基礎教養を高める行為はちゃんとやった上でのことだが。

光が消えかかり人生を生き急ぐのは見苦しい。何もしないで静かに土に帰る退職公務員よりはましか。

消えた中学校

すこし福岡県に入ったところに辺春という集落がある。国道3号線が通ったばっかりにさびれた村だ。排気と粉塵で建物は灰色に汚れ人影はない。善き山村であったろうに。都会にとってよいものも、検証なしに村にもってきたら害毒となる。

道路とはぼんやり考えると都会が近づく魔法のルートのようだが、実際は田舎の労働力を都会に運ぶ吸い上げポンプにほかならずそれを田舎はほしがった。奴隷は鞭をほしがった。

お茶とタケノコでは食っていけない。そんな産物がありながらも、ブランド化に成功した地方だけをうらやんでみたところで、生産、流通、販売の各プロセスを学習しようという意欲がなければみんな村を捨てる。

ここには安倍の矢は一本も来なかった。

消えた小中学校

小学校が地図に見えるだけで何校あるか。中学校はどうか。すべて各一校になった。

本来穏やかなところだ。僕は近くに生まれ20年過ごした。が、道を聞くとみんな鋭い目線を返した。土地ブローカと思われたか。いやいや、こんなに高貴で相手を溶かすようなまなざしをした人が商売に来ているはずはない。僕は弁天さんに行きたかっただけなのに。

鉄筋3階建ての大きな廃校中学がある。廃校にするならなぜ鉄筋に建て替えた。元運動場は竹置き場になっていた。すさまじい人口減のためやむなく統廃合したとウソをつく。

開校当時の明治時代、人口は今より少なかった。単に経済効率を求めただけの廃校を、人口減というウソの理由をついて地元ボスにカネをばらまき合意させた。

これは次回。弁天さんも次回。

 

 


熊本ツーリング Ⅱ バカにつける薬は煙草から

2017年05月30日 | クルマ

タバコの葉は、座布団のように広い。葉巻とはよく言ったものだ。畝と畝の間をキリンのような作業車が移動していた。屋根はついていたがなんという重労働だ。人はこうまでしてタバコを吸いたいのだな。

小学生のころ、あまり行くのを許されなかった座敷や縁側のあたりに行くと、何とも甘い香りがした。僕は、家が古かったので腐敗が進み家全体から匂っていると思った。子供にとっては侵入を拒んでいる匂いだった。

その製造前の姿がこれか。花、たばこの花が咲いていた。毒だ。毒であり麻薬であり強度の中毒性がある。(4回で中毒)それはモルヒネよりも覚せい剤よりも強い効果を持つことがある。だが極めて有効な薬効もある。

痛しかゆしだが、国民を中毒にしておいて日露戦争の戦費を稼いだのだから当時から日本の官僚は優秀だ。いやなら吸うなというわけか。兵は自分の金で軍服を買い戦死したことになる。

しかし、他の物質と簡単に化合したりするので思わぬ効果が期待されている。ニコチン自体は1600年ごろの発見だが、このごろは多動症、注意欠陥、それからなんと統合失調に薬効が期待されている。

JTが煙草を売って儲かろうとしていたころには、盛んにニコチンの殺菌作用について宣伝した。しかしそれは国鉄労働組合のやり方であり持続的発展性がない。JTはタバコ屋ではない。自社菜園での多種にわたる100年の植物研究こそが膨大な資産となっている。

ビタミン剤もB系はニコチン由来のものであるし、パイロットの眠気覚ましに与えられる錠剤もある。

 

馬鹿に付ける薬はない。僕は何度この言葉を自分に言い聞かせてきただろう。バカなんだからあきらめよう、かかわるまい、花を持たせて置こうじゃないか、ここで損をしてやろう、どうせわかってくれまいが、… そうだな、分かったらバカじゃないな。あるいは分かるのは分かるが一瞬の事であり5分したら忘れる鶏のような気違いもいるさ。

これらの気違いにつける薬がほぼ実用化されている。これは革命だ。

日韓交渉は必要ない。韓国人に無料配布しよう。日韓合意を反故にするとは言いださなくなるしこれまでの支離滅裂も反省するだろう。

わが外務省もたいしたことはない。外務省は条約交渉の経験はほとんどなく能力も意欲もない。上層はガンガン昇進し天下りする。腰を据えてかかわる人に対する評価は、低い。能力や学歴のない3流だとされる。

教養のある通訳が不足している。条約にかかわる膨大な付帯、附則、合意、約定…、およびその施行令、施行規則、指示、通達、それぞれの当該国が示した対案、大枠のA案B案すら課長が書く。この人たちが退職したら日本は韓国の官僚に法律をかいてもらうようになる。

お分かりのように、このニコチンスーパーメディスンは外務省も飲むべきだ。意地張らずにJTから試供品でも貰えよ。

 

 


熊本ツーリング

2017年05月29日 | クルマ

 

熊本に行く途中、道の駅でツバメが飛び回っていた。

「飛燕」とは本当にいい例えだ。帝国は哀れな飛行機しか持ちえなかったが、名付け方は最高だ。鐘馗、隼、震電、烈風… 艦船もそうだ。

揚力が少ない形をしながらよく何千キロも旅をして、わざわざこの道の駅に巣を作る。フィリッピンやインドネシアのほうが彼らの環境はいいと思うのだが。

そばで見るととても飛燕は小さかった。

昔、本物の飛燕操縦士は僕に語った。戦闘中宙返りをするとたいてい敵機は引き離されたが、ある時、戦闘中にOILが漏れてきてキャノピーが見えなくなった。計器は半分以上が死に上下の感覚もなくなった。戦闘員は敵にやられるのは何ともない。整備不良で死ぬのはごめんだ。整備士を殺そうと思った。生きて帰ったら。

だが、整備士が悪いのではなく、まだ日本には液冷、FI、直列倒立V12は無理だったのだ。蜂のように舞いグラマンに襲い掛かる姿を葦原の少国民は夢想したに違いないが。

そんな日は来なかった。

いつの世も、歴史の当事者は「ほんとは違うんだけどな」という思いを抱くのだろう、上空で戦う者と地上勤務者との間にすら、すでに認識に差が出る。これに時間軸が重なり国が異なると真実はおろか事実ですらゆがめらる。

真実は発生した時から劣化が始まる。

その一例を見つけた。熊本県でアスベストの採掘がおこなわれていたところの近くに、小さな古い墓がある。間違えて碑の写真を撮ったが墓もすぐ隣にある。

秀吉の無謀な朝鮮出兵は強制連行の始まりのように朝鮮の教科書には書かれている。戦略のない進軍は必ず敗北する。いくらトラ退治をしようと敗北する。敗軍について帰国した技術者集団がいたという面もあろう。

陶工、紙すき、鍛冶、土木、の先進技術を持った人が日本に来たのは事実だが、手のひらに穴をあけてひもで繋いでで引きずってきたのではない。第一そうすれば朝鮮から肥後の国まで命が持たない。

村人は大勢で出迎えたのだ。慶春がもし帰りたがっていたらいつでも帰れた。慶春は日本での生活を選んだ。日本人も慶春のあと何代にもわたって墓の世話をし、差別なく村祭りにも加えた。

↑の写真にある説明文は60年代のものだ。すでに最近のものとは文面が違う。

 

人工のものがない池はきれいだ。みずすましがいた。水草は小魚に日陰を作り、風が吹き驚いたように蝶が飛んだ。人生を生きるには一定の頑張りが必要だ。頑張れば頑張るほど、キリギリスにならずにアリになれる。

しかしえてして、良い人間になるための努力であるはずが、相手とのいさかいに負けまいとするアリジゴクでの足の引っ張り合いになる。そこに、良い人生のための努力は影もない。街にある幾多のアリジゴクはいやだ。

 

 


そろそろクルマと遊んでやろう

2016年10月23日 | クルマ

ただ乗るだけなら毎日乗ってるが、

音に注意して、エンジン、デフ、サス、ボディー、耳を澄まして乗ることはあまりしてなかった。20年も乗ってると、ありえないような故障が、何故か波のように周期的に襲ってくる。工具はあまり持たない主義だが「馬」だけは命の保険だ。

無いときは数年何もないが、あるときは立て続けだ。とくに日本は車検制度がある。質の低い整備士がいじると返って、気違いにようにねじを締めたり、或いは自分の頭のようにねじを締めなかったり、本当に迷惑な制度だ。

外国もあるんですよとご丁寧に教えてくれる人がいるが、それが何だ。今何の話だ。

事故が困るなら自賠責を十分高くして無保険車を一掃すべきだ。車を売るため安いカネでクルマを買える制度にしながら整備士の失業を防ぐため愚にもつかぬ車検制度は維持する。頭が悪いな。

無保険車に備えた保険なんておかしいだろ。車両価格程度の保険料を義務的に先払いして不良チンピラは車に乗せてはならない。

政策は、産業と事故死のバランスをとっているだけで事故を0にする気はもともと無い。

 

そこで車検などという人の失対事業にカネを払うのは気に食わないので業者には出さない。私は神ではないので保険はたっぷり入っている。いけない薬を吸って幼稚園に突っ込んでも大丈夫だ。

ただ、クルマの異常には度を過ぎるほど気を使う。

最初に書いたように耳を澄ますには夜走るしかない。コペンのような貧乏人のクルマは言いがかりをつけてもカネにならないのでかえって安全だ。ところが、中型の窓を開け、一人をアピールして流すと勘違い悪(ワル)が向かってくる。

人間は捕まらないならなんでもする。それが福岡県だ。

走行中、カチンと音がして室内が臭くなった。前左がとくに臭い。

サブシリンダーのピストンが少し折れていた。経年劣化と考えよう。20年。いくらクルマがジジイになってもそこらのレクサスとぶつかったとしても完全に踏み越えていく。何があっても死なないクルマだけが持つ安心感を大衆が知る日は来るか。

欠けたというほど少しだったので削って整えそのまま使うことにした。パッドとの間に破片が詰まって凄まじい摩擦熱を上げていた。下図はかけた部分。

とてもねじが硬かった。熱カジリだろう。チンピラよけに鉄パイプを積んでいたのが役立った。

 

 

 


Chrysler LLC

2016年10月07日 | クルマ

いいクルマだ。たしかに最近の電動自転車は性能がいい。静かで燃費もいい。

ただひとつに絞っていうと、2000ccのクラウンが電動で走る場合と、6000ccのクライスラーがターボだの電動アシストだの小細工なしに走るとき、両者には隔絶し、交流しない人生同士が乗っている。

4気筒のクラウンなんて歴史を50年さかのぼらせる反動的行為だ。貧乏人は触覚に関しても無神経だ。dealerは振動は6気筒のときよりないといったが、無神経な人がその日常の延長として乗るから感じないだけで、ブルブルした感じがわからないならバカだ。

映画のはじめに昔はライオンが吠えていた。その咆哮がある。Good Old Days に満足して何が悪い。

 

ところが、クライスラーも今は往年の輝きは無い。イタリアの芥子粒のような会社に吸収され消えた。クライスラーが全盛の頃、アメリカにある他の自動車会社と結託して、市内電車の会社のほとんどを買収した。

市内電車に客を盗られるのを嫌ったBigメーカー達は買収が終わるや否や市電を廃止した。所有権の或るものを売ろうと捨てようと買おうと勝手である。

こうして庶民は義務的に車を買うしかなくなった。

これには反論があるが、少なくとも市内電車に乗るという需要のある低所得者層にとっては、移動の自由が奪われたのは事実だ。(反論については、WIKI参照)

 

あこぎな商売だが、資本主義は弱者の泣き言を一顧だにしないことで成り立っている。それはもろにクライスラーにも降りかかった。

市内電車も、でっかいアメ車も僕は残念だ。

 

日本の若者はそれどころではない。三本の矢はまだか。何の変わりも無いぞ。


呻(うめ)くコンベア

2015年10月17日 | クルマ

世の中は偉くならないとだめなようだ。

うすうす分かってはいても、偉くなる競争だけが人生を決めるなんて面白くない。もちろん組織を飛び出した人間が組織にいたとき以上の収入と地位と時間と充実感を得ることは皆無である。

ところが僕は悲しくなる。勲章を下げた社長の誇らしげな顔、外面(そとづら)をよくしようとおかれたおもちゃの兵隊、すなはち運動部。

皆そいつらはまやかしじゃないか。管理職が一日でもゆびをすりきらしシートを縫ったか。

心を痛め(うつ)になる労働者がなんと多いことか僕は知っている。

 

色違いの同じ径、長さのボルトでさえ、位置を間違うとお前のせいで日本の自動車工業がだめになったかのように叱責する。その労働者が派遣であろうものなら便所に連れ込んで暴行するときいた。

僕らはこうしてできた車に乗っているのか。僕はもうそんなクルマ要らない。

労働者はほとんど意識朦朧としたなかでタダの機械と化しノルマを果たしている。

 

こんな工場も外見はとても清潔で平和な植栽に満ちている。重役の頭の鋭さ、変則的な事態に対する対応力、どの指示はどう通したほうがいいか、プロジェクトを立ち上げるか否か、役所との関係はどう裁くか・・・

これらの指示にダラダラ思考していてはならない。間髪入れず指示、命令、指導をし、短く会議をする。

彼らが優れているのはよく分かる。高校のときからその人間性と求心力は群を抜いていた。

 

僕が言いたいのはここからだ。

だからといって100倍の給料に値するのか。だからといって工場内のユートピアで読書しつつ転寝(うたたね)ができるのか。一方で労働者は気違いになってはたらいているじゃないか。

神でもないのに人を秒単位で管理できるのか。

これが資本主義だといわれそうだ。そのとおり。だから僕は工場を見学し次の投資に備える。ただし、それは資本側からの見方だ。人のきつさを数字や時間や金額で見ている。そこで心を痛めても労災になったためしはない。それどころか労働者が実際に大きな怪我をしてもごまかしてしまう。

資本からは労働者なんて遠くにいるアリさんに見えていることだろう。

しかし、労働者にとってはマインドコントロールされて与えられた工程をこなし遅れずミスなく、かぶせ、止め、確かめることを繰り返す地獄の場所だ。

従来、僕はこの会社の株価が上がらないことが不思議だった。

分かった。理由のない存在はない。元来、投資家は会社の利益が上がればいいのだが、

ところが、呻ききしむコンベアの中で人を廃人にしてまで儲けなくても良いと思うはずだ。僕はそう思った。

 

 

 

 

 

 


防基源(방기원・パンキヲン・大元を断て)

2015年02月13日 | クルマ

防基源(방기원・パンキヲン・大元を断て)今では普通の車になったが、5,6年前までは大変な高級車だった。腐っても鯛で、インテリアの隅々にまで良心的な配慮がある。

下品な車は、見えないところはもっと下品だ。

僕は、丁寧で頑丈なつくりには満足しているが、最近、コトコト、ギリギリ音がしだした。

ある人に教えてもらった。車をゆすってもう一人が車の床下にもぐり聴診器で原因箇所をつき止めろ、と。

そんなこと言っても先生。先生にとっては聴診器は商売道具でも、僕は学校の先生だから、聴診器とかあるはずない。買いに行った。

医療機器屋の親父が出てきて、スケベににやっと笑いこう言った。「いろいろ使い方はあるけんね(あるんだもんね)。」

僕は健全に使おうとしていたので、買わずに自作した。江戸時代の聴診器のような形をしたのを金属で作った。おまけにリサイクル屋で小型の鏡を買った。(歯鏡、35ミリ、やや大型)

僕は気持ちが焦ってとりあえずやたらにシリコングリスを塗り始めた。分解できるところは分解したが22とか19とかのナットは力が要るしクルマがグラッとすると心臓が凍る。ロッドの多さに参った。

バカが作るとこうなるな。ああでもない、こうでもない、これが足りない、の繰り返しでジャングルのようなサスが出来あがっている。一度でもババーンと悪路で底をやっちゃうとかならずロッドは曲がるな。

このクルマにとっては4000や5000CCを支えることが基本で、コーナリングを争うくるまばかりではないのだ。鉛筆のようなロッドはやめろ。

で、一向にグリス、試乗、グリス、試乗を繰り返しても音が消えない。クルマを揺らす役に動員した子供たちはいい加減飽きてきたようだ。

万策尽きた僕は、デフを疑った。音は中央からしている。当たりだ。私製の聴診器にもがんがん響いた。

まさに防基源。ポイントを抑えなければだめだ。的外れは見苦しい。関係ないところにグリスをつけても無駄だった。

日産部品に買いに行き、オイルを入れ替えるとしーんとした空間が戻った。今現在もその勝利感に酔っている。

5キロ/ℓ走ればいいほうだが、僕は電気車には乗らない。くずカスひがみは影でこそこそイラつくようだが、これは僕の車の乗り方だ。

電気が好きなら西鉄電車に乗れ。





 


背中の勲章が見えるか。

2015年01月23日 | クルマ

背中の勲章が見えるか。 男は「Z」を売り続けた。DATSUN あるいは NISSANの Fair Lady。当時の新車価格は100万。

とてもそこらのセールスマンが、手の届くものではなかった。ただ、男はほしかったのだ。L20は、くそガキも含めてあらゆる男の垂涎のエンジンだった。L20を抱いて寝たいぐらいだ。

それから50年経ったのだ。今の基準で論じるのは車をまったく知らない松任谷ぐらいだ。たった130馬力に当時の男は気絶した。

だが、なめてはいけない。たしかに公害撒き散らし、有鉛で人は本当に発狂し死んだ。それでも有鉛は必要だったのだ。オクタン価は140。10㌔/hからトップギアで加速した。ただ踏み込むだけでホイルスピンした。Zは、よく研がれたナイフだったのだ。

おまいらよく働いたからカローラをローンで買える賃金やろうか。そうして資本は世にも陳腐なくるまを庶民に買いあたえる。

くやしかったらZに乗ってみろ、といわんばかりだ。100万とは今の1千万だ。今はレクサスなんて誰でも買えるし品の悪いのまで乗っている。そうなるとレクサスに価値は宿らない。

どうせおまいらは買えんのだ、パブリカに乗れ、サニーに乗れ。そういわんばかりの車格、価格。

悔しいじゃないか。男は、もみ手すり手で横柄な客に愛想笑いをし、セールストークをする自分がいやだったのだ。

隅から隅まで知り、惚れ込んだZ。ところが、あぶく銭を握った無知な客に愛想笑いをしてZのキーを渡す。そんなことは死んでもいやだ。

40年。こうして男は生きた。

僕は彼を車に乗せると200キロ/hで走った。ストレス発散だ。疫病神どもを吹き払おう。

こらえにこらえる人生を強いているという自覚が日産にはあるのか。ただみたいなカネで人を使うことの犯罪性が分かるか。人生を奪うことだぞ。

「会社を辞めるよ。」 男は言った。

「Zはどうする。」と、僕。

「ほしがるだけで俺は終わったよ。」 やがて彼は病気になった。 Zに乗ってから死んでほしい。彼とは連絡が取れなくなった。





 


身障者用駐車スペースか

2014年10月11日 | クルマ

健常者がそこに止めるのは、よくないぐらいわかっている。だが、人のあら捜しをして、やっと人の不正を見つけると、ヒステリーを起こして正義の味方になったつもりで責め立てる人がいる。

物事はエスカレートする。「私は身障者用駐車スペースに駐車しません」というステッカーを貼る人もいるそうだ。善人ステッカーだな。

僕も、「私は万引きはしません」というステッカーを貼ろう。これだけに終わらない。一旦停止はきちんと止まるべきだ。赤信号も停車すべきだ。人が迷惑するかも知れぬからだ、否、場合によっては事故につながる。

さあ、「私は一旦停止で止まります」、「赤信号で止まります」・・・車は必ずステッカーで埋まる。

僕は、この欺瞞的な上から目線が大嫌いだ。そしたら一人で嫌っとけば、と、アホがまともな反論もできないで悔しがる声が聞こえる。

本論
そもそも狭い駐車場に多くの買い物客を詰め込もうと、一台あたりの駐車スペースを狭くしたのが問題だ。みんな身障者用スペースぐらいあれば何の問題もなく、欺瞞的、偽善的カッコつけ野郎の登場する余地はない。

そうなることは偽善野郎自身、いやだろう。自分たちが駐車できないかもしれないからだ。だが僕は測った。そのスペースは一般と長さ(奥行き)は変わらず幅が1.5倍弱だ。

つまり、すべての駐車スペースを身障者用並にしても一般の駐車スペース数が2/3になるだけだ。3000台の駐車場が2000台の駐車場になったとしても大勢に影響はない。概算すると最大で20メートル余計に歩くだけだ。平均15メートル。

それでも、偽善者は自分が買い物をするとき、不便になるのがいやだろう。そこまでして身障者を優遇しようというほどの善意は、たいていない。自分が損をしない限りの善意だから欺瞞だというのだ。

あるいは、身障者は2台分占拠して白線をクルマの真ん中にしても許されることにすればよい。ドアを開けるスペースが必要なだけだ。入り口の横にある必要はない。駐車場の地形を考えて合理的な位置に作ればよい。そうすれば一般の駐車スペースに影響ない。

日本はどうせ商売人の商魂を合法化するため駐車に関する面積の規定があるはずだ。その規定を論拠に、違法ではございません、というのはくも膜下に出血の始まった人だ。

いつそんな話をしたか。もっと物事を多角的多面的歴史的本源的(Sollen)に捉えよ。

貧しい労働者がたまの休みに、ホークス優勝だあ、イオンは2割引だあ、とモールに殺到し家の玄関のように狭い駐車場にカメラつきで曲芸駐車をする。

アメリカのコストコなら一台分の駐車スペースに、日本の軽は縦でも横でも3台は駐車できる。アメリカは広いから?じゃあ香港は。

ミラーこすったとか当て逃げされたとか、貧困にトラブルはつき物だ。

僕も貧しいからその手のトラブルはよーくある。ラーメン屋で踏み殺そう。

と、なる前に偽善者たちは真の原因について頭を使え。








 

インチとミリのハイブリッド  2

2014年10月06日 | クルマ

SYLPHYに試乗した。かくれた名車といわれるだけあって、日産らしく商売下手なクルマだった。

なんといいクルマだろう。しかも、200万から300万ぐらいで来る。吸気よりもきれいな排気を出す。オカマハイブリッドではなく、エンジンで勝負する。

FFだのCVTは嫌いだがそれは僕の好みであり、客観的に言って安く良い車になった。そこで、僕は思う。誰もがクルマに乗ることはいいことか。

田舎では必需品だとかよく言われるが、そういう限界集落をあちこちに作り日本の95%が過疎に悩むようになったのは、偶然とか、いつの間にか、とかいう問題ではない。農村が元気だった頃から若者は都市に流れ続けた。そしたらいつか村は空(カラ)になるだろう。

つまり偶然ではなくて当然の帰結だ。自民党の無作為は田舎を犠牲にした。経済と握手をしたこの政党は日本に過疎と過密の両極端を残した。

だから、クルマが田舎で必需品になったのは、別に原因があることだから、頭ごなしに(アプリオリに)クルマに乗る理由に田舎を持ち出してはいけない。

同様に、都会は地下鉄やバスがあり駐車場もなくクルマは不要だ、と決め付けるのも頭がよくない人のすることだ。ある人にとって面白いものを他人がとやかく言うのは犯罪だ。

つまり、どこに住んでいても、産業用のクルマは別にして乗用車に限れば(SUVもVANもあるぞとか屁理屈を言うなよ、アホ)、なければ即死するほどのものではない。

通勤。買い物。そんなもんバイクで行け。60キロ/リットルだ。おまいらの好きなエコだろ。

僕は覚えている。親父が決死の思いで家より高価なブルーバードを買ったころ、スカイラインのGTXですら198万円もした。田舎では家が3軒買えたが、それは117の最低のグレードの価格だった。

ピニンファリーナを自慢しジウジアローにあこがれた。カネをケチり出たばかりのカップヌードルをすすり、自販機コーナーで地元のおつむの弱いチンピラとけんかしたり仲良くなったり、一緒にガソリン泥棒をしたり・・・

悪いか。悪くない。今はバイク泥棒も見逃され、人によっては自動車学校はタダじゃないか。

言いたいのは、車を家族ドライブだ、通勤だ、コンサートに行くんだ、と、実用のみに貶(おとし)めてはならないということだ。

キャブの構造を知り、変速機を勉強し、デフの絶妙なギアの配置に技術者を尊敬する生き方をなくしてはならない。どうしてこんなことを思いついたのだろう、どうしてこんなところまで配慮しているのだろう、と。

機械音痴を自慢する乗りっぱなしのアホ。人生を怠惰に生きる自分の低脳を、声高に叫んではいけない。

こともあろうに、その大切にしていたエンジン用のインチのスパナを工具箱ごと盗られた。僕の車庫は狭く、縦に車やバイクが並んでいる。整備をしていたが、工具箱を入り口の門において昼飯を食いに家に入り、出てくるとなかった。

僕は最初に車をもらったときうれしくて工具箱を木で作った。その木製工具箱ごと消えた。インチにも特殊工具にも傷をつけたくなかったから木製にした。買えばわずかな金額だが、45年の苦労が詰まったものだ。

何もあえて僕から盗ることはないのに。どうか返さないで。顔を見たら僕は何をするだろう。







 

二つの Caliper(キャリパー)

2014年09月23日 | クルマ

通常は、はさみ測定工具をさす。対象物の外径をそっと両側から挟みこみ測定する。ノギスは一種の機械式計算機で、最初に考えた人には感服する。

機械は単純なほど完成しているんだ。バカは複雑にして完成していくと思っている。ソユーズはもちろんアポロにも日本のクルマ一台分のCPU能力はない。月の周回軌道に入る予定がないなら、今のクルマにある電子機器は必要ない。

メーカーは卑怯にも安全性という錦の御旗を掲げ、あったほうがいいか、そうではないか、と迫ることでクルマの価格を吊り上げた。

一方で、車体はまるでダンボールだ。一度ひしゃげ始めるとせんべいになる。外力に対する抗力は強いが、一度降伏するとぺしゃんこになる。最後まで粘りつづけるクルマはもうない。

うちの近くで、電子機器満載のクルマが、行楽帰りに居眠りをしてベンツと正面衝突した。軽とベンツじゃあしょうがなかろう、で済ませてはバカだ。衝突回避だ、LEDの視認性だ。はたまたホイールだブレーキだ。僕は、そんなことグダグダ言っても何の役にもたたぬだろうが、といっている。

さらにバカはつづける。そんならベンツに乗れよ、と。貧乏人は死ねよ、と。

これは暴論だ。歩行者に対し、クルマに跳ねられたくなかったら、お前もクルマに乗れよというのとおんなじだ。

どんなブレーキも踏まなければ正面衝突を回避できない。ブレーキは部分である。クルマは全体である。メーカーの甘言はケーキの上の小さなビスケットが増えたことを強調する。ダボハゼはそれに目を奪われる。メーカーは大笑いをする。

Caliper 、ブレーキのキャリパーについて。

同じく挟み込むものには変わりはないが、キャリパーの片側だけにピストンをつけた片押し式と、両側からディスクを挟む両押し式がある。これはあたかも片側だけから押すより両側から押したほうがブレーキがよく効くような気がする。否。

二人でそれぞれ紐の両端を持って引っ張っても、紐の片方を壁に固定して一人が引っ張っても紐の張り具合はおんなじだ。片押し式の場合はキャリパー自体がフロート(移動式)になっていて、ピストンが押すとキャリパーも反作用として反対側から押す。モノとしては片押し式が賢くて高級だ。逆ではない。機械は単純なほど完成している。

こう書くとせっかく大枚をはたき6ポッド、両押し、メッシュホースを購入した人は、お怒りのことだろう。あ、キャリパーカバーもあった。

両押しもいいことがある。何でもはさめるオネーチャンのものは、片押しでは、なんか変則的だ。腕がきついからと片手で押すのはいかん。やはり両押しの中にうずもれたい。






曲がった道をなぜ走れるか、はっきりさせようじゃないか。

2014年07月06日 | クルマ

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なぜか。当たり前じゃないか。ハンドルを切るからだ、とアホは叫ぶ。黙れ。世の中はお前ほど単純ではない。

クルマの側からの考察はいったん置いて、道路の側から考える。どちらの側も数式の塊なので、高校のとき数列やLogに苦しんだ人は拒否反応を示す。こればかりは本人の責任ではない。面白いものをつまらなく難しく教えた学校が悪い。

わざわざ分かりにくく教える低脳教師はたいてい実力がない。あるいは、実力があっても気が狂っていて説明能力がない。生徒が数学を面白がるはずがない。

目の前に簡単に開くケーキの箱があるのに見過ごす人間になってしまう。

一番の障害になっている数式を使わずに述べるよう努力してみることにした。ほんとは、数式とは文章だ。口で言えないことは式でもいえない。数式は何も特別のことをしているのではない。ちょっとほかの手段より速く、同時に多くのことを表現しているだけだ。垣根は高くない。

もしカーブが円だったら。カーブにさしかかる前までは、ハンドルは直進の状態であっただろう。が、カーブに入るや否や即座にハンドルを切りカーブのあいだはその角度をじっと固定していなければならない。

ぐるぐる円周上を車やバイクで走っているとき、ハンドルは一定のはずだ。これに直線と円の繰り返しがくると危険だ。直線から円に入るとき急激に(不連続に)ハンドルを回すことになり、それはどんなに円を大きくとってカーブ(曲率)をゆるやかにしても、この急なハンドルさばきからは逃れられない。

じゃあ、じわーっと曲がりはじめじわーっと直線に戻るにはどうしたらいいか。アウトバーンが最初に使ったカーブがある。コルニュスパイラル(Cornu Spiral)。

螺旋階段を下から見たとき、皆さんの好きなターボの吸気側の渦巻き、一部のタービンフィン、一部の歯車・・・

いったいどんな曲線か。

蚊取り線香で考えよう。蚊取り線香が5センチ燃えたとき、10センチのとき、15センチのとき、と考えると、5センチを基準に取ると2倍、3倍と燃えたわけだ。その燃えた距離、つまり道路の長さはカーブのきつさ(Rの少なさ)に比例しているという曲線がコルニュスパイラルだ。

この蚊取り線香の上を車で走ってみよう。一定のスピードで走るとカーブに従って一定のスピードでハンドルを回していくはずだ(円周上ならハンドルは固定)。僕らは滑らかな曲がりを獲得した。

道路のカーブとターボフィンのグニャッと曲がった美しさ、漏斗を上から見たときに漏斗に入っている線。これらが簡単な同一の式で表現されるなんてすばらしいことだ。

すすんだ距離×半径(カーブのきつさ、曲率)=一定    日本のほとんどすべての道路はこの曲線だ。なぜか道も広いのに事故が多いカーブがある。この曲線を取っていない。

コルニュスパイラル、=オイラー(Euler)の螺旋、=クロソイド曲線(Clothoid Curve)

 x = ∫cos(τ2)dτ

 y = ∫sin(τ2
)dτ
    
           積分区間[0:t]

     x : x座標値
           y : y座標値
           t : 曲線上の距離


 




  


TOYOTAは売れる車を作ります。(工場見学)

2014年06月12日 | クルマ

とくにトヨタはそうだな。待合室に並んだいろんなカットモデルまがいのエンジンを見ていて思った。馬鹿はこのあたりで楽しんどけよという姿勢がありありと分かった。何なら86とか出せば喜ぶんだろ。

Made in Japanにかぎらず、190Eなども肝心なところはこれでもかというほどがっしり造っている。そして気絶するほど高い。190Eのワイパーは本来無理があったようだ。カバーが壊れたので買いに行ったら5万といわれ腹が立ったので作ることにした。

つまり、貧乏人は来るな、という姿勢だ。こういう考えもよい。なぜよいか。エンジンつきベビーカーで安売り商品に突進するために、車に乗るという人もいるだろう。そこにTOYOTAは付け入ったわけか。資本主義だな。

買い手は、夜叉のように髪を振り乱し、子供と親と叫び合いをして、悲しいいがみ合いの人生を送り、20%引きとかいうシールが、腐れかけの肉のトレイに貼られる瞬間、その狂乱に拍車がかかる。いったい、エンジンつき買い物カートのどこに個性がありどこに人間らしさを見出せるか。

IndustryはCultureである。産業の雄たるTOYOTAは社会的責任を自覚せよ。

決定的なことがある。四隅には必ず傷を入れた悲しい軽とか言う買い物カートは、文化を作ることがない。

いつかはクラウン、といった頃のクラウンには文化を作る意気込みがあった。性能がよければいいクルマか。アホには永遠に分からないことだ。

レクサスが文化を創ることはない。何ちゃってレクサスは論外だが、一応クルマといえるレクサスですら10年、20年たって何台走っているだろう。クルマ文化の一翼をになう前にくず鉄になる。

Assen工程を主に見たが、ハイアールが冷蔵庫を作るのとまったく変わらない。いや、不良品率がどうとか、稼働率がどうとかバカがいう。僕は製品に品位がないといっている。アホはすぐ違う話をする。

これは日本人が本当のいすに座ったことがないからだ。本当のドアを開けたことがないからだ。どうでもいいメーターパネルに異常にこだわる。携帯やスマホを見て育ったせいだ。

僕のクルマには三角窓がある。若い人は知らないし中年は笑い老人は懐かしがる。これで十分涼しい。笑っちゃいかん。

といっても渋滞したらとても暑いので乗る人からの文句が絶えない。何年ぶりかにクーラーをいれたらベルトが泣き出した。クルマの下にもぐってベルトを締めた。久々車を下から見るとホレボレした。電車のレールのようなラダーフレーム、ミルク缶を重ねたようなステアリング、昔僕が作ったグリスニップル。上手に隠したハーネスの処理。いたるところにあるサービスタップ、ホール。

クルマの作り手は、乗り手が機械音痴のバカではなく、ある程度の工作力とそのための時間のある人を前提に考えていた。昭和40年代は車庫に車を置いた。そしてその車庫には一応の工具がそろっていた。

クルマとゆっくり仲良く時を過ごした。

おまいらなんだ、会社か、早出か、仕事は休めないか、機械は分からないか、・・・

そんなおまいらは、向上心のない、他人のために人生をつぶす、思想上の怠け者だ。




  


水琴窟(すいきんくつ)

2014年04月01日 | クルマ

深さ2メートルぐらいの穴を掘り、大きな甕をさかさまにしてそこに埋める。上になった甕の底に穴を開け、わずかな水が甕の底に流れるようにし、穴からポタポタ水が落ちるようにする。水は手水(ちょうず)の水を引いてある。

これが想像に反して金属音がする。キーン、カーン。エコーのかかった音は気持ちを豊かにする。

からけんよ。みんカラに対してカリカリするのは止せ。馬鹿の相手をするのは馬鹿しかできないといったばかりじゃないか。

しかしこの邸宅は広い。本間の12畳は、レゴブロックで建てたような悲しい貧乏な家がすっぽり入る。そこを仕切るふすまをとると24畳だ。

最近の家は手を伸ばすと必ず何かに当たる。ここはキャッチボールができる長い廊下に大の字にひっくり返っても、雨戸の桟までは20センチはある。

床の間は20センチも高く、ロストテクノロジーとなった本当の漆の床框(とこがまち)だ。

寒い。だが精神を病む暖房があるよりましだ。庭は、僕のような分からない人が見るとただの雑木だが、分かる人が見ると国宝だそうだ。

福岡県八女市。そばを食って饅頭を食ってお茶を飲むのもいいが、そこらの退職へたれ校長が面白半分にはじめた十割蕎麦が、果たして来年来たらやっているか。

この家はまだあと200年は楽に存在する。

思うに、僕らは年々本物から遠ざかっているのではないか。本物が高いのは当たり前だ。それがいやなら100円ショップでMade in Chaina を買えよ。車もそもそもMade in Japanのころは気絶するくらい高かった。

だから、今は安くなってよかったか。バカ。それは車ではない。エンジンつきベビーカーで満足するのは人の勝手か。断じて違う。そういう低脳が、本物を知らずままごとにクルマに乗るから、本物がなくなっていく。

キャブで十分だ。やさしい加速を知らんだろう。250キロぐらいで抑えるべきだ。だからFIはいらん。本当のメッキを知らんだろう。目を刺すようなチカチカするメーター類しか知らんだろう。クルマを野ざらしにしておいてせっせと洗車する。変態だな。ひどいブツブツにきびのようなLEDがそんなにいいか。昆虫系の顔をした高級車がはやりだが、金持ちは美醜の区別ができるぞ。メーカーはチンピラ成金に受けようとするな。FF車の後輪にどうしてディスクが必要か。ドラムで十分。汚い粉体塗装をするな。塗装とは塗るものだ。ちゃんとワックスをかけた車に乗ったことのないやつばかりになった。吸い込まれるような漆黒の塗装がほしくないか。

日本のクルマをだめにしたのは、おまいら貧乏人だ。百均で車を買うから馬鹿車だけになった。

水琴窟の音を聴け。古来日本人はこんなにすばらしい音の世界を持っていた。

本物を求めよ。まがい物で我慢するまがい物の人生をどうして望むのか。

福岡県 八女市 木下家(境屋)住宅  水琴窟がある

関連情報URL : http://www.suikinkutsu.com/